NHK札幌放送局

北の大地で強く生きた!視聴者版ファミリーヒストリー~「ファミリーヒストリー」北海道スペシャル(2)

NHK北海道

2018年10月11日(木)午後6時10分 更新

番組に寄せられた数多くのメールや手紙をもとに、視聴者のみなさんのルーツに迫ります。激動の時代を生き抜いた人々の姿が浮かび上がります。

札幌初の薬局を始めた女傑

札幌市在住の内科医、鴨嶋ひかるさんは、ある出来事がきっかけで、番組にメールを寄せてくれました。それは、取引先の医薬品卸売会社の記念誌を見た時のこと。偶然、自分の父に似た人の写真を見つけたと言うのです。

「顔が、顔の形だとか、目鼻のパーツだとかも含めて(父親と)とっても似ていて。」(鴨嶋さん)

父親に確認すると、記念誌に載っていた女性は鴨嶋さんの4代前の高祖母、秋野キトだと分かりました。鴨嶋さんの父親によると、秋野キトは、札幌で最も早く薬局を開いた女性だったそうです。

札幌テレビ塔からほど近い場所に、秋野キトが始めた薬局が今も営業しています。鴨嶋さんは、親戚付き合いがなかったため、一度も訪ねたことがありませんでした。

薬局は営業を始めて今年で147年。店主、秋野幹人さんによると、秋野キトはこの店の創業者。

北海道大学の図書館で、若き日のキトに関する資料が見つかりました。

キトは能登国(のとのくに)、現在の石川県珠洲市生まれ。幕末の慶応4年。親が決めた結婚に反発し、2歳下の妹と一緒に家出同然で、函館にやってきました。当時、キトは21歳。妹と共に旅館で働き始めます。

「慶応3年か4年に、女性二人、妹と二人だけで北海道に渡ってくること自体がその出発から希有と言えば希有。身寄りのない、未開の地・北海道、よっぽどの決心と言うか、新しい土地で何かをやりたいという志を内に秘めていたと思うんです。」(郷土史家 西田秀子さん)

キトは明治4年に結婚し、夫婦で移り住んだのが札幌でした。当時、政府による開拓事業が始まったばかり。周囲にはまだ原野が広がっていました。ここでキトは、薬を売ることを思いつきます。開拓の仕事で、ケガをしたり、病気になる人が多かったため、需要がありました。

今回、およそ50年前にまとめられた「秋野本家・沿革記資料」という新たな資料が見つかりました。この資料には、薬局を始めた当初、よく売れた薬のことが記されていました。

「開拓使庁の官員さんによく売れたのが、朝鮮人参。」(秋野本家沿革記資料より)

朝鮮人参は、歓楽街・すすきのに向かう男たちの精力剤として人気でした。明治5年、すすきが広がる土地に遊郭を築いたのがすすきのの始まりです。

「労働者たちが何もない、娯楽も何もない未開の土地に来るわけですから、飽きて帰ってしまわないように、それは一つの労働対策として遊郭を作って、女性たちに相手をさせるっていうのが、開拓使のすすきの遊郭を作った目的だったわけです。」(西田さん)

明治10年代になると、北海道の人口は20万を超えます。ところが、コレラが大流行し、2,000人以上が亡くなりました。するとキトは、すぐに東京・日本橋へ向かいます。そこには日本有数の薬問屋街が広がっていました。

キトは「宝丹」という薬を大量に仕入れます。薬の歴史に詳しい、山岸喬さんによると、宝丹はコレラの予防薬として、明治の初めに医薬品としての許可がおり、販売が始まったものです。今も秋野薬局の店内には、当時の看板が残されています。その中に宝丹の看板もありました。キトの頑張りによって店は順調に拡大していきます。

のちに書かれた薬卸売業の機関誌に、キトの奮闘ぶりが書かれています。

「秋野キトという女丈夫がおられ、薬品の仕入れに上京されれば日本橋本町の薬品の相場があげ(あが)ったほどの勢力があったそうである。」

当時の北海日日新聞に記載された、札幌の商業に貢献した「女傑」とも言える人物を選ぶ読者投票で、秋野キトは、なんと1位になっています。2位に100票近い差をつけていました。

しかし、その翌年。キトは病に倒れ、52歳でその波乱の生涯を閉じます。
キトが北海道に渡って151年。現在、一族の15人ほどが医療関係の仕事に就いています。

鴨嶋さんは、今回分かった内容を「思った以上」だったと話します。偶然見つけた写真から始まったファミリーヒストリー。激動の時代を逞しく生き抜いた、一人の女性の物語につながっていました。

祖父は教科書に載った人物の上司

大正11年1月26日の「北海タイムス」の社会面片隅に、小さな記事が掲載されます。
北海道釧路で郵便配達をしていたアイヌの男性、吉良平治郎が凍死したという記事でした。

この事故に関する一通のメールが番組に寄せられました。

「大正時代、夫のお爺さま、津田正尚は釧路の郵便局で働いていました。部下にアイヌの方がいて、配達の途中で亡くなった事故があったようです。どんな事故なのか。祖父がどのように関わったのか知りたいです。」(津田武典さん、智惠子さんからのメール)

津田武典さんの祖父・正尚さんは、明治23年、5歳の時に北海道東部の厚岸にやってきます。正尚の父は元福井藩士で、屯田兵として、北海道の開拓と警備にあたりました。しかし、厚岸は冬には気温マイナス20度以下になる厳しい土地。ほとんど何も取れなかったと言います。

もとは武士だった農業には素人の入植者たちを、この地では先住民族、アイヌの人々が助けました。そして屯田兵の息子、正尚は19歳になると、釧路の郵便局で働き始めます。

それから19年後の大正11年。38歳になった正尚は、郵便局で係長になっていました。
1月17日、一人の新人がやってきます。

吉良平治郎、当時37歳。アイヌ民族の男性でした。正尚は平治郎に郵便配達の心構えを説きます。

「郵便物はたとえ葉書一枚であっても受取人にとってはどんなに大切なものだか分からない。非常の時には命にかえて之を護り通さねばならない。」

平治郎にとって、郵便配達はようやく就くことができた安定した仕事でした。アイヌ民族は、明治政府の同化政策によって伝統的な狩猟法を禁止され、さらに住む場所も制限されました。

当時、平治郎は妻と息子の3人家族。魚の行商や炭焼きなどをして、ギリギリの生活を送っていました。

アイヌ文化を今に伝える秋辺日出男さんは、吉良平治郎について伝え聞いています。

「狩猟民族としての生き方をすっかり奪われてしまったあと、アイヌは、日雇い労働とか、やまごだとか、体力だけで稼ぐ仕事しか残されていない時代。平治郎がああいう仕事に就けたのは当時としては、ラッキーだった。」(秋辺さん)

平治郎が働き始めて2日後の1月19日。この日は朝から吹雪が続いていました。
そのため、その日の業務は翌日に回すようにと正尚は指示を出します。ところが、一時的に吹雪が治まると、郵便物を届けられないことが気になっていた平治郎は、一人配達に出掛けていってしまいます。

「頑張るぞという真面目なだけではなくて、あそこで無理をしないと、せっかくいただいた仕事を失うのではないかというふうに恐怖心を抱いたのではないかなと俺は思う。吉良平治郎がね。」(秋辺さん)

しかし、翌日になっても平治郎は戻ってきませんでした。正尚はあちこちに連絡を取り、行方を捜します。

釧路市の郵便局に保管されていた当時の記録によると、急遽捜索隊が編成され、上司だった正尚も加わります。

そして捜索開始から3日後、平治郎の遺体が発見されたのは、郵便局から12キロ離れた道端でした。そして、遺体のすぐそばに郵便物が見つかりました。平治郎が着ていたマントに包まれ、濡れているものは、一つもありませんでした。

平治郎に郵便配達の心構えを伝えた正尚。平治郎の亡骸に対面した時のことを、語っています。

「責任を全ふした最後を此の眼で見た時は声をあげて泣いた」

事故後、正尚が中心となって同僚たちは遭難現場に慰霊碑を建設します。さらに正尚は、アイヌ民族の平治郎の責任ある行動を伝えたいと当時の文部省へ教科書掲載の嘆願書を送りました。

すると、事故から8年後の昭和5年。「修身」の教科書に「責任」という題で、平治郎のことが掲載されました。そして現在。釧路町の5つの小学校の社会科の副読本に平治郎のことが取り上げられています。この悲劇は、当時のアイヌの人々が置かれた過酷な状況、そして、命の大切さと責任を考える題材になっています。

今回、吉良平次郎の事件を知りたいとメールを寄せてくれた、津田武典さんは言います。

「北海道の郵便の歴史を担っていた一つの事件ということと、その責任。私も実は祖父から3代目の郵便局に勤めているものなんですよ。非常に感動して、誇りに思います。」(津田武典さん)

幾多の苦難を乗り越え、激動の時代を生き抜いた人々の姿をご紹介した今回の「ファミリーヒストリー」。あなたや、あなたの身近な人にも、北海道に隠されたルーツがあるかもしれません。


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2018年7月20日放送
ファミリーヒストリー
「北海道スペシャル~北の大地で、強く生きた~」より

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