東京藝術大学130年の歴史 バイオリニスト学長・澤和樹の挑戦 (前編)

ざっくり言うと
「科学的に」芸術の大切さを証明したい
バイオリニストとして恵まれた手を持ち、“鬼”の東儀祐二に師事した少年時代
2020/01/02 ラジオ深夜便 明日へのことば 「東京藝大130年、これからの仕事」澤和樹さん(バイオリニスト・東京藝術大学学長)

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2020/01/02

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澤和樹(さわ かずき)さんは、東京藝術大学の10代目の学長。音楽学部からの学長就任は37年ぶり2人目です。和歌山県出身の澤さんは3歳からバイオリンを始め、東京藝大から大学院を卒業して、イギリスに留学。腕を磨いて1984年に藝大に戻り、学生たちを指導するほか、奥様のピアニスト蓼沼恵美子(たでぬま えみこ)さんとのコンサートなどでバイオリニストとしても活動しています。「東京藝大130年、これからの仕事」をテーマに伺いました。


芸術の大切さを“科学的”に証明したい

――連日のようにコンサートや催しでお忙しそうです。

澤さん: 土曜日曜はむしろ大学以外の自分の活動をするために割合取っている感じなので、そういう意味ではしっかり休む日っていうのがなかなか取れないんですけども。一方で、そういう自分の活動をやることが、ある種ストレス発散にもなっていると思って頑張ってやっています。

――大学では「AMS=Arts Meet Science(アーツ・ミート・サイエンス)」というイベントも開かれています。

澤さん: これは学長になってみて、いわゆる藝大で頑張って勉強して、そのあと芸術家として活躍していく場っていうのが意外と限られている感じがして。そこのところをなんとかしなきゃいけないなということは思ったんですけれども、芸術ってとかくぜいたく品のように扱われて、「人間が人間らしく生きるためには、芸術って本当に必要なんだ」ということを世の中の人に分かっていただかないと、なかなか苦労して頑張っている芸術家、あるいは芸術家の卵が報われないだろうな、というところで。
芸術や音楽で人に癒やしを与えるとか勇気づける力って、やっぱりあると思うんですけどね。それを科学的、あるいは医学的に証明できれば、もっとみんなが芸術のことを大切にしてくれるんじゃないかというふうに思い始めるようになりまして。1回目は2016年9月に世界的なチェリストのヨーヨー・マさんもお招きしてコンサートシンポジウムを行いまして、ついこの間、3回目ができたというところです。

――「芸術と科学」。2つは何か交わらないようなのに、でも本当は交わったほうがいいということですか?

澤さん: そもそも分野として科学と音楽を含む芸術を分けてしまって、そこに今、溝ができている状態なので、お互いが影響を及ぼし合ってより優れたものになっていく、というふうにしないといけないんじゃないかなと思います。
東京藝大の中でもそういった取り組みは、いろんな研究室単位とかでは起こってはいたと思うんですけれども、それを大学全体で取り組むようにしようと思ったのが3年前なんです。

――東京藝術大学の創立130年。長い歴史だから何かしたい、やらなければ、という思いもあったわけですね。

澤さん: そうですね。歴史がある、ということは非常にすばらしいことで、その伝統は守っていかなければいけないんですけれども、同時に伝統にしがみついていてはいけないし、“イノベーション”というのは、ある種伝統を壊すことから始まるというところもある。それで新しいものが生まれて、それがまた伝統になっていくということだと思うので。とかく芸術家って、自分の専門領域に集中するあまり周りが見えないことがありがちなので、横のつながりをもっとお互いに持つことで、より新しい気づきにつながるんじゃないかと。私が学長になってからは、せっかく「総合芸術大学」というところにいるメリットをもっと教員も学生も生かせるといいな、ということでやってきていますね。

――2016年4月に、東京藝術大学の10代目の学長に選ばれました。そのときのお気持ちはいかがでしたか。

澤さん: 実は現在、文化庁長官になられた宮田亮平先生が、あと6年間引き続き学長をやられる予定だったんです。それが突然、文化庁長官に指名されてそれをお受けになったので、確か3月1日ぐらいだったと思うんですけれども、その時点で私が急きょ4月から学長を務めるということになってしまった。だからある意味では、全く準備もないまま学長になったんですけれども、どうしていいのか分からなかったです(笑)。
ちょうど私が藝大の学生だったころは、ピアニストでもいらした福井直俊(ふくい なおとし)先生が学長をされていました。私で10代目ですけれども、音楽学部出身は37年ぶりということで自分自身が驚きました。

入門許可は「手」のおかげ

――澤さんは1955(昭和30)年1月生まれでもうすぐ65歳ということですが、まだまだ元気でお若いですね。

澤さん: 私、実は子どものころはすごく“老け顔”というか、生まれたころからずっと肥満児を続けて、体も比較的大きかったので、小学校も4、5年生ごろから公園で遊んでたりすると、近所の子どもたちが「おっちゃん!」って言って近づいてくるような感じで(笑)。
高校時代にコンクールで東京大会に出るときに、初めて背広を大阪のデパートに作りに行きましたが、店員さんが母親と夫婦と間違えたらしくて、「ご主人にはこの生地がお似合いで」というような話になったりとかあったんですけれども、意外とそのころから今もあんまり変わらない、と言われるようになってきました。

バイオリンは、母に言わせると、3歳10か月ごろだと思うんですけど、たまたま母が読んでくれた絵本の「三匹の子豚」の中の1匹が楽しそうにバイオリンを弾いているのを見て、「僕、これやりたい」って言ったらしいんです。それで和歌山のデパートのおもちゃ売り場で、母親がプラスチックでできたバイオリンかギターか分からないようなおもちゃを与えたら、「こんなんじゃなくて音が出るのがいい」って。それで楽器屋さんに行って8分の1サイズのバイオリンを購入することになりました。さすがに本物のバイオリンを買っても家族は誰もできませんから、楽器屋さんに神戸から週1回、教えに来る先生がいらしたので、そこに入門して始めたんです。
うちの両親は全く音楽の素養というのはなかったんですけども、ただ、親戚にレコード会社に勤めている人がいたので、当時、電蓄(電気蓄音機)が家にはあったんですね。だから、なぜかクラシックの未完成交響曲とか、そういった名曲の全集もあって、本当にごく小さいころから何となくそういうものを聴いていた感じでしたね。

楽器店の先生にはずっと習っていたんですけれども、幼稚園がカトリック系の幼稚園で、そこでミサのときにすばらしい声で歌っているシスターがいらして、その方に小学校に上がってからもピアノ伴奏をしてもらっていたんですが、「何か4年もやっている割にはなかなか上手にならないね」って言われて、それで母親がショック受けて、「才能ないから、やめたほうがいいんでしょうか」と言ったら、そのシスターのかつての教え子さんで東京藝大に行かれた方がいるっていうので、その人に紹介していただいたのが大阪の東儀祐二(とうぎ ゆうじ)先生でした。
「音色は比較的いい」ということは言われたりしていたみたいなんですけど、テクニックがなかなか追いつかなくて、いい音程が取れなかったみたいです。だから小学校2年生のときに、初めて東儀先生に入門が許されるかどうかという、オーディションに近いようなものがあったときに、「全然基礎ができていないからだめだ」って言われた。ところが先ほど言いましたように割と体格がよくて、手も大きくてコロコロしていたものですから、「指を見せてごらん」と言われて、4本の指の長さがそろっていてぽっちゃりしているので、「これはうまくなるかもしれん」というので、手を見て拾ってもらった感じで許されたんですけれども。
私の指先は硬くならないんですよ。特に女の子の生徒さんなんかでよく練習する子は、指に弦の形が轍(わだち)みたいになっている人もいるんですけど、指先が硬いと、やっぱり音も硬くなるんですよ。押さえ方とか体質とか、人によるんでしょうけど。外国のすばらしいバイオリニストなんかとスッと握手すると、やっぱりふわっとした柔らかい手の方が多いんですよね。だからそういう意味では、手はすごく恵まれているのかなと思いました。

――では、それがなかったら落とされていたかもしれないと。

澤さん: ええ、きっとその場で破門だったと思います(笑)。門前払いというか。

“鬼”の東儀祐二に師事

――指導は厳しかったんですか?

澤さん: 厳しいことで有名だったんですね。バレーボールの大松博文(だいまつ ひろぶみ)監督が、よく「鬼の大松」とか言われていましたが、「鬼の大松か、鬼の東儀か」と、そのころよく言われてたぐらい厳しいので有名だった先生で。ほぼ毎回のように泣いて帰ってました。小学2年生から習い始めて、初めて褒めてもらえたのが5年生の発表会が終わったときだったと思うんですよね。
このままだと逆に音楽やバイオリンが嫌いになってしまうんじゃないかと見かねた母に、「もう無理しないでやめる?」ということも何回か言われた気はしますけども、「いや、やめない」って言ったらしいです。割合、意地っ張りだったんですね(笑)。

――小学校6年生で全日本学生音楽コンクール・小学校の部の大阪大会で3位になりました。

澤さん: 小学校5年生で褒めてもらって、「コンクールを受けてもいい」というお許しが出てうれしかったんですけど、ただそのときはあえなく予選敗退でだめでしたから、その翌年に本戦まで残って、3位のトロフィーをもらったときはやっぱりすごくうれしくて、そのトロフィーを持って南海電車に乗ったときの様子は今でも思い出します。
中学3年のときは、全国大会に出られることになったんですけれども、楽しみにしていた東京への修学旅行の日程と重なって、自分としてはコンクールのほうを休んで修学旅行に行きたかったんですけども、さすがにそれもできなくて、みんなを和歌山駅まで見送りに行って。
コンクールでは幸いに全国1位をいただけたので、あとで聞いたら、ちょうど東京から帰ってくる夜行列車が京都駅に着いたときに、朝刊を買った美術の先生がその「全国1位」の記事を見つけて、列車中で回覧してみんなで喜んでくれたというのを聞いて、すごくうれしかったです。

普通高校だからこそ味わえた青春

澤さん: 小学校4、5年生ぐらいから、東儀祐二先生が指揮をしている大阪の相愛学園の子どものオーケストラに入っていたんですね。そこで合奏の楽しみみたいなものを覚えて、音楽仲間もずいぶんできました。友達の上手な子はほとんど高校から東京に出て、桐朋学園や藝大の附属高校に行くという話をしていたので、自分も当然そっちのほうに行くと心には決めていて、まして中学3年のコンクールで全国1位になれたのでそのつもりでいたんですけど、家庭の事情が許さなかったというか、特に父親は全く音楽の関係ではなかったし、自分の息子がまさか将来、音楽で食べていけるはずはないと思っていたので、大反対されて。私は比較的、親に刃向かうということはなかったんですけど、そのときばかりはかなり険悪な雰囲気だなと思いました。母親なんかはなんとか工面して東京に出してやりたいと思ってくれていたみたいですけども、その当時の私の家の事情では東京に高校から下宿させるっていうのも難しかったと思いますし、それで和歌山の県立の普通高校に行くことになったんです。

当初は行きたい東京の音楽高校に行けないってことで、何か取り残されたような気持ちになったりもしましたけれども、一方で自分は音楽以外にも、例えば昔読んだ野口英世の伝記などの影響もあって、お医者さんとしていろんな人を救えたらと思ったり、あるいは建築なんかにも結構興味がありました。桐蔭高校は進学校で周りは医者になりたいなどという人たちがすごく多かったものですから、友人たちの影響も受けて、医者になるか、建築家を目指すか、音楽家になるか、というところでかなり迷ったりもして、高校2年生までは「理科系でも文化系でも両方選べる」というコースに行ったりしてましてね。
結構、野球も強い学校だったので、夏休みは県大会の予選から毎試合応援に行きました。ちょうど私が3年生のときは「もう一歩で甲子園」、地区予選の最後で負けてしまって涙をのんだんですけども、その負けたときなんか、もう顔がぐじょぐじょになるぐらい一生懸命にみんなと泣いたりして。そういう思い出はなかなか、音楽高校に行っていたらなかったとは思います。
芸術と科学とか、芸術と医学というようなことをいろんな科学的なエビデンスに導けないかという思いは、そのころがなかったら思いつかなかったかなと思いますね。

<東京藝術大学130年の歴史 バイオリニスト学長・澤和樹の挑戦 (後編)>

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