影絵作家・藤城清治95歳②「歳を重ねるほど出てくる“なにか”を味わっていきたい」

ざっくり言うと
戦争体験や被災地の姿を“作家の目”を通して残す責任
おなじみ「小人のキャラクター」は自分の分身、気持ちの代弁者
2019/05/10 ラジオ深夜便 人生のみちしるべ 「人生は光と影」 藤城清治さん(影絵作家)

趣味・カルチャー

2019/05/10

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藤城清治(ふじしろ せいじ)さんは、大正13年、東京生まれの95歳。影絵作品を作り始めて70年余りになります。繊細で色鮮やかな作品は、アンデルセンやグリム童話、宮沢賢治の絵本にもなっています。
1980年代からは中東諸国をはじめ、カナダ、アメリカ・ニューヨークなど海外でも影絵劇や作品展を開催するようになります。80歳を過ぎてから、ご自身の戦争体験や東日本大震災で被災した東北各地の風景を影絵作品として発表している藤城さんに、作品に込める思いについて伺います。
(聞き手:村上里和アンカー)


80歳、夢中でスケッチした原爆ドーム

――世界に認められる影絵作家となられた藤城さんは、80歳の時に広島の原爆ドームを訪れてから、太平洋戦争の記憶と向き合って作品に表すようになりました。それまでは作品に戦争体験を表すことはなかったわけですが、どんなきっかけで戦争についても作品にしていこうと思われたのでしょうか。

藤城さん: 僕はどちらかというと、叙情的な童話とか自分の夢みたいなものを楽しくという、メルヘン的なものを描いていたんだけど、80歳ぐらいになるころから、こうしたらおもしろいんじゃないか、かっこいいんじゃないかという気持ちで描くのではなくて、自然の持っている枝ぶりでも海にしても、宇宙というか地球のすごさをもっと感じて、自分の夢ばっかり描いているだけじゃだめなんじゃないかという気持ちが少しずつ湧いてきたんです。若いころは、原爆ドームのようなものは自分には向かないと思って、テーマにするべきものじゃない、もっと夢のような楽しいものをと思っていたんだけれども、年とともにそういうような気持ちになっている時にたまたま広島へ行くことがあった。ちょうど霧雨みたいなものが降っている中でふっと原爆ドームを目の前で見て、原爆ドームはよく知っているし、原爆にやられた絵なども見ているけど、自分が描くものじゃないと思っていたのが、煉瓦にしろあの曲がったかたちにしろ、骨組みだけになっているもののすごさに、何とも言えない衝撃を受けました。
なるべく離れた状態で、忘れたと言っといたほうがいいと思っていたけれども、目を背けたいとか、思い出したくもないというものを超えて、自分は戦争を体験して兵隊にもいき、原爆が落ちた当時に生きていた人間で、そういったことから長い時間が経ちましたから、何かを描いていく人間であるんだから、原爆ドームみたいなものこそ、自分の経験と思いを経たうえでちゃんと描いてみたい、というね。なおかつ、人間の生きているうえでの一番大事なものとして見つめられるようなものを描かなければならない、目を背けるようなかたちで描いたんじゃいけない、自分は夢を追って来ているんだから、それを超えた作品として描けるんじゃないか、描く必要があると、思ったわけです。「雨が降っているから、描けないわね」なんて言ってたんだけど、スケッチブックを持っていましたから、原爆っていうもので曲がって崩れたかたちはそう簡単にはできないから、そしてそれがそういうかたちで今日まで残っている事実と歴史を、ちゃんと描ける力や表現力を自分が出せるかどうか、やってみたいという気持ちです。

――実際に取り組んで、自分の奥から新しい表現というのは出てきましたか。

藤城さん: 何か出てくるんじゃないか、っていうね。雨が降っているから消しゴムが使えなくて、ザアザア降りではなかったから、1か所からだけじゃなくていろいろな角度から、濡れた紙の中に鉛筆でどんどん描いていきました。自分の気持ちも夢中になってね。光と影の作品としてこれを描き残したいと思ったし、見たみんながパッと目を背けたくなるようなものではなくて、僕が描くんだから、何か未来への勇気なり喜びなりを感じて、歴史の深さ、あるいは悲しみみたいなもの、人生というもの、これがあったから今日があるということを直視できるような、こういうものがあったからこそ、それを乗り越えて未来が開けていく、原爆ドームみたいなものがあるからこそ、大きな夢がまた生まれてくるとか、新しい時代が開けていくっていう作品を、美しいから美しいもの、おもしろいからおもしろいもの、夢があるから夢を描くっていうんじゃなくて、描いてみたいという気持ちです。

――その奥にある、その先にあるメッセージを込めて、描かれているわけですね。

藤城さん: 80歳くらいになって急になったんじゃなくて、徐々に体の中にしみ込んできて、芸術的にも気持ちのうえでも、いろいろな意味で出てきたと思うんですよね。

――“時”が、やって来たんですね。

陸前高田の奇跡の一本松

被災地を記録として描き残す責任

――日本各地の風景を描かれ、またご自身の戦争体験と結びつく九十九里浜などでも影絵を作られましたが、東日本大震災のあと被災地に入られて、防護服を着て福島のデッサンをする姿は私も印象に残っています。東日本大震災というのは、藤城さんにどんな影響というかインパクトを与えたのでしょうか。

藤城さん: 自然のすさまじさであると同時に、地球が生きてるっていうか動いていく中で起こったもので、それによる災害にどう取り組んでいくか。それを写真で記録するのももちろん大事だけれども、1人の作家が気持ちを込めて、いろんなことが入り混じっているものの中で描く被災地の絵というのは、記録として後世に残すのがとても大事じゃないかなと思って、いろんな経験を積み、年をとって乗り越えてきた僕のような人間に、その責任があるように感じます。
家を押し流し、船をのし上げたりする、その何ともいえないすごさ。壊れたものを壊れたものとして写実的に描くのではなくて、そのすごさをどうとらえて、乗り越えて、人間は時代を越えて生きていかなきゃいけないっていう勇気が出るような絵でなければいけないと思う。いろんな悲劇や悲しみがあるけれども、それを越えた力のすごさとか、それを越えていくのが人間の勇気じゃないかな。そういうものを何か出せたような絵を描くのが、重要なことじゃないかなと。

むずかしいですよね。美しいものの絵は美しいと思って描けばいいんだけど、かたちのとりにくい、想定を越えた力で曲げられたり押し流されたかたち、崩れたかたちっていうものを、いやだというだけじゃなくて、そのすごさと、それを人間は越えていくんだということが湧き出てくるような描き方に挑戦をしたいと思って、夢中になってしまって、放射能の数値が上がって「やめてください」と言われて、「ちょっと待ってください」なんてことになったり。

――デッサンしている間に、時間がどんどん経ってしまったのですね。

藤城さん: そういう意味でも、本気になって描けたと思います。

――描かれた被災地の影絵には、小人が登場して折り鶴が飛んでいるという、そういう作品になりました。

藤城さん: そこに勇気と癒やしが生まれて、さらに未来への希望の心を植え付けるような作品にしなくちゃいけないと、思うんですよね。

――小人は、藤城さんの作品に必ず出てくるおなじみのキャラクターだと思うのですが、どこから生まれてきたものなんですか。

藤城さん: 自然にね。自分の分身でもあるし心でもあるし目でもあるというか、自分の気持ちを代弁してくれるようなものです。最初は深い考えで始めたわけではないんです。20代のころ、朝日新聞で北畠八穂(きたばたけ やお)さんという詩人の詩に影絵をつけて5年くらい連載した時に、分身である小人が、空を飛んだりこうもり傘を持っていたり。最初は目もなくて、モノクロでシルエットだけでした。そのうちに、自分の見る目でもあるし、生き生きしたかげりのない目とか子どもの素直な目の象徴として入れたいなと思って、途中から目を入れるようになってね。

――改めて、かつて『暮しの手帖』の花森安治さんが、「藤城さんの影絵には光がある」とおっしゃった言葉を思い出します。それがたぶん、今、人々の心に届いて、励ましになっているのでしょうか。

藤城さん: 花森さんには、いろいろな意味で育てられたというかね。気持ちとしては、僕が影絵にかけているというよりも、花森さんが僕をけしかけたというか、花森さんのほうが夢中じゃないの、と思うくらいでね。それによって僕も、影絵っていいんだなぁと分かるようになって。いろいろな意味であの人に助けられて、わりあい自由に僕にやらせながらリードしてくれました。『暮しの手帖』に何十年と連載したけれど、花森さんがいいと言ってくれれば僕は大丈夫なんだっていう安心感の中で、楽しんで自然体で作ってきました。

――藤城さんの才能をさらに開かせるためのいろいろな刺激を、花森さんはくださったんですね。

藤城さん: 特別細かく教えてもらったことはないけれども、『暮しの手帖』では、僕の個性を出そうとか、僕の影絵として連載しているというのではなくて、『暮しの手帖』が狙っている1つの世界観が僕の影絵だということを、相当、頭に入れていました。『暮しの手帖』の方向性を僕の影絵は作っている、そう思ってやっていましたから、『暮しの手帖』の影絵のページを最初に開くという人も多かった。

――私、子どものころ、母が買ってくる『暮しの手帖』を毎回、藤城さんの表紙と中のページを楽しみに読んでいて、それがものすごく子ども時代の思い出として残っています。今日は、それを作られた方とお目にかかれて、ほんとうにうれしく思っています。

年をとるほど高まる“なにか”を味わっていきたい

――藤城さんは90歳になって手足の激しいしびれに襲われて、椎間板ヘルニアと脊柱管狭窄症(せきちゅうかんきょうさくしょう)で、2回手術されています。手のしびれは作家としては恐怖だったのではないですか。

藤城さん: そうだけど、何かしら、個人でも社会でもいろんなことが起こってくることがあるものだけれど、入院中は病室がわりと上の方だったものだから、東京タワーやビルが見通せるんです。他にやることがないから、落ち着いて窓から外を見てデッサンしたりなんかして、元気な時はこんなにつめてビルのデッサンなんかできないですよ。なんてこともあるから、この年になれば体がいろいろ不自由になるけれども、それを越えてできるものはやっぱりある。障害が、災害もそうだろうけれども、それを越えて、できる限りのことをやっていくことに、人間としての喜びがあり、人間として生きる何かがあると思う。
僕の仕事がわりあい幸せだと思うのは、絵というものは、若い時は自由に描くのがいいなと思ったり、戦争中も戦後も、それぞれいろいろやって良かったな、おもしろかったなとか、だけどまた影絵に絞って、1つの絵としての影絵の展覧会をやっている今もすごくいいし、絵というものは、もうできないというのではなくて、今でも20歳のころとそう差はないっていうか、あるいは当時できなかったものが90歳だからできる部分があると思いますよね。もうそんなに先がないから、戦争中に明日米軍があがってくるんじゃないかと思って夢中でやっていたことが、そういう意味では作品に夢中になる夢中度が、90くらいになったほうが、できるかな、とかね。そういうのがすごくあります。

――人生を振り返ってみて、“人生のみちしるべ”となってきたものはなんだと思いますか。

藤城さん: 生きている素晴らしさっていうか、若い時、中年の時、老年の時、それぞれの素晴らしさがある。老年になるほど、生きる喜びはより高められるわけじゃない。そういう高められた作品がけっこうできるっていうか、もう引退しなきゃいけないかなということを考えなくても、いくところまでいこうという楽しさ。思いっきりみたいな、ワクワクさみたいなものが、出てきているのかなと思いますね。年をとるほど高まるもの、年をとらなければ出ないものが、ありますよね。おおげさに言うわけじゃないけれど、何かありますよ。それを味わっていきたい。作り上げていきたいと思っています。

――ありがとうございました。

撮影協力 Tomoyoshi Oshiyama

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