NHK札幌放送局

北海道開拓 困難を生き抜いた人々の心を支えたもの~シリーズ北海道150年 第1集「開拓~困難の果てに~」

北海道スペシャル

2018年12月28日(金)午後5時30分 更新

2018年は、北海道命名から150年目。今や広大な農地の北の大地は、もとは先人たちが一本ずつ木を切り開いて開拓した手つかずの土地でした。しかし、彼らの多くは望んで開拓者の道を選んだわけではありません。国の思惑や時代の流れに翻弄され、ふるさとをあとにせざるをえなかったのです。そんな北海道の開拓者の心の記録を追いました。

伊達市 伊達家の主従関係が開拓の礎に

有珠山の麓に広がる伊達市は人口3万5,000人。明治3年、道内で最も早く開拓のくわが入った町の1つです。

開拓移民の4代目、太細重秋(ださい・しげとき)さんが代々受け継いでいるのは、先祖が開拓期の営みを描いた絵図。初めて太細さんの先祖が北海道に降り立った時、総勢250名の大集団でした。

その開拓団のリーダーが、現在の宮城県亘理町を治めていた伊達邦成(だて・くにしげ)です。伊達政宗を始祖とする仙台藩から、家臣と家族合わせて8,000人を任されていました。

伊達家は戊辰戦争で旧幕府側につき敗戦、領地を召し上げられました。領地を失った当主は家臣を養えないため、主従関係を断ち、家臣には農民になってもらうしかありません。ところがこの時、家臣たちから邦成のもとにある書状が届きます。

「農民になるということは、伊達家の家臣ではなくなること」
「給料はいらないので、農民になることだけは免じていただくよう、お願いします」

主従の絆を守り通したいという強い願いに心を動かされた邦成は、家臣のため明治新政府に頭を下げ、北海道に領地を与えられました。主従の絆は辛くも守られたのです。

しかし本当の試練はここからでした。武士とは名ばかりの開拓農民。くわやおのの数も足りず、昼夜交代しながら開拓を続ける過酷な毎日。開拓2年目には、作物が実る前に冬が到来。まったく収穫が得られず、このままでは飢え死にするものが出てしまう事態に陥りました。

そこで邦成は、政府の出先機関である開拓使を訪ねます。宿敵である明治政府に再び頭を下げ、当座をしのぐ食糧と金を借りたのです。

「なんとしても急場をしのごうと努力をしたのではないかと思います。私たち家臣の子孫から考えると非常にありがたい。私は今でも当主には頭が上がらないくらい、感謝しているというか、そういうところは持っています。」(太細さん)

さらに翌年、新政府が武士たちの身分を剥奪し民籍に編入すると方針を変更したことで、邦成との主従関係を断たれた家臣たちは、酒に溺れ、開拓への意欲を失う者が続出します。

そんな時、開拓使の相談役であるアメリカ人のケプロンが伊達を視察に訪れました。邦成は、ケプロンから教わった西洋の農機具「プラウ」に衝撃を受けます。馬にひかせると、人の20倍のスピードで、速く、深く耕すことができたのです。

邦成は、元家臣たちを前に新たな志を掲げます。

「西洋の技術を取り入れることで、日本農業の礎を築こう」

その後の伊達は、道内で最も進んだ西洋農法の実践地になっていきます。高い志が、主従関係に変わる絆となったのです。

北海道には今も、彼らの志が形になった農作物があります。砂糖の原料、ビート。明治13年、ビートを日本で初めて本格栽培したのが伊達家の人々で、日本初の製糖工場が作られたのも伊達でした。

150年前、時代の変化のなかで翻弄されたサムライたち。北海道は、彼らの不屈の魂に支えられています。

旭川 屯田兵の執念が日本有数の米どころに

日本有数の米どころ、上川盆地の旭川。ここで開かれる御田植え祭(おたうえさい)で、少し変わった歌が歌われています。

「屯田兵に始まれる あさひの川の稲作り」

屯田兵とは、国防と開拓2つの目的をかねた特殊な軍隊。明治初期に創設され、明治半ばに道内各地に広がりました。この頃、ロシアでは軍隊の強化が進められ、日本にもこれに対抗する兵力が求められたのです。

旭川に屯田兵が設置されたのは明治25年。最もロシアに近い場所に駐屯する部隊として、400名が配備されました。

屯田兵の暮らしは通常の兵士とは大きく異なりました。最大の特徴は家族ぐるみで入植し、兵役と同時に開拓を行うこと。与えられた土地はひと家族当たり、4,500坪。開墾を終えれば自分のものになりました。しかし、農作業を主に担っていたのは、屯田兵ではなくその家族である妻や子どもたち。本人は朝から夕方まで軍事訓練で、開拓にはあまり手が回らなかったのです。

この分業は、家族に重い負担となりました。そのあまりの過酷さに、屯田兵の妻が逃げ出すこともあったと言います。しかし、それを捕らえるのはその夫たち。軍に知られれば、厳しく罰せられるのです。

さらに、屯田兵にはもうひとつ、厳しいきまりがありました。実は、水が冷たい北海道では不向きという理由から、屯田兵には米作りが許されていませんでした。そんななか、ある屯田兵の家で、指令に背く者が現れます。

米どころである青森県出身の藤田貞元(ふじた・ていげん)。ひそかに種もみを取り寄せ、自宅の隅で栽培を始めました。しかし早々に露見し、隊長は激怒。水田は丸太で埋められてしまいました。それでも貞元は残った苗を栽培し、秋には収穫を得ます。

そしてその稲穂を手に改めて稲作の許しを請うたところ、隊長は黙ってうなずいたと伝えられています。

このあと、旭川では少し変わった軍事訓練が行われるようになりました。土木工事の訓練として実施されるようになったのが、水路を掘ること。軍は米作りを認めた上で、負担の大きいかんがい用の水路の建設を自ら行うことにしたのです。そうしてできあがったのが、総延長33キロの現在でも使われる水路網です。

日本有数の米どころ、旭川。その礎には、米と共に暮らしてきた人々の執念がありました。

十勝 今も息づく挑戦者の魂

十勝には、開拓の時代を思わせるチャレンジ精神の持ち主が数多く暮らしています。そんな人々の心に、偉大な者として刻まれているのが、依田勉三(よだ・べんぞう)です。十勝に入植した最初の開拓団のリーダーです。

依田勉三が生まれ育ったのは静岡県の伊豆半島。実家は、村一番の豪農で、10人兄弟の三男でした。勉三が北海道への気持ちを募らせたのは、慶應義塾に進学したのちのこと。創設者の福沢諭吉は富国強兵を唱え、日本が強い国になるには、北海道の発展が重要だと説きました。

勉三は北海道を開拓する事業家になる決意をします。

「新しい明治の時代に、自分の生き方、また国のためとか、そういうものを模索して、とにかく新しい世界にこだわって。これからの近代の国際的な農業を日本に作りたい、根付かせたいと考えて開拓者を選んだのですね。」(依田家の子孫、依田博之さん)

勉三は、29歳で開拓会社「晩成社」を設立。目先のことにとらわれず、広い視野を持とうと願いを込めました。

この時、勉三が雇ったのはふるさとである伊豆の農家たち28人。山がちな伊豆には、土地を持てない農家の次男や三男が多くいました。北海道の広い土地を彼らに貸し、小作人として開拓させようと考えたのです。

勉三は貧しい農家にとって魅力がある仕組み作りに知恵を絞りました。元手がない小作人には北海道までの旅費や種・肥料などの経費を無担保で貸し出し、収穫物は会社がまとめて引き取り、販売を代行します。さらに将来資金ができれば、耕している土地を小作人に売る約束もしました。

そして入植先に選んだのが、開拓の空白地帯だった十勝の帯広。

ところが、晩成社の事業は最初から失敗続きでした。一年目には、この地に適した作物を探るため、46種類もの種の作付けを行いました。しかし、8月に大量発生したバッタが襲来し、わずか数時間でほとんどすべての作物が食い尽くされてしまいました。その年は収穫がほとんどできず、小作人たちは、川に打ち上げられたさけの死骸を食べ、飢えをしのいだと言います。

約束が違うと怒った小作人たち3家族が、最初の年に晩成社を去りました。さらに3年後、ようやく麦や豆の栽培に成功したものの、今度は売る際に問題が発覚します。会社が用意した販売先までは、十勝川を船で3日。輸送費がかかりすぎて、赤字だったのです。

ついに、ふるさとから道のりを共にしてきた小作人たちの半数が、会社を去ってしまいました。

しかし、それでも勉三は諦めません。

次に選んだ土地は、今も会社の名前が地名に残る大樹町。ここで新たな従業員を募り、牧場経営を始めます。道内ではほとんど例がなかったバターや練乳を生産しました。ところが、時代が早すぎて、食べ慣れない乳製品を求める消費者を見つけることができませんでした。

その後も勉三は十勝各地で数々の事業に挑みますが、失敗に次ぐ失敗。会社は実質的に破産し、72年の生涯を終えることになりました。

息を引き取る間際、勉三が言い残した言葉があります。

「晩成社には何も残らぬ。しかし十勝野には・・・。」

勉三の農場が不振だった時期から少し経ち、明治30年頃になるとさまざまな企業や開拓団が入植し、十勝の開拓は急激に進みます。

北海道の開拓に詳しい北海道史研究協議会副会長の関秀志さんは、次のように勉三の功績について評価します。

「先駆的な役割を果たしたという点は評価すべきで、むしろ彼の事業の失敗を後世の人たちが分析し直して、それを十勝の開発にどういう風に生かすか、何をくみ取るかというのは後の世代の人たちの責任ではないかと思う」(関さん)

先人たちが後世に残したもの、それは北海道の田畑であり、作物であり、執念であり、志なのです。

湿地を開拓 戦後開拓の人々の心を支えたものは

いつの時代も、多くの困難が伴った北海道開拓。人々は、その時々に心の支えを求めてきました。

千葉県鎌ケ谷市に暮らす、渡邊美佐さん。かつて東京の世田谷から江別市世田谷に入植した一人です。もともと東京で音楽大学へ進学することを目指していた渡邊さん(邊は一点しんにょう)。17歳の時、縁もゆかりもない北海道に移り住むことになりました。

そのきっかけは、戦争でした。昭和20年の東京大空襲で焼け野原となった都心に、飢えた人々があふれかえりました。この時、国は食糧不足の都市から人の数を減らすことを画策し、北海道への移住開拓者を募りました。新聞広告では、住宅も農地も用意して、最大限の支援をすることがうたわれました。

こうして結成された「拓北農兵隊」。1万7,000人が臨時列車で北海道を目指しました。その後30年にわたって続く「戦後開拓」の先駆けでした。

渡邊さんたちが到着してまず驚いたのが、約束していた住宅が一軒もなかったことです。雨風をしのぐための場所は、自分の手で作るしかありませんでした。さらに、あてがわれた農地は石狩川に沿った湿地帯。およそ農業に向く場所ではありませんでした。

実は、道内の農業に適した場所は、大正時代までにほとんど開拓し尽くされていました。戦後開拓の頃には、山岳部や湿地帯しか残されていなかったのです。やらなければいけなかったのは、作物より先に地面を作ること。来る日も来る日も土を運んで湿地を埋める、先の見えない作業が続きました。

「一回、畑で馬と泣いたことがあります。最後に馬小屋に帰るのに、馬車に最後の俵を積んで。どさんこ馬とね、泣いた。」(渡邊さん)

入植の翌年、過酷な農作業の合間に、世田谷の人々が始めたことがあります。

発起人の一人、中村秀哉さん。書道の先生だった父の教育で、小さい頃から文章に親しんできた中村さんは、文集作りを始めました。

文集のタイトルは「新雪」。入植して最初の冬に見た雪の美しさを心に留めようと名付けました。子どもから大人までが、みなありあわせの紙に書き留めた文章や絵を持ち寄りました。

「草の家に住んでいたんですから。丸太とヨシと縄で作った丸太小屋に住んで、隅っこに小さいミカン箱置いて、その上でランプ灯して書いたんですよ。やっぱり人間、働いてばっかりではいられない。学問、芸術、それに娯楽も必要だと。」(中村さん)

かつて音楽大学を目指していた渡邊さん。文集には、俳句や短歌をよく載せてもらいました。

「心の糧じゃないですか。読んで楽しかったはずですけど、やっぱり書く方が楽しかったですね。年がら年中書いてました。私どうしてあんな幸せだったんでしょう。みんなにかわいがってもらった。あの時代は私、天国でした。」(渡邊さん)

文集の一冊に、こんな言葉が残されています。

「われわれ人間が生きるためには『パン』と共に心の糧を必要としている」

激動の時代のなかで、先人たちが力にしたのは、必死で見つけた心の支えでした。

2018年7月13日放送
北海道スペシャル
シリーズ北海道150年 第1集「開拓~困難の果てに~」より

関連情報

アイヌと日本人 人間として語り始める日を夢見て~シリーズ北…

北海道スペシャル

2018年10月15日(月)午後4時29分 更新

命をつなぐアイヌの人々 抗いの歴史~シリーズ北海道150年…

北海道スペシャル

2018年10月15日(月)午後4時30分 更新

親から子、子から孫へ 受け継がれるアイヌの文化~シリーズ北…

北海道スペシャル

2018年10月15日(月)午後4時29分 更新

北海道スペシャル

北海道スペシャル

地域の政治・経済・社会などの動きにしっかりと向き合い、詳しい分析と分かりやすい解説で発信します。平成30年度は“北海道”と命名されて150年目を迎えるため、開拓やアイヌなど北海道独自の歴史や文化を見つめなおす番組をお届けします。

上に戻る