2021年09月25日 (土)【9月25日のらじらー!サタデーまとめ】


8時台と9時台のMCは、Hey! Say! JUMPの八乙女光くんと伊野尾慧くん!
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※新型コロナウイルス感染症予防のため、スタジオにはアクリル板を設置、
そして、マスクも着用しております。

今回の「らじらー!サタデー」は、
3時間まるまる「#あちこちのすずさん」とのコラボスペシャル!

「#あちこちのすずさん」は、
映画「この世界の片隅に」の主人公すずさんのように、
戦争中、懸命に暮らしていた人のエピソードを
掘り起こして多くの人に伝えていくプロジェクトです。
らじらー!リスナーのみんなと一緒に、
戦争中の暮らしや戦争体験の伝え方について考えます。

ゲストは、沖縄県出身のりゅうちぇるさん
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八乙女「りゅうじ、こんばんわっふぉい!」
りゅうちぇる「りゅうちぇるだから~。本名やめて~」
伊野尾「光とりゅうちぇるは前から交流あるんだもんね!」
りゅうちぇる「この間もテレビ電話したもんね~!」

リスナーからのメールを紹介!
愛知県・やぽーの木
【光くんのお友達のりゅうちぇるさんが来てくれて、
お二人そろうのが久しぶりな感じでとても嬉しいです!
私の曾祖母は現在98歳で戦争を体験しています。
私が幼い頃から色々なお話を聞かせてもらいましたが、
最後には必ず「二度と起きてはならない」と言っています】
伊野尾「戦争を体験した方の年齢が90近くになってるんですね。
貴重な話がたくさん聞けると良いですね」


『らじらー!×#あちこちのすずさん』
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「#あちこちのすずさん」プロジェクトでは、
“戦争体験を後世に伝えること”が大きなテーマです。
戦争中の不自由な生活の中でも、
知恵や工夫をこらして懸命に暮らしていた人たちのエピソードを集めて、
掘り起こして、たくさんの人たちに伝えていく試みを行っています。
今では、NHKのテレビ番組だけでなく、
webメディアや地方の新聞社などとも協力して活動を大きく広げています。

八乙女くん、伊野尾くんはおととしから参加しており、
毎年夏のテレビ特番では、各地の戦争体験者にお話を聞きに行っています。

八乙女「僕は今年は、戦争中にお父さんから
サバイバル術を教えられた方を取材しました」
伊野尾「僕はおととし、去年と2年続けて取材した、
出征した兵隊さんと文通していた女学生のエピソードが印象的でした。
今は95歳のおばあちゃんなのですが、仲良くなって、
今では「えみちゃん」って呼んでます」

今回、えみちゃんから伊野尾くんに、お手紙が届いているとのこと!
伊野尾くんのヘアスタイルの心配をしていましたっ

八乙女「心配するとこ、そこなんだね」
りゅうちぇる「かわいい〜!」

八乙女「りゅうちぇるは戦争については?」
りゅうちぇる「慰霊の日は、戦争体験されたおじぃ、
おばぁから話を聞いたり、学校給食も当時の物を食べたり。
絶対に戦争のことを忘れてはいけないっていう日があります。
上京して、改めて、戦争教育が沖縄は進んでいたなと思います」


「あちこちのすずさん」の趣旨に賛同していただいた全国の5つの大学の学生が参加。
岩手大学、法政大学、日本大学、同志社大学、沖縄国際大学のみなさんが、
地元で見つけた“戦争中の暮らしのエピソード”を、様々な演出で紹介します。
(大学生の皆さんには、リモートで出演してもらっています)

【岩手県 岩手大学「戦争中の南部古代型染」】
岩手大学放送部の谷藤春香さん、古川波生さん、阿部峻輝さん、竹内智世さんの4名で、
今回の企画に参加してくださりました。

出演は、谷藤さんです。
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伊野尾「今回この企画に参加しようと思った理由は?」
谷藤「3年ほど前、ひいおばあちゃんの葬式に参列した際、
ひいおじいちゃんが戦場から送った一通の古びた手紙を見せてもらいました。
その手紙に書かれた内容にジーンときました」
りゅうちぇる「手紙にはどんな内容が書かれていたの?」
谷藤「ひいおばあちゃんとおばあちゃんが無事に暮らしているのか心配だというものに加え、
自分が帰ることができなくとも、
その後も幸せに暮らしてほしいという願いが切実につづられていました。
ひいおじいちゃんは衛生兵をしていたのですが、
戦争中に病気になり、家に戻ることなく帰らぬ人となってしまいました。
この手紙を約80年の間、大切に秘めていたひいおばあちゃんのことを想うと、
目頭が熱くなりました」
伊野尾「なかなか、おじいちゃんやおばあちゃんって、
聞かないと戦争の話をしてくれなかったりするもんね」
谷藤「取材では様々な方にお話をうかがいました。
その中で、400年以上の歴史を持つ染物屋さんにお話をうかがうことができました。
この染物屋さんでは、「南部古代型染」という伝統的な染物を継承されていました。
南部古代型染は、主に藍を使用した型染の技術のことです。
この型染が織りなす紋様は、
現在の岩手から青森に位置する南部藩の藩士が使用していました」

こちらが、南部古代型染のカバンです。
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八乙女「きれい~」
谷藤「このカバンにあしらわれた紋様は縁起の良いもので、おめでたい日に使われます。
他にも南部藩の紋章である向鶴など多くの模様があり、
その一つ一つに固有の意味があります。
江戸時代には南部藩の幟や着物に使われており、
現代ではカバン以外にもクロスなど日用品にも使われています。
染物屋さんの17代目である小野信太郎さんは御年89歳になります。
戦争当時は小学生でした。
信太郎さんに当時の様子をお聞きし、
それを元に信太郎さんご本人の手記という形にまとめてみました」

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岩手を代表する童話作家・宮沢賢治の作品に度々登場する北上川。
昭和20年3月と8月10日の二度、この北上川に沿って、
アメリカ軍のB29戦闘機が市街地へ焼夷弾投下を行い、あたり一面は焼け野原に。
そんな状況の中、染物屋への依頼は茶色など地味な色がほとんど。
現代での成人式のように、華やかな色は一切なかった。
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谷藤「さて…ここで伊野尾さん、八乙女さん、りゅうちぇるさん、
当時の染物屋への注文は、なぜ茶色だったと思いますか?」
八乙女「なんでだろ?鮮やかな色を着ると不謹慎だったから?」
伊野尾「俺もそんな気がする」
りゅうちぇる「当時の日本の雰囲気があったのかも」
谷藤「理由は、戦闘機から見つかりにくい色が茶色だからです。
このことから、国からもカラフルな色を服に使うことは禁止されたそうです」
伊野尾「そっか、爆撃機が来た時に見つかっちゃうもんね」
八乙女「そもそも禁止だったんですね。
ファッションを楽しみたい人は辛かったですね」

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当時は空襲による延焼を防ぐためにあえて家を壊すこともあり、
経済的にも精神的にも余裕がなかった。そんな中、心の支えとなったのが、
壊した家の跡地で近隣住民と協力して作ったカボチャやさつまいもを
分け合ったりする人の温かさ。
私の父も、当時は学生たちに食料を分け与えたらしく、
その人たちが戦後たびたびお礼を言いに、店に来ていた。
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谷藤「当時の盛岡市民にとって食糧難は死活問題であり、
比較的、畑のある仙北町に暮らしていた私のひいおばあちゃんも、
米をヒジキ、大根の葉っぱ等で増量して食べる糧飯を食べていました。
戦後、あんなものは二度と食べたくないし、
後世の子供たちにも食べさせたくないと話していました。
私の印象に強く残ったのは…町の人と協力して育てたカボチャやサツマイモの話です。
きっと、現在のような改良された甘く、密度の高い美味しいものではなかったでしょうが、
大きな励ましになったのだろうと感じました」
伊野尾「糧飯って知ってました?」
りゅうちぇる「知らなかったですね。
当時は、今のカボチャやサツマイモとは全く違うものですもんね」

りゅうちぇる「取材をしていて、他に感じたことは?」
谷藤「コロナ禍ということもありアポイントメントをとることが困難であったり、
戦争当時を知る人物がいないということから取材はなかなか一筋縄にはいきませんでした。
協力いただいた方にはお礼を言いたいです。
このラジオを聞いてくださっている方々の周りには、戦争当時のことを知る人がいるでしょうか。
80年前のことを知る人というのは滅多に会えるものではありません。
私自身、一年前に85歳のおじいちゃんを亡くしており戦争のことを経験者から聞く機会は、
それこそこの企画に参加しなければ無かったと思います。
まだ聞くことができる状況にある人は、
直接会うのは難しくても電話などで聞いてみて欲しいです。
身近にいないという方にとっては、
今回の私や他大学のリポートが戦争のことを知る機会となっていれば幸いです。
私も今回の経験を一過性のものにせず、戦争を伝える市民団体の方々にお話をうかがったり、
私自身が大学生という立場から発信していけたらなと思います。」
八乙女「これから誰かに取材する予定は?」
谷藤「親戚に捜査をしてもらったところ、
写真や手記が出てきたので、もっと取材していきたいと思います」

岩手大学放送部のみなさん、ありがとうございました!


【東京都 法政大学A「和歌で紐解く戦時中の家族」】
法政大学のみなさんは、2チームで参加していただいております!
Aチームは、
自主マスコミ講座の沼本若菜さん、佐藤萌花さん、林里祐さん、森菜摘さん、坂井実紅さん、
広瀬陽菜さん、寺崎結加さん、井上七海さん、永礼もも香さん、藤巻春菜さんをはじめとした
総勢 21名のメンバーで制作してくれました。
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伊野尾「法政大学Aチームの皆さんが見つけてくれたのは、戦争中のどんなエピソードですか?」
沼本「私たちのラジオテーマは、戦時中の体験を詠んだ一首の「和歌」です。
和歌で詠まれた出来事を、ラジオドラマとクイズでひも解いていく番組になっています。
それではまず、エピソードとなった和歌をお聞きください」

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復員の父とは知らず幼子の 千本格子の隙間より見る
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沼本「この和歌を詠んだのは、埼玉県にお住まいの星野陽子さんの作品です。
復員とは、軍務を解かれて戦地から帰京することで、
千本格子とは、部屋を分ける、縦の目が細かい障子のことです。
それでは、この和歌の意味をひも解くラジオドラマのスタートです!」

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これは、私がまだ当時6歳だった、昭和16年10月頃のことです。
私の父が出征することになりました。

星野「ねえ父ちゃん!戦争に行くって本当?」
父「うん。…父ちゃんはお国のために、がんばってくるからな」
星野「…わかった」
父「…よし、じゃあ出征する前に、一緒に遊びに行こう。上野動物園なんてどうだ?」
星野「行きたい!すっごくたのしみ!」

当時の父は、戦争に行けばもう生きては帰れないと思っていたそうです。
そのため父は、親子の最後の思い出として、私と兄を上野動物園へ連れて行きました。
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沼本「ここで、問題です。
星野さんが上野動物園で、一番印象に残っている動物は何でしょう?
ヒントは、星野さんはこの動物のあまりの怖さに大泣きしてしまったそうです!
八乙女さん、何の動物かわかりますか?」
八乙女「上野動物園といえば、パンダじゃない?」
沼本「かわいいですけど、違います!
では、伊野尾さんは、どうですか?」
伊野尾「んー…ライオン」
沼本「正解です!
正解は、ライオンでした!」

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動物園から帰った数日後の朝、父は戦争へ向かいました。

星野「ねえ、お兄ちゃん…父ちゃん、いっちゃったね…」
兄「うん…。僕たちは、僕たちにできることをやろう」
星野「なにするの?」
兄「伸びた草を刈って、干し草にして集めるんだよ。
学校に持っていったら、軍の馬の餌にしてくれるんだ」
星野「わかった!わたしがんばるね!」

それからあっという間に4年の月日が経ち、
ついに終戦の日を迎えました。
終戦から1年が経ったある日のことでした。
私と妹は、この日も家の前に落ちている花を踏んで遊んでいました。
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沼本「ここで、再び問題です。
星野さん兄弟は、ある花を踏んで遊んでいました。その花とは一体何でしょう?」
りゅうちぇる「チューリップ?ひまわり?食べもん?ザクロとか…??」
沼本「正解です!ザクロの花でした!
地面いっぱいに落ちていたザクロの花は、
踏むと「プツンプツン」と音がして面白かったそうなんです。
小さなところから遊びを見つけるというのも戦時中ならではの知恵ですよね」

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星野「最近ずっと雨が降ってたから、ザクロいっぱい落ちてるね」
妹「ね、お姉ちゃん!お花のじゅうたんみたい」

ちょうどその時でした。背嚢というリュックサックを背負った軍人さんが、
私達の家の前に来たのです。
そして、母が夕飯の支度をしている台所の方へ向かって、こう叫びました。

父「ただいま!」

その声を聞いて出てきた母は、軍人さんの顔を見てとても驚いていました。
そして、そのまま土間で泣き崩れたのです。
しばらくして、祖父が帰ってきました。
それからすぐに、祖父は軍人さんと母の三人で話し始めました。
その様子を、私達は千本格子の隙間からそっと覗いていたのです。

妹「おじいちゃんとへいしさん、なにはなしてるの?」
星野「さあ…?あの軍人さん、誰なんだろう…」

この後にようやく、軍人さんが父だと教えてもらいました。
およそ5年ぶりの再会です。

星野「軍人さん、お父さん…なの?」
父「そうだ。5年の間に随分大きくなったんだなあ…」
星野「うん…」

まだ幼かった私は父の顔を覚えておらず、
どう接すればいいのかわかりませんでした。
そんな時、父があるものを背嚢(はいのう ※リュックサック)から
取り出したのです。
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沼本「クイズです。
戦地から帰ってきた星野さんのお父さんが
リュックサックから取り出したものは何でしょう!」
八乙女「チョコレートとか?」
りゅうちぇる「もしかしてまたザクロ?」
伊野尾「写真!」

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父が背嚢から取り出したのは、一つの枕でした。

星野「何?これ、枕?」
父「そうだよ、中をみてごらん」
妹「わあ!すごい、お米だ!!」
星野「なんか、ちょっと細長いね」
父「これはタイ米っていうんだ。今日、みんなで食べよう」

父は、こっそりとお米を持ち帰ってくれたのです。
家族みんなで食べたお米は、パサパサしていて正直おいしくはありませんでした。
それでも、父が私達家族を想う気持ちを幼いながらに感じたのでした。
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伊野尾「お米だったんだ!」
八乙女「枕の中に隠し持ってきたんだね!」
沼本「今回、身近なすずさんを取材して、
戦争の時代でも、前向きに生きられたのは家族という心の拠り所があったからだと感じました。
人と人があたたかい思いをもって支え合えば、
どんな困難にも打ち勝つことができる!そんなことを教わりました」

法政大学Aチームのみなさん、ありがとうございました!


【東京都 法政大学B「戦時中の流行歌」】
Bチームは、自主マスコミ講座の村穂桃さん、佐々木麻鈴さん、今井彩里衣さん、
大山楓子さん、片岡真優奈さん、北村優さん、坂井実紅さん、
田中美有さん、山老知樹さん、成田美涼さん、中野佑亮さん、
水嶋ななみさん、阿井優香さん、柳本結紀さんなど、
総勢 26名のメンバーで制作してくれました。
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早速、ラジオドラマを聴いてみましょう!

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DJ「女子大学生ラジオDJすずかがお送りしています、あちこちもりもりラジオ。
続いてが最後のコーナーです。リスナーと生電話!今何してる?」
(歌「貴様と俺とは同期の桜同じ航空隊の庭に咲く咲いた花なら散るのは覚悟」)
DJ「え...。今の何?すみません。音声に乱れがありました。
あ、電話繋がっているのですか?あ、なんかリスナーの方と電話がつながっているみたいです。
もしもし~お名前お願いします」
静雄「もしもし~?お母さん?静雄だけど・・・」
DJ「こんにちは!静雄さんですか?今、何してますか?」
静雄「静雄さんって(笑)さっきまで茶の実を拾っていたよ!
お国のために今日もがんばってるだよ!」
DJ「お国のために...?いや、戦時中じゃないんだから」
静雄「いや、戦時中だけど...?」
DJ「...いやいや、って、さっきお母さんって...」
スタッフ「すずかさん!どうもこの電話、過去とつながっているみたいです」
DJ「え...!?」
静雄「ほら、さっき流れた歌あったら?あれ、歌いながら拾ってるだよ!」
DJ「あの...ところで茶の実って何ですか?」
静雄「え、茶の実知らないだ?木の実だよ!
中に入ってる油が戦闘機を飛ばすために必要なんだ!」
DJ「そうなんですね...たくさん必要なんですか?」
静雄「うん!1升くらい!明日までに学校に持っていかないといけないの!
日本が勝つためだから!」
DJ「なるほど...」
静雄「お母さん今日おかしいよ?疲れてるだら?まあいいや!
拾いに行かなきゃいけないもんで切るね!またね!」
(電話切れる)
DJ「ほんとに過去と...?まさかこんなことが起きるなんて...」

(歌「昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死豚の遺骨はいつ帰る
四月八日の朝帰る豚の母さん悲しかろ」)
DJ「また電話が繋がってるみたいです。もしもし~お名前お願いします」
女の子「えっと...秘密です」
DJ「そ...そうなんですね。もしかして戦時中ですか?さっき流れた歌ご存じなんですか?」
女の子「えっと...」
(電話切れる)
DJ「どうしたのかな...。あ、また電話がつながったようです。もしもし~あの~」
みなこ「もしもし、みなこといいます」
DJ「あ、あの、戦時中の...?」
みなこ「いやいや、私は現代の者ですよ。
いや、実はさっきの歌、反戦歌だと思うのよ。
私も歌ってたから知ってるの。戦時中に。
あの歌はね、私が子供の頃に流行っていた歌なの。
豚の子が日本兵を指してて、ハチがアメリカ兵を指してるのよ。
“昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死”って、そりゃ不謹慎よね。
でも、学校で歌わされてた歌とも違って子供たちには魅力的に思えたのか、
みんなで学校の行き帰りとかによく歌っていたわ。
歌ってると上級生に注意されたんだけどね。憲兵に“検挙される”って」
DJ「...この歌を聞くと昔のことを思い出されたりするんですか?」
みなこ「ええ、戦時中をね。敗戦ちょっと前の、1945年頃になるとね、
こんなこと言うのもなんだけど、なんとなく負けそうな気がしてきたの。
だって、戦死された人たちの遺骨がどんどん田舎に帰ってきて、
村の人達が迎えに行く“遺骨迎え”っていう作業が段々増えていったから...」
DJ「そんなことが...」
みなこ「それでも私にとっては、思い出のある歌なのよ。
だいぶ話しちゃったわね。長々とごめんなさい」
DJ「いえいえ、貴重なお話ありがとうございました」
(電話切れる)
DJ「今日はちょっと信じられない、予想外のことが起こりましたね...。
正直私もまだ状況が理解できてないんですが、こうしてお話して、
いろんな種類の歌が自由に歌える平和な世の中のありがたみを感じました。
それでは、女子大学生ラジオDJすずかのあちこちもりもりラジオ。また来週」
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佐々木「聴いてくださり、ありがとうございます。皆さんいかがでしたか?」
伊野尾「素敵な作品でした。
戦争中の音楽を聴く機会がないので、こんな曲があったんだって思いました」
りゅうちぇる「時代によって子供の憧れの対象も違うんですね」
村穂「この作品は、福本静雄さん90歳と小林美成子さん84歳 の、
お2人への取材を元に作成させていただきました。
茶の実の少年は福本さん、替え歌を教えてくれたのが小林さんです。
ご本人の歌声もすごく素敵で、エピソードからも当時の日常を感じられますよね。
ですが、終戦2年前くらいから爆撃が多くなって、
命を守ることに必死で茶の実を拾うことが出来なくなってしまったというお話や、
歌うことが禁じられていた歌もあったというお話も取材でお聞きしています。
ドラマでも少し触れましたが、その日常に制限があったことや、
悲しい過去が存在していたことも忘れてはいけないと感じました。
戦時中の方の日常を知って当時の人に少しでも親しみを感じることで、
平和の大切さについて考えるきっかけにしていただけたらなと思います」

法政大学Bチームのみなさん、ありがとうございました!


「らじらー!」では、5月から『見つけて!あちこちのすずさん』と題して、
リスナーのみんなの周りの戦争体験者のエピソードを募集し、紹介してきました。
いくつかご紹介します。

宮城県・釜揚げしらす
【私の祖母は満州からの引き上げ者です。
日本に帰るときに、内陸から船がある海沿いへ向かう汽車は、
屋根がない無蓋車という貨物列車のようなもので座席などはなく、
祖母はひいおじいちゃんがくれた飯ごうを椅子がわりに使ったり、
お水やわずかな食料をもらえるときは、その飯ごうに入れてもらっていたそうです】
伊野尾「飯ごうは、八乙女さんキャンプやってるから知ってるよね?」
八乙女「でもたまにもらえる食料が、飯ごうに収まっちゃうんでしょ…?」
伊野尾「椅子も屋根もない電車だったんですね」


【京都府 同志社大学「京都伝統の味と戦争」】
学生放送局の梅垣里樹人さん、宮内紀佳さん、水田光哉さん、北元蘭名さんの
4名で制作してくれました。
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梅垣「私たちは「食を通した人とのつながり」をテーマにしました。
今回は大学近くの商店街で、
戦前から続く店を続けられている方にお話をうかがいました」
伊野尾「このテーマにしたきっかけは?」
宮内「京都は歴史のある和菓子屋さんや漬物屋さんが多いということに注目し、
自分たちに身近なところから選びました」
八乙女「なるほど、今回取材したのはどんなお店?」
宮内「鯖寿司で有名な食堂と、豆餅で有名な和菓子屋さんです。
まずは食堂の取材について紹介します。
こちらのお店では鯖寿司の他に、うどんなども提供されています」
梅垣「ところでりゅうちぇるさん、京都で鯖寿司は身近な食べ物なのですが、
どんな時に食べられるものかわかりますか?」
りゅうちぇる「んー土曜日に食べるんじゃないですかね?」
梅垣「実は、祭りの日やハレの日に食べるという風習があるんです」
りゅうちぇる「そうなんだ!教えてくれてありがと~!」
宮内「今回お話を伺ったのは、3代目店主の梅垣昌治さんです。
先代と戦時中のお店の様子についてインタビューをしてきました」

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・お店で鯖寿司を出すきっかけは、
 創業した祖父母が福井県の小浜から
 お土産として持って帰ってきた鯖を使って鯖寿司を出したのがきっかけ。
・戦時中の鯖については、今の物価にすると10~20匹で500円ほどのものを使っていた。
・戦時中の営業については、戦争が本格化すると父は戦地へ、
 母は軍需工場へ行っていたので一時休業した。
・近所の方に、お店からうどんの玉を配給していたそうで、列ができていた。
・近所の方とは物々交換で食べ物を交換していた。
・今回紹介する和菓子屋さんとは、お店の裏の扉から物々交換のやりとりをしていた。
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伊野尾「先代から続く鯖寿司を守り続けてるってすごいですね」
りゅうちぇる「宮内さんが印象に残ったお話はありますか?」
宮内「お店から配給していたとうお話におどろきました。
食べ物を物々交換していたエピソードも、人とのつながりを感じることができ、
当時の様子を想像することができました」

梅垣「次に和菓子屋さんの取材について紹介します。
お店の看板商品は豆餅で、一日に2000個ほど作っているとうかがいました。
今回は現在のお店のおかみさんである黒本愛子さんに、
先代と当時のお店についてエピソードを寄せていただき、それを僕たちが朗読しました」

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・先代は戦前、京都から選ばれて近衛兵として皇居にあがる。
・戦争がはじまると招集され沖縄へ
・戦時中もお店は配給を受けて営業を続ける。
 京都では何軒かのお店がまとまって配給を受けていた。
・残された家族は、空き地で野菜の栽培を始める。
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八乙女「小さいことでも楽しめるのは素敵なことですね」
伊野尾「この時代、お店を続けること自体が大変でしたよね」
八乙女「他にも印象的なお話はありましたか?」
梅垣「実は朗読に入れなかったのですが、
先代が捕虜になった際のエピソードもお聞きしました。
戦時中か戦後かはわからないそうなんですが…」
宮内「アメリカ軍の捕虜収容所にあるバーでグラス拭きをされていたそうです。
家に戻ってきた時には、子供たちにコップを布巾できれいに拭くことを教えられたそうです」

宮内「戦争について大まかなことしかわからなかったのですが、
直接経験した人の話を聞くことで、本やテレビからでは語られない具体的なお話が聞けたのが
いい経験になったと感じています」
梅垣「鯖寿司のお店の取材の時に、
当時をよく知るお母さんが数か月前に亡くなり、
お母さんがいればいろいろ聞けたのにな…とおっしゃっていました。
これを聞いたとき、戦争から時間がたっていることを実感しました。
でも、今回僕たちの取材ができたのは、
エピソードを受け継いでいる方がいらっしゃったからこそだと思います。
直接体験した方からお話を聞くのが難しくなっていく中、
若い世代が戦時中のお話を受け継いでいくことが大切だと感じました」
伊野尾「戦争を経験した方が高齢化されている中で、
みなさんが制作したこの音声が形として残りますからね。
後世に伝えていくことが大事だなって思います」

同志社大学 学生放送局のみなさん、ありがとうございました!


【東京都 日本大学「おじいちゃんは海軍薬剤官」】
日本大学芸術学部放送学科の小川あんずさん、小宮梨花さん、柴田萌虹佳さんの
3名で制作してくれました。
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伊野尾「日本大学のみなさんが見つけてくれたのは、
戦争中のどんなエピソードですか?」
小川「私の祖父の話です。私の祖父は、私が生まれる1年前、75歳で亡くなりました。
ですから、実際に会ったことがなく、どんな人だったのか、
どんな人生をおくっていたのか、これまで全く知りませんでした。
そうした中、今回、「#あちこちのすずさん」の募集を
きっかけに祖父の戦争体験を知りたくなりました。
私の実家は、曾祖父の時代から3代続く薬局の家系です。
2代目となった祖父は、在学中に太平洋戦争に送り出され、
「海軍薬剤官」として任務にあたりました。
20歳という青春時代を、戦争の真っ只中に迎えた祖父。
当時、どんな体験をしていたのか。今20歳の私が、大学の同級生と一緒に調べてみました」

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
小川源太郎さんは社交的で情熱的な性格。
妻のハナさんには、ドイツ語でプロポーズしたそうです。

ハナさん「人見知りの様な感じじゃなくて座をもりあげるような感じの人だったわね。
ドイツ語の歌を歌ったりなんかして、ご機嫌とって。
宴会なんかしたときに積極的に源太郎さんの方があれして、
それでもって付き合って、結婚したんですけどね」

薬局を創業した父を継ぐため、東京薬科専門学校、今の東京薬科大学に進学。
太平洋戦争が展開する中、超難関の「海軍薬剤官」を目指します。
海軍薬剤官は、戦争を後方支援する役割だったので激しい戦地に赴かなくていいこと、
また、最初から少尉として採用されることも魅力だったようです。
源太郎さんは猛勉強の末、見事、「海軍二年現役薬剤科士官」採用試験を受け合格。
たまたま直前に勉強した内容が出題されたそう。
ちなみに、陸軍の薬剤官は、まず、新兵として厳しい教育を受けなければならず、
多くの学生はこの海軍の試験を受けたといいます。
合格した後は、呉の海軍学校で医療活動などについて学んだ後、
病院船・氷川丸に乗り込みます。

この氷川丸、かつてはかの有名なチャーリー・チャップリンも乗せた
豪華客船として知られますが、
太平洋戦争中は病院船として使われました。
任務は、南方の戦地の海軍病院と日本を結ぶこと。
そして、戦争で負傷した人を収容して日本に帰国させることです。
また、そうした人の治療や、戦地へ医薬品の補給もしていました。
氷川丸の戦争の歴史は、6年前にアニメ映画で紹介されました。
タイトルは「氷川丸ものがたり」。
原作者で編集者び伊藤玄二郎さんにお話をうかがいました。
伊藤「普通であれば、船客を乗せて平和に航海することだった。
しかし、病院船に代わり、平和から悲惨な状況下に一変してしまった。
船を戦禍にさらさなければならなかったことが辛かったと思う」
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八乙女「チャップリンも乗せたって…すごい歴史を感じる」
伊野尾「病院船っていうのは知らなかったな〜!
豪華客船がそういう使われ方をしたっていうのは、やっぱり悲惨ですね…」

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戦争が終盤にさしかかると、戦況が悪化。
伊藤「氷川丸は病院船だから。負傷者の方ばかりだったから。
地獄のような状況だったのではないかな。
病院船の中でなくなる兵隊さんもいたし、今のように医療品が多くあったわけではなかったら、
救える命も救えない状況下で、心苦しんだと思う」

氷川丸は、終戦までの3年半に24回の航海で3万人以上の傷病兵を輸送。
多くの命を救いました。

伊藤「僕は一般の収容された人はインタビューしていなくて、
収容してあげた人のインタビューだけど、 戦争の悲惨さ。
戦争はあってはならないと全員が答えていた。
目の前にいる傷ついた人たちをいかに助けるか、楽にするかということだから…。
戦争という究極の状況で、まさにコロナと向き合うドクターたちと同じじゃないかな」

戦後は引き揚げ船などとして利用され、氷川丸は1960年に引退。
戦前の日本貨客船としては現存する唯一の大型船となっています。

その後、源太郎さんは、終戦を迎える1945年、鹿児島県霧島の海軍病院に赴任します。
軍医が戦死して人が不足していたためです。
ある時、近くの地下壕で、日本軍の極秘の会議が開かれました。
そこで、当時、開戦していた沖縄戦について、衝撃的な事実を知ります。
今回、源太郎さんを生前、家族が撮影したビデオテープが偶然見つかりました。
そのことについて、本人が語っていましたので、声をお聴きください。
源太郎さん「本日、来襲敵機船舶連合、200機。本日、味方のね、戦闘可能機数26機。
…うじゃうじゃ艦隊がいるんだから。みんな途中で落とされちゃう」

アメリカの戦闘機200機に対し、日本は僅か26機。
会議が終わった後の黒板に、沖縄戦におけるアメリカの戦闘機が
日本と比較にならないほど多いという情報が書かれていたそうです。
事実、沖縄戦に参加したアメリカ兵はおよそ54万人で、そのうち18万3000人が上陸。
一方、日本兵は11万人ほどで、そのうち2万数千人は沖縄で集めた防衛隊や学徒隊でした。
アメリカ軍と日本軍の力の差ははっきりしていたのです。

戦後、二度と戦争を繰り返してはいけないと考えるようになった源太郎さん。
父、大介さんが、源太郎さんの思いを代弁してくれました。
大介さん「治療している人を治すんだとかってね。そういう気持ちは強かったよ。
…民間の人々が空襲にあったり、犠牲になったことに対しては、
戦争はやんない方がいいと言っていた。それは確かだ」
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八乙女「リアルに兵隊の数の差を聞くと、すごく怖いなと思いますね」
りゅうちぇる「そんな中でも当時はみんな、
きっと大丈夫だと思っていたと聞いたことがあります」
伊野尾「おじいさんは、戦後どうされたんですか?」
小川「祖父は、私と同じ20歳で終戦を迎えます。
そして、戦後、再び薬学について勉強して、薬剤師の資格を取得。父親の薬局を継ぎました」
八乙女「おばあさんにドイツの歌でプロポーズしたのは、どうして?」
小川「祖父は、学生時代にドイツ語を学んでいました。
当時は、日独伊三国同盟もありましたが、
ドイツの医療技術が高く、カルテにはドイツ語が使われていたんですね」
伊野尾「なるほどね!
今回、同級生といっしょにおじいさんについて調べてみていかがでした?」
小川「今回、私の知らない祖父の人となりを知ることができました。
祖父が乗っていた病院船・氷川丸ですが、初代院長が残された言葉を一つ、紹介します。
「軍人である前に医者として、医者である前に人間として、戦況よりも戦傷者の容態を」
というものです。
その教えどおり、戦争という極限の中でも、薬剤官として負傷した人を守り続けた祖父。
薬局こそ継ぐことはできなかった私ですが、
その思い、生き方は受け継いでいきたいと感じました」

日本大学芸術学部放送学科のみなさん、ありがとうございました!


【沖縄県 沖縄国際大学「戦時中、故郷を離れた沖縄人」】
沖縄国際大学放送研究部の稲嶺光恭さん、砂川桜渚さん、
西川友伽さん、長濱明さん、西原裕介さん、玉榮優一さん、
赤嶺まりさん、宮城百々楓さんの、計8名で制作してくれました。
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伊野尾「みなさんが見つけてくれたのは、戦争中のどんなエピソードですか?」
稲嶺「僕たちは、戦争中に沖縄を離れて本土で暮らしていた女性2人にお話をお聞きしました」
砂川「昭和19年7月、アメリカ軍によりサイパンが攻め落とされ、
いよいよ沖縄への攻撃が始まろうとしていました。
そこで、大規模な「学童疎開」が行われることになったんです。
1人目にお話を聞いた女性は親元を離れ、その学童疎開で九州の熊本県に渡りました」
稲嶺「遠く離れた熊本の地で、沖縄が空襲されたことを知った時の思いや、
寒さへの戸惑い、そして、沖縄にいたら体験できなかった疎開地での楽しい思い出についても
語っていただきました」

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まず紹介するのは、現在90歳、本部町出身の長堂すず子さんです。
畑仕事が大好きだった彼女は当時13歳。
戦争の激化を受け九州の地へ、学童疎開へ行くことになりました。

・9月に学童疎開で熊本に疎開。すぐ10月10日(沖縄)空襲。
 通信手段がなくて親とも連絡取れず、状況がわからず泣いていた。
・非常時だから着る物もあまり持って行ってなく、冬物もなかった。9月だからすぐ寒くなった。
・疎開先は湯の浦。鹿児島寄りの所。温泉旅館で湯の浦温泉。子どもたちは無料。
 寒くて着る物がないから、温泉に行ってしょちゅう浸かっていた。
・温泉に浸かるのは初めて。リウマチで温泉に来る年寄りから、
 沖縄もんは「目眉の黒かでカワイかー」って言われた。
・疎開先で楽しかったことは温泉。そして。雪。
 あられでさえも見たことなかった。沖縄では、あられさえも降らない。
 雪合戦もした。寒いけど楽しかった。
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りゅうちぇる「時代も状況も全然違うから、
孤独な思いで楽しみを見つけられたんでしょうね。
僕も初めて雪を見た時を思い出しました。温泉も沖縄ないさーね」
稲嶺「僕もまだ雪を見たことないので、
とても感動したんだろうなって勝手に感じています」
砂川「私も初めて見た時感動しました!」
伊野尾「戦時中でも、雪に対する感動とかは、今の人たちと変わらないんですね!」

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続いては、現在97歳。南城市出身の仲本ヨシさんです。
仲本さんは、太平洋戦争が始まる前の昭和15年、16歳の時に出稼ぎで本土に渡り、
紡績工場で働いていたそうです。
戦争が始まって空襲にあったときのエピソード、
それから、見知らぬ土地での生活の中で見つけた“ふるさと沖縄” を
感じられる楽しみについて語っていただきました。

・空襲警報が出て、風呂敷に荷物をぐるぐるにして逃げた、布団かぶって。
 警戒警報が始まったら。逃げてたら風呂敷包みがジョロジョロと荷物が落ちてしまった。
 帰ると家も何も全部焼かれていた。工場もみんな焼かれていた。
 配給でもらったカボチャやらタマネギが焼かれて、とってもいい匂いがした。
・戦争時分に芝居はありました。沖縄の大宜見小太郎。
 とっても人気者、内地にいた。
 大宜見小太郎が劇場を持って、観に行った。それが楽しみだった。
 芝居観に行って、警戒警報が始まったら、切符もらって。
 「またそれ持って来なさい」と言われた。
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りゅうちぇる「時代は変わっても、沖縄の人の温かさは変わらないんだなって思いました」
稲嶺「大宜見小太郎は沖縄で有名な俳優さんです。戦後、沖縄俳優協会の会長も務めました。
戦時中は、沖縄の人を慰労するために大阪で沖縄芸能を上演する劇場を開いていた」
砂川「当時、大阪には沖縄からの移住者が多く、
「琉球人」として差別されることもあったようですが、
沖縄人同士のコミュニティーもあって、助け合っていたそうです」
伊野尾「戦争中って悲惨なエピソードが語られることが多いけど、
劇場の話は貴重だなって思いました」
りゅうちぇる「疎開の話は沖縄で有名で。
悲しいことを伝えることももちろん大事ですけど、
自分たちが生きていることに感謝もしたいですね」
稲嶺「仲本さんは戦時中も本土にいましたが、
沖縄で戦争で大きな被害を受けていたことについては、
「自分が生きることで精いっぱいで、
沖縄のことを心配するどころではなかったけれど、
そんな中でもお母さんのことや、
体の弱い妹のことは気になっていた」と話してくれました」

りゅうちぇるさんは毎年6月23日の「慰霊の日」に、SNSでコメントを出しました。
今年のコメントを一部紹介します。
『今日6/23は慰霊の日です。
沖縄では毎年、慰霊の日の正午に、二度と悲しみを繰り返さないよう
うーとーとー(手を合わせて黙祷すること)をします。
たしかに昔のことかもしれない。76年前の戦争のことなんて。
ですが、こんな幸せな時代だからこそ一人一人がきちんと意識して生活していかないと、
またいつか戦争の辛さを何も知らない所から悲しみが繰り返してしまうから。
ぜひ、願いましょう。勇気を出して戦争体験を話してくださった方々の気持ちも、
受け継いでいきましょう』

伊野尾「取材をしてみて、いかがでしたか?」
砂川「後世に戦争の話を伝えていくのが、私たちの使命だと思います」
稲嶺「個人的に戦争に対するイメージが暗いものだったんですけど、
今回このような話を聞いて、新しい方向から戦争を知ることができました。
これからも忘れてはいけないなと思います」
りゅうちぇる「沖縄は、地上戦で懸命に生きてきた人たちは
フィーチャーされがちですけど、
今回のように疎開した人たちを掘り下げることによって、
新たな視点で戦争を見つめることができるなと思います」

沖縄国際大学放送研究部のみなさん、ありがとうございました!

八乙女くんと伊野尾くん、そして、りゅうちぇるさんは、ここまで!
伊野尾「りゅうちぇるさん、いかがでしたか?」
りゅうちぇる「勉強になりました。
お友達のひかちゃんと、そして、伊野尾くんと会えて楽しかったです」
八乙女「10時台も聴いてねー!」



10時台のMCは、
ジャニーズJr. Travis Japanの川島如恵留くんとなにわ男子の大西流星くん!
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※新型コロナウイルス感染症予防のため、スタジオにはアクリル板を設置、
そして、マスクも着用しております。

引き続き、戦争中の暮らしや戦争体験の伝え方について考えていきます。
10時台は、NHKの地方局の若手アナウンサーが取材した地元の「すずさん」を紹介します。

川島「僕たち2人での出演は「初」ですが、どうですか?」
大西「すごい緊張しますし、初めての2人がらじらー!スペシャルだなんて…」
川島「緊張しすぎて、最初カフ上げ忘れたよね…笑」

今回、2人と一緒に番組を進行してくれるのは、小松宏司アナウンサーです!
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小松「ローラースケートを覚えたのは光GENJIです!小松です!!」
2人「よろしくお願いします!」
小松「「この世界の片隅に」は、ご覧になりました?」
川島「拝見しました」
大西「はい!すずさんが僕より若いのに懸命に生きているのがすごいなと思いました」
川島「戦争中の、温かいエピソードでまとまっている作品に感銘を受けました」


『NHK長崎局「被爆体験をアメリカの大学生に伝えにいく女子大生」』

NHK長崎局の武田健太アナウンサーと中継が繋がっています!
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武田「今回取材したのは、
被爆者で長崎市に住む94歳の築城昭平さんと、五島列島出身20歳の三宅杏風さんです。
長崎に投下された原爆によって被爆した、築城さん。
その築城さんの記憶を若い世代の三宅さんが継承する様子を取材しました」

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築城「I am Shohei Tsuiki. 93 years old.
Let me tell you story about myself when I was 18 years old.」
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武田「修学旅行生などに自らの被爆体験を伝え続けてきましたが、
より多くの人に自分の言葉で被爆の記憶を伝えたいと「90歳」をこえてから、
英語の勉強を始めました」
川島「すごいですね。いくつになっても、伝えたいと思う姿勢に感銘を受けました」
大西「築城さんの行動、かっこいいなと思います!」

三宅さんも同じような反応をしたそう。
実は三宅さん、去年、新型コロナの影響で、
進学予定だったアメリカの大学への入学が1年延期になりました。
そうした中で、築城さんが英語で伝えている姿を目にしました。
そこまでして被爆体験を伝えたいんだと知り、
長崎に残る1年で築城さんの被爆の記憶を継承しようと決意しました。
三宅さんは電話などを通して築城さんの記憶を継承をしていました。

川島「言葉で聞くと改めて実感しますね」
大西「これだけ覚えているってことは、本当に大きな出来事だったんだなと」
武田「三宅さんは築城さんと文通も行っています。中には他愛もないやり取りも。
三宅さんは手紙をやり取りをする中である文章が心に残っていると言います。」
武田「「あなたは孫のような気持ちでいます。
今後共に世界の平和のために頑張っていきましょう」と書かれていたんです。
三宅さんは初め、継承する立場として、
被爆者の方と一定の距離を保たないといけないかなとか、
あまり親密な関係にならない方がいいのかなと悩んでいたそうなんです。
そうした中での築城さんからの「孫のようだ」という言葉が、
とてもうれしかったと言います」

そんな三宅さん、延期になっていたアメリカの大学への入学が迫った、
ことし6月中旬、築城さんと直接会うことになりました。
継承してきた内容をアメリカの大学でも伝えるために英語にまとめてきたんです。
それを築城さんに聞いてもらい、内容に誤りがないかを確認してもらいます。
築城さんは、「本当に英語が上手だなって改めて感じました。
やっぱりこういう若い人にどんどん後のことをお願いしたいと思いますね」と
言ってくれたそうです。

大西「築城さんもうれしそうでしたね」
川島「2人が愛情を持ってお話しされてるのが伝わってきました!」

武田「さて、その三宅さんですが、
先月末、ついにアメリカに旅立ち、現在、すでにアメリカの大学に入学し、
学生生活を送っています。その三宅さんと電話がつながっています!」
大西「アメリカはどうですか?」
三宅「友達ができました」
川島「築城さんとは、どのような存在?」
三宅「語り部と引き継ぐものという関係を守らないといけないかなと思っていました。
でも、今はすごく身近に感じていて、家族って思いがあります」
大西「これからの目標は?」
三宅「築城さんの継承が、まだ1〜5パーセントしかできていないと思うので、
続けていけたらと思います」
川島「その思いに感動しています」
大西「日本からエールを届けます」

そして、長崎県出身の歌手さだまさしさんが電話で出演してくださいました!
さだ「こんばんは」
川島・大西「よろしくお願いします」
さだ「戦争の記憶ってどんどん薄れていくし、
長崎の場合、被爆した記憶がある方もお年を召していって。
悲しいことを二度と起こさないためには、記録していくことが大事だなと思ってます」
川島「僕たちも伝える側として、支えていけたらと思います」
武田「三宅さんと築城さんを見ていると継承が、
とても「身近」なものに感じられました。
怖いって身構えすぎずに、少しでも多くの人に関心を持って欲しいと思います」


『NHK徳島局「戦争中に阿波踊りを守った」』
NHK徳島局の宮﨑あずさアナウンサーと中継がつながっています!
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宮﨑「徳島の夏といえば、そう、阿波おどり!
毎年8月に4日間行われる徳島の一大イベントです。
流れている音楽は、ぞめきという阿波おどり特有のものです。
「浮かれ騒ぐ」という 意味の古い言葉・「ぞめく」からきていています。
阿波踊りでは“連”とよばれる踊り手のグループがたくさん。
それぞれ工夫をこらした演出をしながら街を練り歩きます。
阿波おどりを直接見たり、踊ったりしたことありますか?」
大西「テレビで拝見させていただいたことはあります。
去年ドラマの撮影で徳島に行ってたんですけど、中止だったので残念でした…」
宮﨑「私も長崎出身なので、初めて阿波おどりを見たときは驚きました。
いつもなら5分で歩けるところ30分かかります。
見物客がいる歩道は、ハロウィンの渋谷よりも人でぎっしり。すごい熱気なんです。
ところが、阿波おどりは去年、新型コロナウイルスの影響で戦後初の全日程中止になり、
そのにぎわいが消えました。
「阿波踊りが終わったところから1年が始まるのに、
もう働く気がわかない」なんて嘆く人もいる。
それくらい、夏の阿波おどりというのは徳島人の魂に根付いているものなんです。
今年も全面開催とはいかず街の中ではなく、ホールの中で踊るのに留まりました。
76年前の戦争のときも、踊りが途切れてしまった時期でした。
徳島市在住で当時を知る、吉田泰造さんに話を聞きました」

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阿波踊りどころじゃなかったし、
親たちも食べるのに精いっぱいでそんな余裕が全然なかったと思うんよね。
今だから言えるけど、親が闇のお米で買ってっていう、
まあほんまは言うたらいかんのやけどね、あのー取り締まられるんやけど、警察に。
私は中学生で子供だったけん、わりかし警察は大目にみて
その手伝いというか、ほんなことをやりました
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宮﨑「吉田さんは、平和連という連の会長。
平和連は、吉田会長のお父様が踊り好きな職場仲間と立ち上げ、命名もしました。
当時は生活が最優先。吉田会長によると、
阿波おどりは戦中だけでなく、終戦後しばらくは街でも見かけなかったそうです。
阿波踊りどころではなかったのは、吉田さんの周りだけではありません。
徳島市の資料を見てみると、阿波踊りは、
昭和1桁のころは、県外からも見物客が殺到して、
市内の宿が足りるか心配されるほどでした。
ただ戦争の「時局柄」、浮かれ踊る阿波踊りにも影響が及びます。
昭和12年以降は踊りが中止。
一時再開されたものの、以前のにぎわいはなかったそうです」
大西「踊りで元気づけようっていうこともできなかったんですね…」
川島「徳島の人はすっぱり諦めていたわけですか?」
宮﨑「いえ、やはり胸の中ではみなさん踊りを待っていたみたいなんです。
戦争中は途切れがちだった阿波踊りは昭和21年から復活しました。
吉田さんが本格的に阿波踊りに参加し始めたのは、
終戦から10年ほどのことでした」

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阿波踊りっちゅうんは、ごっついこう、うきうきして、楽しい。
お盆が待ち遠しいというか、やっぱり踊りが好きだったんかなあ。解放感というか。
平和で阿波踊り(できる)素晴らしさっちゅうんは身をもって体験したから、お盆が楽しかった。
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宮﨑「こうして徳島の人の魂に根付いている阿波踊り。ずっと変わらないわけではありません。
戦後すぐのころの阿波おどりといまの阿波おどりには違いがあります。
実は、曲を演奏する「鳴り物」と呼ばれる楽器が、当時と今とでは、違いがあるそうなんです」
宮﨑「一度、阿波踊りが途切れたとしても、変化をしながらずっと受け継がれてきました」
大西「みなさん踊りそのものは、忘れないんですね」
宮﨑「御年88歳の吉田さん曰く、もう体に染みついているそうです。
コロナ収束で、また我慢を強いられる時間から解放され踊れることを吉田さんは祈っています」
宮﨑「吉田さん、お話しするときにニコニコしながら話してくださるんですが、
阿波おどりが踊れないという話になるとふと寂しそうにされるんですよね。
心なしか体も少し小さくなるような気がして…
また、戦争が終わって踊れるようになったときのような解放感を味わいながら、
思いっきり、ぱーっと、のびのびと、踊れる日が来てほしいと思っています」


『NHK鳥取局「ラップで戦争体験を伝える若者」』
NHK鳥取局の加藤向陽アナウンサーと中継がつながっています!
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加藤「今回皆さんに紹介したいのはラッパーの大学生、中村健太郎さんです」

まずはラップを聴いてみることに。

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中村「俺らの未来は手の中 嫌な現実も屁の河童
活かしたスキルの言語感覚 I am ラッパー 打ちぬくド肝」
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川島「おおう!加藤さんのテンションも相まって、より楽しいですね!」
加藤「鳥取大学農学部4年生の中村さんは、夜でもサングラス、タンクトップ姿の23歳。
今日は今年4月に鳥取県内で放送した番組の再構成という形でご紹介します。
じつは中村さん、若者に届く音楽「ラップ」を通して、
「平和」とは何かを訴える活動をされているんです。
中村さんは「Allege(強く訴える)」というラッパー名で活動し、
曲を作っては、SNSにあげたり、路上ライブをしたりして、若者にメッセージを送っています。
ラップの魅力についてこのように話しています」

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中村「僕はふだん言えなかったことも、
ラップだと勢い任せっていう言い方がありますけど、
こう勢いに乗って、どんどん表現できるラップの強みであり良さであるなと思いますね」
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川島「勢いとかテンション感って、何かを伝えるときには大事ですからね」
加藤「そんな中村さんが住んでいるのは、人口4000人ほど、
見渡す限り田畑が広がる小さな町、鳥取市鹿野町。
中心部から車で30分。家賃2万円。ポツンとある一軒家を借りています。
中村さんは、自ら田んぼを借りて「ラップ米」というお米を育てています」
大西「どういうことですか!?」
加藤「中村さんの家の玄関を出て5歩のところに田んぼがあるんです。
大音量のラップを毎日稲に聞かせると「ラップ米」ができるんです」
川島「お腹の中の赤ちゃんにクラシック聴かせるみたいな感じ?」
加藤「なぜ「ラップ米」を作っているかというと…」

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中村「僕のテーマとして、社会問題面白く解決したいなと思って。
耕作放棄地をただ田植えするだけじゃなくて、
もうちょっとインパクトある事をやっていきたいなと思ったら、すごいよかったです」
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

川島「得意なこととやりたいことを掛け合わせたような…!」
加藤「そんな中村さんが曲作りで特に力を入れているのは、
「平和」についての曲なんです。
きっかけは、被爆地である長崎出身のおじいさんとの会話でした。
そして、大学一年生の時に、実際に自分の目で見ようと、
ヒッチハイクで広島・長崎・沖縄を旅してできたのが
『Where is peace』という曲です。
例えば冒頭。戦争の跡地で語られていた「平和」は、
戦争体験者だけが語る「平和」だったそうで、そこに違和感を感じたそうです。
お聞きください」

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
変だ 変だ なにかが変だ
正解も不正解もないこのテーマ
変だ 変だ 何が平和
原爆rememberだけ語らせんな
平和 平和 なにかが変だ
正解も不正解もないこのテーマ
変だ 変だ 何が平和
不謹慎って雰囲気
メッセージは明確
活動そのものがメッセージ
どこまでいっても偽りの平和
ならばいつか見せてぇな
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

川島「伝える人が限定される平和への違和感を伝えたかったんですかね?」
大西「すごい素敵」
加藤「そんな中村さんでも、戦争を歌にすることに当初はためらいがあったそうです」

-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
中村「僕が最初は戦争駄目だろうっていうスタンスで旅を始めました。
でも、これについては学んで、自分の足で歩いてるときに
「これってどっちも良いとか悪いとかないな」ってことに気づいたんですよね。
いろんな立場があるから、いいも悪いも俺は言えないんだけど、
みんなちょっと考えてみようよっていう事がこの曲の結論でしたね。
僕ができる事って何だろうって考えると、
やっぱり10代20代に届きやすい音楽であるヒップホップ、ラップを使って表現する事で。
あのそういう若い子たちもと一緒に考えて今後未来をつくっていこうよってことが
僕だったらできるんじゃないかなと強く思ってます」
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

川島「曲を聴いて、すごいな、ではなく一回考える自分がそこにいました」
大西「この曲が戦争を考えるきっかけになる感じがありますね」
川島「冒頭数十秒でも、引き込まれました」
大西「いろんなところでこのラップが聞けたらいいなと思います」
加藤「我々の世代、戦争について主張するって勇気のいることですけど、
ラップを聞いて一歩踏み出す勇気をもらえた気がします」


そして、エンディング!
らじらー!コラボスペシャルを終えて…
川島「同じものを見つめた時間、いいものになったと思います。
アイドル活動を通して、
平和について見つめ直す時間を皆さんと共有できたらいいなと思います」
大西「僕たち若い世代が、語り継いでいくことがとても大事なんだと思いました。
エンタメの力はすごいですから!」

川島くん、大西くん、小松アナウンサー、ありがとうございました!

投稿者:番組スタッフ(W・K) | 投稿時間:23時00分


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