安部公房の『絶望名言』(前編)

ざっくり言うと
少数派という“弱者”への想い、受け入れがたい未来からの“有罪宣告”……。コロナ禍に響く言葉の数々
誰もが初体験の今の世界を、これまでと違う“眼”で見つめる機会ととらえることができたら
2020/04/27 ラジオ深夜便 「絶望名言 安部公房」文学紹介者・頭木弘樹さん

文学

2020/04/27

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古今東西の文学作品の中から絶望に寄り添う言葉を紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。文学紹介者・頭木弘樹さんは、かつて長期にわたり療養生活を強いられました。「感染を恐れてのひきこもり」もあったそうです。新型コロナウイルスの感染防止で多くの人が自宅で過ごす中、「世の中の人がみんな同じ状況。不思議な気がします」と言います。今回は安部公房作品の中から、現在の状況に響く言葉を読み解きます。


今、改めて読む安部公房

――新型コロナウイルスの感染を防ぐためにということで、頭木さんには電話でご出演いただいております。

頭木さん: 今はなるべく外に出ないようにして生活していますが、私の場合はこれが初めてではないんですよね。

――頭木さんは20歳で難病になって、それから13年間、入院しているか自宅で療養しているかという生活を続けられました。

頭木さん: 13年間、ひきこもっていました。免疫力が低下する副作用のある薬を使っていたので、感染を恐れてということもあったんです。そのときは自分だけだったわけですが、今回は世の中の人がみんな同じ状況なわけで、なんだか不思議な気がします。

――今回は安部公房です。小説家で、代表作には『砂の女』『箱男』『密会』などがあります。安部公房を選ばれたのは、今のこの状況と関係がありますか。

頭木さん: 改めて、読むべき作家かなと思います。
安部公房は以前から大好きな作家で、亡くなったニュースを見たときは涙がとまりませんでした。

――亡くなられて27年です。

頭木さん: 生まれたのは1924年。『変身』を書いたフランツ・カフカが亡くなった年なんですよね。

――生まれ変わりみたいな偶然ですねえ。安部公房はカフカにも関心が深かった?

頭木さん: 日本で最初にカフカの翻訳が出たときはあまり読む人がいなかったんですが、そのうちの1冊をちゃんと読んでますね。

――さすが、という感じがしますけれども、安部公房の最初の絶望名言、さっそくまいりましょう。

多数派という強者が抱く「少数派という弱者への殺意」

弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。
(安部公房 『密会』、『公然の秘密』、演劇作品『仔象は死んだ』)

頭木さん: この言葉を、安部公房はいろんな作品の中で何度も使っているんです。

――社会的な事件をも思わせるような言葉ですね。

頭木さん: 安部公房自身がこんなふうに説明しています。

弱者を哀れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るということなんだね。
(安部公房『都市への回路』 以下同)

これだけ聞くと、「弱肉強食」ということのようですよね。弱い者を殺して強い者が生きるというような。例えばライオンとウサギがいればライオンが強者でウサギが弱者なわけですね。でも、もしウサギのほうが圧倒的に数が多かったらどうでしょう。いくらライオンでも弱者になってしまいます。つまり、個として強いという意味での強者と、社会的な強者というのは違うわけです。社会的な強者というのは多数派のことですよね。

さらにこう続きます。「現実の社会関係の中では、必ず多数派が強者なんだ。平均化され、体制の中に組み込まれやすい者がむしろ強者であって、はみ出し者は弱者とみなされる」。つまり人間社会での強者というのは社会に適応している多数派のことで、少数派、マイノリティーが弱者ということです。そしてさらにこう書きます。「共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたい、という衝動と、強者願望とは、意外に似通っているんだね」。社会に適応したいという気持ちは誰の中にもあります。そうやって一生懸命、強者になろう、適応しようとしているときに、適応しようとしない者やできない者は、いらだたしい存在になるわけです。

――うーん、まあ、そうでしょうねえ……。

頭木さん: 難易度の高いジグソーパズルって、わざと形が合わないピースがいくつか入っているらしいんです。そういうのがあるとより難しくなるわけで、でもちょっといらだたしくないですか?
弱者への殺意というのは、そういうことではないでしょうか。多数派にみんなでなろうとするときに、その和を乱す者を排除したくなるという。

――でも、排除はよくないですよね。

頭木さん: そのことについても書いています。

たとえば発明・発見などを考えてみても、弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。(中略)衣服を例にとってみようか。非常に体が強健で、寒くても平気な奴には衣服は要らない。すぐにブルブルッとくる奴が寒さしのぎに衣服を発明する。そういう弱者の組織力というものが、社会を展開し構築していくわけだ。
(同上)

強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史っていうのは根本的にはそうなんだね。逆に言えば弱者のある部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。(中略)よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが我々の未来に対する希望みたいなものに水をさしてる部分が非常に多いわけだ。
(「演劇のアナログ感覚『東京大学新聞』のインタビューに答えて」)

弱者がその生きづらさゆえに、なんとかしなければと社会を改革していくわけですよね。その弱者を切り捨ててしまったら社会の進歩が止まってしまうのに、少数の弱い者は切り捨てても仕方がないというような言葉の背後には、安部公房の言うような殺意も少しこめられているのかもしれません。しかし、そうした殺意は、それこそ未来への希望に水を差すことになるわけです。

もうひとつ、安部公房の言葉です。

人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。弱者をいかに多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。
(「裏からみたユートピア」)

私たちの中にある弱者への殺意を自覚して、それに流されないようにしたいですね。

受け入れがたい未来。「それは独立した意志をもつ凶暴な生きもの」

ふと未来が、今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志をもつ、狂暴な生きもののように思われた。
(安部公房『第四間氷期』)

頭木さん: この言葉、なんだかとっても今を表しているように感じませんか。
これは、日本で最初の本格的長編SF小説とされているSF長編小説『第四間氷期(だいよんかんぴょうき)』の一節です。安部公房は、SF小説の新人賞の審査員をやって、小松左京とかを入選させたりもしています。
この小説のテーマは、未来というのは日常の連続の先にあるのではなくて、もっと断絶したものではないかということです。私たちは、きのうと同じようなきょう、きょうと同じようなあしたというふうに連続性のある日々を生きてきて、未来を描くときにもその延長線に思い描いていたわけです。ところが必ずしもその延長線上にはなくて、あるとき突然、見慣れない、受け入れがたい未来が不意に現れるのではないかということです。今の私たちには、すごく納得がいくのではないでしょうか。

――まさに、そうですね。ただ、こういうパンデミックはいつか起きるのではないかという予想も、ずいぶんされてはいましたよね。

頭木さん: そうですね。でも肝心なところは、「こういう未来は望んでいなかった」ということじゃないかと思うんです。だから受け入れがたいし、本気で取り組めない。予想されていても対策が本当にはとられていなかったから、世界中があわてていますよね。

未来は個人の願望から類推のできないほど、断絶したものであり、しかもその断絶のむこうに、現実のわれわれを否定するものとしてあらわれ、しかもそれに対する責任を負う、断絶した未来に責任を負う形以外には未来に関り合いをもてないということなのです。
(「未来とは」)

これも難しい言葉ですが、今の私たちには分かる気がします。『第四間氷期』は発表当時、あまり理解されなかったらしいんです。でも理解できないほうが幸せで、「断絶した未来」ということを理解できるようになってしまった私たちのほうが悲しいですよね。

未来は、日常的連続感へ、有罪の宣告をする。
(「日常性への宣告」)

これも怖い言葉ですが、日常的連続感の中で「まあまあ、このままなんとかやっていけるだろう」とたかをくくっていた私たちも、今、有罪を宣告されてしまったのかもしれません。

――なんとか無罪判決をお願いしたい……。

誰もが初めての体験。「最後に見る眼で描写する」

失明宣告を受けた人間が、最後に見る眼で、街を描写すること――
(安部公房「発想の種子 周辺飛行29」)

頭木さん: これは安部公房の創作ノートの一節です。

――どういう「眼」なんでしょう。

頭木さん: 山田太一の戯曲に、失明ではないんですが、もう死ぬかもと思ってマンションの屋上から夕暮れの街をながめるシーンがあります。

どうってことはない町並の灯りなのに、文字通り胸が震えるくらい感動した。どこかで子供の泣く声がする。遠くで誰かを呼ぶ女の声がする。車の発進音。見下ろすと、小さく人が歩いている。みんな、なんだか少し急ぎ足だ。(中略)ああ、そのなにもかもが、なつかしくて、哀しくて、綺麗だった。その興奮は翌日も続いた。なにを見ても、よかった。歩道の石の間から草がはえているのに、ものすごく感動したり、車の排気ガスの匂いまで、もうじき別れると思えば、なつかしいんだ。
(山田太一『河の向こうで人が呼ぶ』)

もう見られないかもと思って見るというのは、例えばこういうことではないでしょうか。普段なら汚いと思うものですら素晴らしく見えたり。

もうひとつ、萩原朔太郎の随筆の一節をご紹介します。朔太郎が病気をして長いこと寝込んでいたときに、正岡子規の俳句についてこういう発見をするんです。

子規の歌(中略)は、長い間私にとつての謎であつた。何のために、何の意味で、あんな無味平淡なタダゴトの詩を作るのか。作者にとつて、それが何の詩情に価するかといふことが、いくら考へても疑問であつた。所がこの病気の間、初めて漸くそれが解つた。私は天井に止まる蠅を、一時間も面白く眺めてゐた。床にさした山吹の花を、終日倦きずに眺めてゐた。実につまらないこと、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。あの一室に閉ぢこもつて、長い病床生活をしてゐた子規が、かうした平淡無味の歌を作つたことが、初めて私に了解された。
(萩原朔太郎『病床生活からの一発見』)

同じ部屋にずっと寝ていることで、ものの見方が変わるわけですね。
私はじつは、似た経験をしたことがあります。病院に検査に行くときに、激しい痛みと危険をともなう検査なので、「もう、これで戻ってこれないかも」という恐怖もあって、普通の心理状態とは違うんです。そうするといろんなものがすごくよく見えて、日頃、気付かないものまで見えるんです。例えば電車の車輪に白いチョークだかペンキで数字が手書きしてあったりして、そんなことまで目に入るんです。
平凡なつまらない風景というものはなくなって、どこを向いても特別な風景なんですね。あとから思いましたけど、ああいうときに写真を撮るといいのが撮れるんでしょう。そういうときは写真を撮る気にはなれませんから、撮ったことはありませんけど。

今は、世の中のみんなが命の危険をいくらか感じて、家にこもっていたりするわけですよね。そうするとこれは、安部公房や山田太一が描いていたように世の中が美しく見えたり、萩原朔太郎や正岡子規のように部屋の中にあるものを見つめているだけで感動したり、そういう境地に達することが誰でもできるかもしれないわけです。

――私も含めて、今までにない経験をみなさん、してらっしゃる。そういうふうな見方ができるチャンスでもあるわけですね。

頭木さん: せっかくですから今までとは違う眼で、周囲を見つめてみるのもいいのではないでしょうか。

<安部公房の『絶望名言』(後編)>

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