星空届ける。私は「宙先案内人」(後編)

ざっくり言うと
憧れていた星野道夫さんの死をきっかけに人生を見つめなおし、研究者から科学館の仕事へ
「星空をきれいって思っちゃう罪悪感を感じながら、でも、きれいと思う心があれば生きていける」(被災地で聞いた言葉)
2019/10/15 ラジオ深夜便 明日へのことば 「星と人をつなぐ」髙橋真理子さん(宙先案内人)

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2019/10/15

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星野道夫さんやオーロラに憧れて地球物理学科に進んだ髙橋真理子さん。研究中に挫折を味わい、自らを見つめ直した先に現れたのは、科学と社会をつなぐという新しい夢でした。1人でも多くの人におおらかな気持ちになってもらえたら。宙先(そらさき)案内人の夢はさらに広がります。


オーロラの電流を私はそんなに知りたいのかな

――憧れの北海道でオーロラ研究をしようと、北海道大学理学部に進学しましたが、現実は違っていたんですね。

髙橋さん: そうですね。当時は理Ⅰ、理Ⅱ、理Ⅲという物理系、化学系、生物系の大ざっぱな感じで、1年生は教養をやるっていう仕組みだったので、入学したときは物理系に入って2年生の秋から学科を決めたんですね。でも、私は入学式の次の日に地球物理学科に行って「地球物理学科に入りたいんです。オーロラの研究をしたいんです」って言ったら、4年生とかマスターの学生さんたちがいらしたんですけど、ポカーンっていう顔で「うちはオーロラの研究なんかやってないよ」って言われてですね。本当に驚いたというか自分でもあきれるっていうか、何を言われているのか意味が分からなかったっていうか。赤祖父俊一先生の地球物理学研究所の「地球物理」という言葉だけを頼りに、北海道大学に地球物理学科があるっていうこと以上、何も調べなかったんですね、多分、私。
地球物理学って、地震・火山・気象・海洋……、ありとあらゆる地球で起きている現象を調べる研究ですからものすごい幅が広いわけで、当時北海道大学にはそっちをやってらっしゃる先生がいなかったわけです。意気揚々と地球物理学科に向かった私に、非常に優秀な4年生の先輩、どちらかというと数学をがんばっておられた人でしたけれどもその人が、「いいじゃない、自分で勉強すれば」とかって言ってくれて、「入れ、入れ」とか言ってくれたのは本当に救いでした。でもそうやって訪ねたおかげで、オーロラ関係の研究をされている先生が外から来て集中講義をするときも、1年生のときから「おいで、おいで」と言ってもらったりしましたね。

――その後名古屋大学の大学院に進まれました。これはどうしてなんですか。

髙橋さん: 学部のときはアラスカ大学に行きたいと思ってたんですけれども、「あまりにも無謀だ」と周りから言われたり、オーロラ研究をされていた先生が名古屋大学に移るというタイミングでもあったので「ぜひ来なさい」と誘われたこともあって、名古屋大学にいくことになりました。
オーロラは電磁気現象なんですけれども、オーロラが出るときは電離層の中にものすごい電流が流れます。そうすると地上の磁場が乱れて磁石がどんどん乱れるわけですね。磁力計の観測から、どういうふうに電流が流れるのかを逆計算するような、シミュレーション的な研究をしていました。

――研究者の道には進まなかったんですね。

髙橋さん: オーロラとかアラスカとか星野道夫とか、何か憧れたものを追いかけて行く、夢を追いかけている自分が好き、みたいなところに自分を追いやっていた、というか。オーロラという美しいものがあり、アラスカという壮大なものがあり、そういう自然に心動かされる自分が、それにおもむいていたところもあります。
でも研究の現実はそんな甘いものではなく、博士のコースになったころに、「オーロラの電流がどれだけ流れてるかってことを、私はそんなに知りたいのか」って自分に問うたときに、「全然そうでもないな……」と思ったんですよね。もちろん研究はそれだけじゃ全然ないんだけれども、「本当にそのことを知るために自分は一生を費やすのか」と思ったときに、私はそうじゃないなってことを、博士まで行って3年間も過ごしたんですがやっぱり思いまして、それまでずっと「したい」と思うことを追いかけて、アラスカにも行ったり星野さんにもあったりしてきた人生のなかで、博士課程に入って初めていわゆる挫折というか、思うようにいかない。しかも自分が目標にしてたものが、何か、「そうじゃないんじゃないか」みたいになったときに、ものすごい落ちこぼれてしまって。ちょうどそのときに星野道夫さんがクマに襲われて亡くなっちゃったんですね。

――そのときだったんですか……。

髙橋さん: 本当に何か生き生きと生きてきた自分を失いかけた時期だったので、オーロラやアラスカは自分にとって何だったのか、そもそも自分は一体何か、みたいな、本当にゼロまでいって、そうとうしんどい時期でした。でも星野さんの死がきっかけで、とことん考え直す時間を与えられたというか。あまりにもいくら考えても分からなかったので、星野さんが亡くなって1か月後にお友達が集まるメモリアルがあったこともあって、アラスカに行って改めて考えました。自信をすべて失っていたので、でもそうは言っても何かできることはあるよなと思って、今まで何をしてきたのか、そもそも、「こういう自分が好きだな」っていう自分は一体どこにあったのかとか、一生懸命、書き出したんです。1つ残らず書いてみようと思って。自分はこれが苦手なんじゃないかなっていうことも見つめ直すというか。
それでやっぱり私は人が好き、人を相手にする仕事をしたい、せっかく科学をここまでやってきたわけだから、科学と社会をつなぐような仕事ができるんじゃないかなとか、だんだん思い始めまして、そこで行き着いたのが科学館や博物館というところで、それこそ科学と社会の間の仕事ができるんじゃないかなって思い始めたんです。

宇宙連詩山梨版「星つむぎの歌」

――そして山梨県立科学館と出会ったわけですね。

髙橋さん: そうですね。研究者にならないことを決めて、就職しなければいけないので全国の科学館という名前のつく所に50通ぐらい手紙を書きまくりまして、いろいろ探していたら、「新しく山梨県立科学館ができるよ」って教えていただいて、そして山梨県に拾ってもらいました。

――しかも、天文担当?

髙橋さん: はい。天文学のことはちゃんと学んでいなかったんですが、プラネタリウムをやるところで募集があったので、そこで受けたわけです。おかげさまで自分では想像していなかったことが次々におきましたけれども、プラネタリウムの「番組」と呼ばれる20分ぐらいの映画みたいなものを作ることが、何も分からないときから仕事としてありました。何を伝えたいかをとことん考えてシナリオを作ったり、映像と星空と音楽を合わせていくみたいなことや、自分の言葉で伝えることも楽しかったですし、総合芸術の場だなと思いながらプラネタリウムの可能性をいろいろ感じました。もちろん分からないことだらけだったんですけれども、最初からいろいろ感じることがあって、楽しくやらせてもらいました。

――番組作りにずいぶんこだわったそうですね。

髙橋さん: 生意気ながら最初のころからこだわっていた部分がありました。博物館や科学館が公立の施設である以上、生涯学習というか地域の人たちの学びの場である以上、その人たちにとってなくてはならない存在になりたい、それぞれの人の居場所になってほしいっていうのは最初から思っていました。番組作りでも、いかに地域を巻き込みながら、いろんな人たちを巻き込みながらっていうことを意識してやってましたね。何を知りたいのかインタビューしたり、そういうことを題材に番組を作ったり、子どもたちに合唱で参加してもらったり、参加性の高い、山梨県民が財産と思ってくれるようなものを作りたいと常に思いながらやっていました。

――その中の1つが、「星つむぎの歌」の制作です。

髙橋さん: もう12年前になりますけれどもね。「宇宙連詩山梨版」という名前で、当時JAXA(宇宙航空研究開発機構)が「宇宙連詩」というのを企画されていて、国際宇宙ステーションに持っていくものとして「連詩を作ろう」っていう。グローバルな視点を持って、国境も超え文化も超えすべてを超えてみんなで1つの詩を紡いでいくっていう概念を作られた方がいて、その方の話を聞いて、山梨版を作ろうと思ったわけです。
JAXAの宇宙連詩は大岡信(おおおか まこと)さんなどが提唱された連詩の姿、5行の詩の次に、3行、5行、3行の詩を連ねていくスタイルでした。私たちがやろうとしたときに詩を選んでいくエキスパートが必要だったので、山梨出身の詩人・作詞家の覚和歌子(かく わかこ)さん、『千と千尋の神隠し』の「いつも何度でも」の詞も書かれている方ですけれども、「是非一緒にやってくれませんか」と声をかけたら、「詩と宇宙はとてもよく似ています」と、二つ返事で了解いただきました。そして、「詩というスタイルで世の中に広めたり後世に残すのは難しい。せっかく作るんだったら歌を作ろう」と、覚さんが提案してくださったんです。
全国の人に呼びかけて、星を見たときに感じることを言葉にしてくださいと、1行1行、募集をかけたわけです。一番最初のフレーズ「空の青さがなつかしいわけは」は覚さんが書いて、「それに続く1行を15文字か16文字ぐらいで作ってくださいね」と呼びかけたら300~400の言葉が集まり、そこから覚さんが選び、そしてまた次を募集して……ということを、新月と満月の日に繰り返して、半年かけて1つの歌を作ったんです。その歌詞に財津和夫さんが曲をつけてくださって、平原綾香さんが歌うという、山梨という小さな田舎から、全国に向かう、世界に向かう歌がそのときできたんです。宇宙飛行士の土井隆雄さんの2度目のミッションの打ち上げに間に合うように作って、彼の応援歌、という位置付けで始めたものでした。

――「星つむぎの歌」。私も何度も聞いていますが、心にしみわたります。大変な反響を呼んだようですね。

髙橋さん: 星を見ることは人々にとって何なのか、人が生きていくのにどれだけ大事なものなのかを、逆に私はいろんな人たちから教わったなと思います。星を見るって何なんだろうということを、活動を通していろんな言葉で教えてもらいました。それが今の自分の活動を全部作ってくれている感じがします。
星を見上げたときに何を感じるかはいろいろあると思うんですけれども、誰かのことを思うとか、ちょっと遠いところから自分を俯瞰(ふかん)して見るような視点を与えてくれる気がします。他者のことも自分のことも少し俯瞰しながら何かを伝えるっていう、星を見ながら手紙を書くとか、そういうことができるとすごくいいなと思ってるんですけれど。

「フライングプラネタリウム」

――2016年、県立科学館を退職されて「星つむぎの村」という団体組織を立ち上げました。この決断、どういう流れがあったんですか。

髙橋さん: きっかけはいろいろあったんですけれども、いつかミュージアムを作りたいっていうのは大学4年のときに思ってたんです。自分が好きなテーマ、例えばオーロラを科学とかアートとか音楽とかいろんな角度から見るような、総合芸術の場としてのミュージアムを作れたら楽しいなっていうことを思っていて、山梨県立科学館では本当に楽しませてもらったんですけれども、いつかやっぱり自分の場を持ちたいという思いだとか、いくつかトリガーになることがありました。覚和歌子さんには、「真理子さん、いつやめるの?」と突然言われて、「えっ、わたしやめるの?」みたいな。「そのときが来たら分かるよ」とか言われていて、「そのときが来たな」って思ったときがやっぱりあったんです。しかもそれが、あと1年で辞めようと思ったとき、その1年後っていうのが星野道夫の年に追いつくことに気が付いて、「もうこれは大丈夫だ。えい、やめよう」と思ったら、決断は早かったです。

――次から次へと、人と星をつなぐ取り組みをなさっておいでですけれども、パワーの源は何でしょう。

髙橋さん: 今は特にどこに行っても、「やっと来てもらった」みたいな感じで迎え入れてくださるところが多いんです。特に病院はそうで、そうでなくても、企画してくださる人たちがいろんな思いで待っててくださるので、そういう人たちがいる限り、天職だなって感じます。天職に出会えたありがたさを胸に、できる限りのことをやりたいと思うんだろうなと思います。
人類の歴史の中で常に星空があり続けているっていう、想像力っていうものも星が生み出してくれた部分がすごく多いと思いますし、どんなときにも人に必要なものだなと思うんです。大震災のときに、地上がメチャクチャになってしまったかのようなあの夜に満天の星空を見て、「きれいって思っちゃう罪悪感を感じながら、でもきれいと思う心があれば、生きていける」っておっしゃった方がいました。人間が人間として生きていくために、星空っていうものがやっぱり何か人間の長いDNAの記憶というか、何かしらすり込まれているのかなっていう感じはしますよね。

――これからの夢、実現したいことはありますか。

髙橋さん: 「病院がプラネタリウム」は1人でも多くの人たちに届けたいということがありますので、一緒にやってくれる仲間を育てていくことを一生懸命やってるところです。プラス、私が直接出向かなくてもインターネットを介して星空をライブでお届けするという「フライングプラネタリウム」っていうのを始めていまして、それがうまく軌道に乗れば、病院だけじゃなくて在宅の方とか、引きこもっている方たちとか。引きこもっている方は暗い所にいるわけですよね。そういう人たちの所に直接出向くわけにはいきませんから、ネットを介してライブで「今、ここにいる」っていうことを、いろんな所の人たちが、「自分は1人じゃない」って思えるといいなっていうことを計画中です。その先にまた別にやりたいことがありますけれど、そこはまだ秘密です。

――秘密ですか(笑)。非常に楽しみです。

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