影絵作家・藤城清治95歳①「一番経験を積んだ今日、一番いい作品が創れる自分で」

ざっくり言うと
「片刃のカミソリで切り出す線の鋭さが、一番人の心に響く」
戦時下も続けた人形劇 「絵を描くこと、生きることのすばらしさを身につけられた」
2019/04/12 ラジオ深夜便 人生のみちしるべ 「人生は光と影」 藤城清治さん(影絵作家)

趣味・カルチャー

2019/04/12

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藤城清治(ふじしろ せいじ)さんは、大正13年、東京生まれの95歳。影絵作品を作り始めて70年余りになります。繊細で色鮮やかな作品は、アンデルセンやグリム童話、宮沢賢治の絵本にもなっています。
慶應義塾大学時代に人形劇の魅力にとりつかれ、勤労動員でかり出される中、人形劇慰問班としても活動。昭和18年、海軍予備学生となり、千葉県の九十九里浜の沿岸警備にあたります。多くの友人が特攻に出撃するのを見送りました。戦後は、「裸電球さえあれば子どもたちを楽しませることができる」と影絵劇に取り組み、『暮しの手帖』の創刊者・花森安治さんとの出会いから、影絵作家として活動を始めます。『暮しの手帖』では昔話や童話などの影絵を連載し、表紙も8年間担当しました。戦争の時代を経て、影絵作家となるまでのお話を伺います。
(聞き手:村上里和アンカー)


「片刃カミソリで制作するのは、僕だけの特技」

――東京都目黒区にある藤城清治さんのスタジオにお邪魔しています。この作業場で数々の作品が生み出されているんですね。

藤城さん: 影絵を作ったり、いろいろやっています。

――大きなテーブルが置いてあって、下から光が当たる、ライトテーブルです。今もお忙しくていらっしゃるそうですね。

藤城さん: そうでもないですよ。もともと好きでやっている仕事ですからね。もう年だから、あれをやらなくちゃとか、そういうんじゃなくてね。筆や鉛筆でも描くんだけれども、切り絵とか影絵というのは、切り抜いたり、のりを貼ったり、削ったり、光を当てたりしますから体を使うし、年をとってもわりあい手には力が残っているっていうかね。

――藤城さんの手を見ると、指先に絆創膏がたくさん。影絵を切る時は片刃のカミソリで切ってらっしゃると。

藤城さん: 切ってるとやっぱり、カミソリの刃っていうのは……。

――鋭いですものね。

藤城さん: 今みたいなカッターが戦後はなかったんです。ハサミではきちっと切れないし、ナイフも切りにくいし。あっ、カミソリの刃がある、ということで。片刃のカミソリは直角だから切りにくい面もあります。その難しさややりにくさの中で、スムーズに切れるんです。薄いから、刃がね。鋭さとか力強さとか、繊細なものと荒々しさがあるんですよね。持ちにくいですから、指に力を入れて、それに刃がしなるから、何かそこに生きてるっていうか、切った線に無限の息づかいが出るような気がするんです。安いものだし、折れちゃって1日100枚ぐらい使ってもたいした金額にならない。

――1日に100枚使うこともあるんですか?

藤城さん: そう。でも人には勧めないです。今も助手みたいにしてやってるのはみんなカッターで、僕だけがカミソリ。僕だけの特技で、何とも言えない独特のもので、カミソリだからああいう線が切れるんだっていう、他の切り絵とか影絵とは違うという自信というか、裏付けになっちゃってね。

――藤城さんの影絵を見ていると、木の葉が風で一斉に動いていたり、何か気配があったり、そこにはないものも感じられるような、見えてくるような、絵が立ち上がってくるような気がしてきます。やはりそれは体の一部になったカミソリで切り出しているということもあるんでしょうか。

藤城さん: そうね。影絵はずいぶん昔からアジアやなんかであるんです。でも僕はとにかく、筆とか鉛筆で書いたものじゃなくて、切った線のね、一つ間違えば指を切っちゃうという中で、命がけって言ったら大げさだけど、片刃のカミソリで切り出す線の鋭さが、いちばん人の心に響くと思ってやってるんですよね。

――1日はどんなふうに過ごされているのでしょう。

藤城さん: 7時か8時くらいに起きて、ここ1、2年は、朝と夕方とで1日1万歩、歩いています。そうすれば、影絵をやる力っていうか、体がもつんじゃないかと思ってね。どんなに仕事が忙しくても、まず生きるには体をね、スポーツじゃないんだけれども、そういう力がないと本当のものは作れないと思ってね。
一番今大事なのは、何を作るかじゃなくて、この1日自分の体が生きてるっていう力をね、どこまでつなげていくかということです。そしたらこの1万歩歩いた体の中から、自然に作品が噴き出てくるだろうと思うんです。だからまずは、1万歩歩くことをどこまで続けられるかにかけているのね。だんだん力が弱ってきた作品じゃなくて、今が一番、力のある作品をね、一番経験を積んだ今日が一番いい作品が作れる自分であり続けたいと、思っているんです。

――小さいころから絵が上手でいらっしゃったそうですね。

藤城さん: 幼稚園のころから描くのが好きだったらしくて、母が「無口で絵ばっかり描いてずいぶん心配した」と言ってました。しゃべるより絵で描いた方が分かりやすいし、おもしろいじゃないっていう感じだったと思います。

宮崎空港のステンドグラス

戦時下 ギリギリの中で続けた人形劇

――藤城さんの学生時代は戦争の時代と重なりますけれど、その間も絵は描き続けていらしたのですか。

藤城さん: 中学校で慶應の普通部に入ったら、岸田劉生とか日本の洋画界の先駆けになったような人が絵の先生だったんです。油絵やエッチングも教えてもらって、すごく良かったと思いますね。大学では、早稲田と慶應の絵の展覧会を銀座でやったり。ピカソやマチスが日本に伝わった時代で、僕はモディリアーニのまねをして首の細い女の人の絵を描きました。軟弱だって言われて展覧会で没収されちゃってね。それでも学生だから許されて、だからこそ、こういう絵を描かなくちゃいけないという気合いみたいなもので、精いっぱいやりました。
勤労動員中、慰問人形劇班を作りましたが、学生がそういうことをやるのを学校がすすめてくれたんです。若い男がほとんどいない農村に行った時は、子どもや老人や女の人に浦島太郎や桃太郎をやってみせたり。人形劇をしたり絵を描くことが、生きていくうえでいかに大事なことかと自分でも思ったし、世間もそれで癒されて元気が出たんです。平和な時と違ってギリギリのところでやるわけですから、演じる方も見る方も無我夢中というか、涙を流して感動してね。こっちは何も懸命にやっているわけではなくて、生きている何かを失わないようにしようという、強い気持ちがあったと思います。自然にそうなっちゃうわけですね。
戦後やっている時も、戦争中のあの気持ち、あの熱気、あの時に描いた油絵の状態になれないのかと思うことがありました。戦後、ものがなくてもやれたのは、戦争中も出来たじゃないかっていうようなことですけれども。
勤労動員を2年ぐらいやって、19歳で海軍の予備学生になってね。そういうものすごい時代の中で、何も自分でがんばったわけではないんだけれども、いっときも人形劇や絵を離さないでやれたのは、すごく幸せだったっていう気がします。平時ではできなかったような環境をもらえてね。

――海軍に入られた時は死を覚悟されていましたか。

藤城さん:
慶應の学生も半分ぐらいは軍隊にいっちゃって、特攻隊で死んでいくのも耳に入ってくるし、自分もこれじゃいけないっていう気持ちがやっぱりおこります。1年間訓練して九十九里浜へ行きましたが、火炎瓶を投げる訓練とか砂に穴を掘るとか、そんなことばっかりさせられたわけです。機関銃で迎え撃つ訓練なんかもやるんだけど、そんなことやっていても、夕方から少しの時間で人形劇をしたりしてるの。敗戦濃厚と感じていても、やれたんですよ。そういうことを通して、人形の楽しさ、すばらしさ、絵を描くこと生きることのすばらしさを、自然に身につけられてきたんじゃないかと思います。だから今、平和になって、具合が悪いからできないということにはならない。

物のない時代だからこそ生まれた影絵

――そして戦後、いろいろな出会いがあって、藤城さんの世界が広がっていったと思うんですが、影絵のどんなところにひかれたんでしょうか。

藤城さん: 戦争中、人形劇に使った人形はほとんど僕が作っていました。トランクいっぱいに入れて九十九里浜に持って行ってたんですが、終わった時に全部海に流しちゃったんですよ、人形を。アメリカ兵の手に渡したくないっていうのもあっただろうし、海に流して、ここですべて終わったという。あとから思えば、持ち帰ればよかったっていうのはありましたけれども。
人形劇の原点に影絵があるのは知っていました。でもそういうことではなくて、人形劇のように立体的に作るんじゃなくて、平面で簡単に、裸電球でもろうそくでもあればできるという影絵がいいんじゃないかなということで、やり出したんです。子どもたちに見せるにしても、色を塗ったり乾かしたりする必要もないし、ちょっと組み立てればできる。ものがなくてもできるというので、やり出したんです。

――戦後のもののない時代に合ったということでしょうか。

藤城さん: そうでなければあまりやらなかったと思うんだけれども。やってみると、切り抜いたシルエットが動くというだけじゃなくて、パッと消えたり大きくなったり伸びたり縮んだりという光と影のおもしろさ。それは人形劇ではできない予想外なおもしろさだったのね。つまり、ひとつの絵としてやっているのではなくて、僕は劇のおもしろさから入っているから、影絵だとよりいろんなことが、光と影の組み合わせで出来ることが分かった。単なる人形劇の代用品としてやっているのではなくて、そういうものを超えたおもしろさがあると感じて、のめり込んでいきました。

――昭和25年、23歳で、東京興行、現在の東京テアトルに入社して、会社勤めのかたわら、人形と影絵の劇団「ジュヌパントル」を結成して評判を呼んだと聞いています。

藤城さん: 戦争が終わって学生に戻ったんだけど、1年ちょっとで卒業したんです。戦争中から絵や人形が好きだったこと、そこに生きがいみたいなものを感じたこと、それに、影絵は映像のはしりだとか言ってフランスでも文化人が集まってカフェなどでやっていたというようなこともあって、とりあえず映画会社入ったんです。宣伝部でパンフレットを任されて、得意の女優の絵を描いて表紙にしたりしてわりと自由にやりながら、なおかつ劇団で影絵をやって。
そんな時に、僕が作ったパンフレットを見て、花森安治が『暮しの手帖』の原稿を頼むって言ってきた。来年、本を出すから手伝って、と。はじめは人形の写真を撮って、2号目に影絵を載せたら、人形の方は普通だけど影絵はいい、他にこういうことやってる人はいないよ、って。

――花森さんは、「君の影絵はただの切り絵ではない。光がある、光の空間がある」と、おっしゃったそうですね。

藤城さん: 花森さんが、影絵に絞ろうって。僕は人形の方がおもしろいんじゃないかと思ったんだけど(笑)。それで連載が始まって、会社が終わって家に帰ってから徹夜でやりました。劇団の仕事も続けながらです。

――その時代の文化を、今、生み出しているというようなワクワク感を、持ってらっしゃいましたか。

藤城さん: 何か特別なことではなくて、自然にね。大変だったけど、貴重ないい時代だったとも言えるわけです。

撮影協力 Tomoyoshi Oshiyama

<影絵作家・藤城清治②>につづく

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