このへびの形のつまみのことを、蛇鈕(じゃちゅう)と言います。
そのうち2つはへびの目、他の125個はうろこを表していると考えられています。
これらの模様(もよう)が、金印がいつごろ作られたのを知る手がかりになりました。
金印が作られた時代、中国では、はんこは持ち主の地位や身分を示(しめ)すものでした。
はんこをあたえられた人は、いつでも身分を示せるように必ずはんこを持ち歩き、なくさないようにひもを通してひものはしを腰(こし)に結びつけていました。また、はんこに通すひもの色も地位や身分によって決まっていました。
よく見ると直線はなめらかにほられていますが、曲がり角では何度も細かいみぞがきざまれているのがわかります。
1mmの中でこのようにほり方を使い分けるのは、中国の皇帝(こうてい)のためにはたらく、すぐれた技術(ぎじゅつ)の持ち主が作ったはんこであることを示(しめ)しています。
金印の材料の95.1%は金で、ほとんど酸化(さんか)することがないので、作られて2000年もたった今でも金色にかがやいているのです。
どうして へびの形?
(複製品 オリジナルは中国国家博物館蔵)
2000年以上前から中国では、はんこのつまみにさまざまな動物の形があり、形によって使い分けられていました。
皇帝(こうてい)には伝説の動物『螭虎(ちこ)』、皇太子(こうたいし)には『かめ』、北や東の民族には『らくだ』、南の民族には『へび』のつまみのはんこがあたえられました。
金印はへびのつまみなので、当時の中国では日本の奴(な)の国が南方にあると考えられていたことがわかります。
金印が発見されたころ、へびのつまみのはんこは他にありませんでした。しかし1956年、中国・雲南省(うんなんしょう)で「滇王之印(てんおうのいん)」という2000年以上前のへびのつまみのはんこが発見され、へびもつまみに使われていたことがわかりました。
丸い文様(もんよう)でわかる 製作年代
これは1981年に中国で発見された かめのつまみのはんこです。2000年ほど前、広陵王劉荊(こうりょうおうりゅうけい)にあたえられたはんこであると中国で確認(かくにん)されています。
大きさ、重さ、文字の書体などは、金印とよく似ています。そしてかめの甲羅(こうら)の縁(ふち)や足の丸い文様が、金印のへびの文様とそっくりです。
金印と同じところで作られたのではないかと考えられています。
かめのつまみのはんこによって、金印が作られたのは2000年ほど前であることが裏付(うらづ)けられました。
「漢委奴国王」どんな意味がある?
「漢委奴國王」の文字は、「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」と読むのが正しいとされています。
「漢」は中国の王朝を表していて、「委」は民族(みんぞく)名、「奴」は部族(ぶぞく)名、「國王」は官職(かんしょく)名です。この5文字で、漢の皇帝がこのはんこを持つ人を「委の奴の国王である」と保証(ほしょう)したことを意味しています。
金印とふつうのはんことのちがい
ふつうのはんこは文字の部分がでっぱっていて、紙に押(お)すと文字に色がつきます。
このような文字のほり方を「陽刻(ようこく)」と言います。
金印は文字の部分がへこんでいて、紙に押すと文字以外の部分に色がつきます。このような文字のほり方を「陰刻(いんこく)」と言います。
中国で紙がつかわれるようになってから、陽刻が中心になりました。
中国では、大切な文書は木や竹に書いてから容器(ようき)に入れてひもでしばり、結び目をねん土でおおって、そこに責任者(せきにんしゃ)のはんこを押して保管(ほかん)しました。
だれかが容器を開けたら、かわいたねん土は割(わ)れてしまいます。ねん土が割れていなければ、中の文書をだれも見ていないことの証明(しょうめい)になります。
このねん土のことを「封泥(ふうでい)」と言います。はんこが陰刻(いんこく)だったのは、この封泥に使われていたためでした。
文字の特徴(とくちょう)でわかる 製作年代
金印の文字の特徴(とくちょう)と製作年代の意外な関係について、金印にくわしい石川日出志さん(明治大学文学部・教授)にお話を聞きました。
「金印にほられた文字には、いくつかの特徴があります。
それらの特徴は、およそ2000年前の中国のはんこの文字の特徴と一致(いっち)します。
そこから、金印の作られた年代がおよそ2000年前と推定(すいてい)できるのです」
どうしてはんこの材料に金を使った?
2000年以上前の中国では、はんこの材質が持つ人の地位や身分を表していました。
最高が玉(ぎょく)と言われるヒスイのような宝石(ほうせき)で、次いで金・銀・銅の順になっていました。
皇帝(こうてい)が用いるはんこは玉で作られ、「玉璽(ぎょくじ)」と呼(よ)ばれました。
どこで見つかった?
金印は1784年、福岡県北部の志賀島(しかのしま)で見つかりました。
農業を営(いとな)む甚兵衛(じんべえ)さんが、水田の溝(みぞ)を修理(しゅうり)するために大きな石を動かしたところ、光るものが出てきました。
それを水ですすいでみると、金のはんこのようなもの、金印だったといいます。
志賀島の南のはしには、金印が発見されたと言われる場所に「金印公園」という公園が整備されています。
ここには金印の発見を記念する石碑(せきひ)が1922年に建てられました。
この近くで甚兵衛さんが金印を発見したと考えられていますが、文献には「叶崎(かなのさき)」と「叶ノ浜(かなのはま)」の2通りの記述が登場し、はっきりしていません。
いつ作られた?
中国の歴史をしるした「後漢書(ごかんじょ)」には、「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也
光武賜以印綬」と書かれています。
これは「建武中元二年(紀元57年)、倭(わ)の国の南方の奴(な)の使者が貢物(みつぎもの)を持ってやってきて、光武帝(こうぶてい)がはんこを授(さず)けた」という内容です。「倭の国」は日本、光武帝は中国・漢王朝(かんおうちょう)の皇帝(こうてい)のことです。
金印はそのときのはんこと考えられるため、紀元57年、日本の弥生時代後期に中国で作られたと考えられています。
日本が初めて正式に外国と交渉(こうしょう)したことを示す証こであることから、金印には高い価値(かち)があるのです。
へびではなくらくだ ?
金印のつまみのへびの形は「もしかすると、らくだのつまみを加工したのかも?」という説があります。
コンピューターグラフィックスで金印とらくだのつまみのはんこを比(くら)べてみると、金印のへびはらくだの体の部分にぴったりとおさまります。
またへびの頭や、体の側面(そくめん)には小さな線が何本もきざまれていますが、これはらくだの体毛を表したように見えます。
中国・漢王朝(かんおうちょう)では、北や東の民族には『らくだ』のつまみのはんこを、南の民族には『へび』のつまみのはんこをあたえていました。
日本は中国から見て東の方角にあるため、漢の皇帝は最初はらくだのつまみを作ろうとしましたが、使者が奴(な)の国は日本の南方にあると伝えたので、へびに作り変えたのかもしれません。
大きさや重さは?
金印の大きさは、はんこの部分の1辺がおよそ 2.35cm の正方形。
実物の金印を博物館で見た人は、必ず「ちっちゃい!」と言うそうです。
10
円玉とほぼ同じ大きさだからです。
でも、重さは およそ108.73g。10 円玉 24 枚分にもなります。
はんこの1辺の 2.35cm
は、中国・後漢(ごかん)の時代の一寸(いっすん)という長さです。
後の隋(ずい)や唐(とう)の時代には、二寸(にすん)四方のはんこが作られました。