向田邦子の『絶望名言』

ざっくり言うと
2018/12/31 ラジオ深夜便「絶望名言 向田邦子」文学紹介者 頭木弘樹さん
『人間なんてものは、いろんな気持ち隠して生きてるよ。』
『腹断ち割って、はらわたさらけ出されたら赤面して、顔上げて表歩けなくなるようなもの、抱えて暮らしてるよ。』

文学

2018/12/31

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古今東西の文学作品の中から絶望を描いた言葉から生きるヒントを探す「絶望名言」。今回は頭木弘樹さんがセレクトした脚本家・作家の向田邦子さんの名言のうち、ドラマ『あ・うん』のセリフを中心に抜粋記事をお送りします。
向田さんは1929年生まれ。1981年に台湾での飛行機事故により、51歳で亡くなられました。その時から40年近くたった今も、向田ドラマは新たにファンを獲得し続けています。その魅力には、何が潜んでいるのでしょうか。


「普通」を失って気付いたこと

向田さんはたくさんの名作を残されています。テレビドラマのシナリオも書かれますし、エッセーも書かれますし、小説で直木賞も受賞されています。
とても多才な方ですが、エッセーや小説は後からで、最初はテレビドラマ、それも『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』といったコメディータッチのホームドラマをずっと書かれていた。大きな病気をされて、手術も受けられて、さらにその手術の輸血が原因で肝炎になられて右手が動かなくなってしまうという、たいへんな経験をされます。
向田さんは、当時の心境を話し、いろいろ書かれています。

『やっかいな病気を背負いこんだ人間にとって、一番欲しいのは「普通」ということである。』

病気をすると「普通」というのは、手が届かないものになります。「普通」っていうのは「普通」だけに、失うと本当にきつい。
向田さんは、テレビドラマの仕事をしばらくお休みになる。その時にたまたま、向田さんのご病気のことを全然知らずに、書籍の編集の方がエッセーの連載の依頼をしたんですね。向田さんはかなり迷われたみたいなんですけど、この時点では「もうあまり長く生きられないかもしれない」と思ってらっしゃって、考えた末に、こう書かれているんです。

『誰に当てるともつかないのんきな遺言状を書いておこうかな、と思った。』

「のんきな」と言われていますが、このとき右手が使えないので、左手でゆっくり書かれたそうなんですね。この連載を本にしたのが、最初のエッセー集『父の詫び状』です。
こうしてエッセーをお書きになるようになり、テレビドラマにも復帰される。ご経験を踏まえて、「もっとシリアスなものを書きたい」とおっしゃって、病後に初めて書かれた連続ドラマが『冬の運動会』(1977年)です。

『じいちゃんは悲しかったのだ。生き残った人間は生きなくてはならない。生きるためには、食べなくてはならない。そのことが、あさましく、悔しかったのだ。』(ドラマ『冬の運動会』)

おじいさんが愛する人を失って、すごく悲しんでいる。何も食べようとせず、泣くことさえできずにいる。周りの人が心配して、「食べなきゃだめだよ」「今バテちゃったら、あしたの葬式に出れないよ」とかいろいろ言って、口に無理やり入れるようにして、のり巻きを食べさせる。
ついにのり巻きを食べ始めた時に、おじいちゃんの目から初めてポロポロ涙が出るんです。
「どうして泣きだしたんだろう」とみんなは思うのですが、その時おじいちゃんの孫が、今のせりふを内心の言葉としてつぶやくわけです。
悲しくて、何も食べたくないのに、でも食べなきゃいけない。食べたくもなるし、生きなきゃいけない。食べたらおいしかったりするわけです。それがあさましくて悔しくて、それで涙が出る。孫はそう思うわけですね。

ここの何がすごいって、食べることを「あさましく悲しいこと」だと捉えていますよね。それが「悔しい」と。
もちろんそれは、生きていくっていう意欲だし、生きる力だし、いい面でもあるんです。もう一方で、生き残っていくっていう悲しさでもありますよね。「生きていくこと」とは、「大切な人が死んでもおなかがすく」ということであり、「食べ物がおいしい」ということなんですよ。それはなかなか気付きにくい。
人がモリモリ食べていたり、おいしそうにしたりすることって、「普通」じゃないですか。はたから見ても気持ちがいいですよね。一方で、死んでいくほうはもう食べられないわけです。死んでいくほうの側の、もう生きられない側の、食べられない悲しさもある。それを書いた向田さんはすごいと思います。ご病気をされたこともあるのかもしれませんね。

病後の心境の変化を向田さんはこう書かれています。

『あのころ持っていた疲れを知らない体力や、向こう見ずは、なくした。そのかわり、あのころは分からなかった人の気持ちが少しは分かるようになりました。』

そういうご心境の中で、「普通」を失った人間の悲しさみたいものに敏感になられたんでしょう。この後『阿修羅のごとく』や『あ・うん』など、シリアスな名作を次々書かれていく。

おかしなバランスの上で成り立つ人生

『あれ、何て言ったかな、将棋の駒グシャグシャに積んどいて、こう、引っ張って取るやつ。1枚を取ると、ザザザザッと崩れるんだな、おかしな形はおかしな形なりに金鉱があって、それがみんなにとって幸せな形ということも、あるんじゃないかな』(ドラマ『あ・うん』)

『あ・うん』(1980年~1981年)は、向田さんの最後の長編ドラマです。「あ・うん」というのは狛犬のことで、対になって向かい合っている狛犬のようなふたりの男の友情を、その家族や周辺の人を交えて描くドラマです。ふたりの友情や家族とかが、絶妙なバランスの上に成り立っているんですね。嫉妬や劣等感、普通なら関係が壊れちゃうようなものが、逆にみんなを結び付けている。微妙なバランスの上に成り立っているドラマで、とても面白いです。

子どものころ、ほかの家に遊びに行ったりするとき、「ほかの家庭って随分自分の家と違うんだな」って驚いた覚えがあります。ある家では、父さんが帰ってきたとなると、それまでワーッとなっていた家の中がシーンとするんですよ。ミシッミシッと歩く音にみんなが緊張したりして、こちらも怖くなる。「こういう家もあるんだな。いろいろ違うんだな」と思いましたね。
「家族はこうあるべき」っていう、ある種の理想像がある。みんなそこに向かっていこうとする。「うちはいけないんじゃないか」「もっと理想の家族像に近づかなきゃいけないんじゃないか」。理想像を目指して「そうでなければならない」と思いすぎると、かえって将棋崩しのように、せっかくバランスをなんとか保っていたのが崩れる、ということがあると思いますね。

『人間なんてものは、いろんな気持ち隠して生きてるよ。腹断ち割って、はらわたさらけ出されたら赤面して、顔上げて表歩けなくなるようなもの、抱えて暮らしてるよ。自分で自分の気持ちにふたして、知らん顔して、なし崩しに、ごまかして生きてるよ。』(ドラマ『あ・うん』)

「気持ちが通じない」とか、コミュニケーション不全、意思疎通の不可能性といったことがよくいわれます。人と人との気持ちが通じ合わない、現代人の孤独や問題点。

僕は、「それは逆じゃないか」と思う。本当にみんな気持ちを伝えようとしているのか。むしろ、本当の気持ちが伝わらないように努力している、と思うんです。そのために会話しているんじゃないか。伝えるためじゃなくて、伝えないために。
もしも自分の本音がだだ漏れになっちゃったら、えらいことですよね。『サトラレ』っていう漫画があって、主人公は自分の心が全部人に伝わっちゃう。そういうのってすごく大変です。
普通の人は、人に伝わると大変な本音を隠しながら生きているわけじゃないですか。しゃべる時に肝心なことは、「本音が伝わらないようにすること」だと思う。いかにして伝えないようにするか。ほとんどの言葉は、本音を隠すために語られているような気がするんですよね。
「気持ちが伝えられないのが悩み」という人も多いですけど、本当はいかに気持ちを伝えるかっていう練習より、「いかに本音を伝えないか」というほうが肝心なんです。むしろ、うまく伝えることができなくてほっとしてもいい。伝えないことのほうがよほど人間関係をよくしますよ。

向田さんが『言葉が怖い』という講演会で、こんなことをおっしゃっています。

『言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることのできるのも言葉だが、相手の急所をぐさりとさせて、生涯許せないと思われる致命傷を与えるのもまた言葉である。』

向田ドラマの魅力は「“自分の後姿”が見られる感覚」

『あ・うん』というドラマに出演していらっしゃった俳優の杉浦直樹さんがこうコメントされています。「向田さんの台本を読むと、自分じゃ見ることのできない背中を見せられたような気がしました」と。
確かに、自分の背中は見られない。自分のことは自分が一番よく分かっていると言いながら、自分の顔は鏡の中でしか見られないし、自分の横顔や後ろ姿も見られない。もしかしたら、自分の後ろ姿が思いがけないほど寂しそうかもしれないし、逆に意外とちゃんとしているかもしれない。
自分では見られない自分の姿を見せられるような感じがするところが、ドラマの魅力だと思います。「こんな後ろ姿がある」って言われたような、ドキッとするような感じ。ドラマには、高齢の人も若い人も、いろんな登場人物が出てきます。さまざまな人物が描かれていく中で、さまざまな後ろ姿、見えない後ろ姿が出てくるんだと思いますね。

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