第15弾

パラバレーボール × ハリガネサービス

パラバレーボール(座位)・波田みか選手インタビュー

“果たせなかったパラ出場、次は果たしたい”

波田 みか 選手
2001年7月17日生まれ 埼玉県出身
小学6年生の時に骨肉腫を発症。右足に人工関節を入れてからパラバレーボール(座位)を始める。
バレーボール経験を生かした的確なトスが持ち味。日本代表最年少ながら、セッターとしてチームを引っ張る存在として、東京パラリンピックでの活躍が期待されたが、2021年の3月に水頭症、脳腫瘍と診断され代表入りを断念。東京大会では、ボランティアとしてチームを支えた。

東京パラリンピックにはボランティアとして参加しましたが、仲間たちの試合を見ていてどのように感じましたか。

波田:初めて選手じゃなくてチーム外のスタッフとして試合を見たんですが、やっぱり外国との格差は感じましたね。
目標を達成することはできなかったんですけど、(コロナでずっと開催されていなかった)久しぶりの国際大会を見ることができてすごく勉強になりましたし、次につなげられるかなと思いました。

ボランティアとしていちばん記憶に残っていることは。

波田:選手たちは選手村から来たので、会場に入ったときにしか会えなかったんですけど、会えたときには笑顔で手を振ってくれて、それにすごく感動しちゃいました。
関係者のどなたかが(波田選手の)イラストのバッジを選手みんなにプレゼントしてくれたみたいで、「一緒にコートに立っている気持ち」ということでみんながつけてくれました。とてもうれしかったですね。

3月に病気がわかって、5月に東京パラリンピックに出られないことが決まったときの気持ちは。

波田:気持ちも大会まっしぐらという感じの時に病気がわかって、すごくショックでしたね。
入院中に真野監督と連絡を取って「私はまだ出られる可能性はありますか?」と聞いたのですが、そのときに出られないということを知りました。治療もどうなるかわからなかったので、「出場できる可能性は低いかな」とは自分の中で感じていました。チームづくりもあるので、ちょっと難しいかなというのは覚悟してましたけど。

出られないことがわかってからは「じゃあ、ボランティアのほうはできますか?」とそのまま伝えました。出られなかったら大会に携わるスタッフでも何でもいいから間近で選手たちを支えたいなというのをずっと思っていたので。ボランティアは迷いなく決めましたね。

去年、同じ日本代表のセッターとしてチームを引っ張ってきた齊藤洋子選手がお亡くなりになりましたが、齊藤選手の存在は、波田選手にとって大きかったですか。

波田:そうですね。全日本でも同じセッターでしたし、私の目標、セッターとしてお手本にしていました。「東京パラリンピックに出られなくてもボランティアなどで大会に携わりたい」と、もともと言っていたのが洋子さんで、「ああ、私もだな」と感じて、今回はボランティアとして参加しました。

東京ではパラ出場を果たせませんでしたが、パリ大会に向けてはどんな気持ちですか。

波田:海外の壁はすごく大きいと思いますけど、(出場権を勝ち取って)絶対にパリに行きたいという気持ちは強いので、今回、東京パラリンピックで果たせなかった目標を次は果たせるように、練習をしっかり頑張りたいと思います。

海外選手に向けての対策は。

波田:日本の選手と海外の選手では高さが全然違うので、高さで負けていても、プレーの技術や、試行錯誤しながら考えたプレーをできるようにしていきたいです。

東京パラ以降、若い選手が増えたと感じますか。

波田:今まではいちばん年下だったんですけど、下の子が2人入ってきたので、私もチームを引っ張っていける選手になれるように頑張らなきゃなと思います。新しい選手が入ってきてくれて、やっぱり新しい風も吹くというか、次に向けて楽しみだなっていう感じです。

本日はありがとうございました。