熊川哲也 2年ぶりの舞台で「マジカルな世界」を再発見

ざっくり言うと
“熊川哲也みたいなヤツ”を求めてカンパニー創設
今後も「ダンサーとしては、気負いなく、がんばります
2019/04/08 ラジオ深夜便 インタビュー 「バレエ団創設から20年」 熊川哲也さん(Kバレエカンパニー芸術監督)

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2019/04/08

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熊川さん:熊川哲也さん(Kバレエカンパニー芸術監督)

日本が誇るバレエ界の巨人、熊川哲也(くまかわ てつや)さん。ローザンヌ国際バレエ・コンクールで日本人初の金賞を受賞。英国ロイヤルバレエ団で、東洋人では初めて最高位「プリンシパル」として活躍しました。1999年、27歳のときに自ら立ち上げたのが、芸術監督を務める「Kバレエカンパニー」です。設立から今年で20年。節目の年を迎え、これまでの軌跡を振り返ってもらいました。


ダンサーから組織のトップへ

――「Kバレエカンパニー」(以下、Kバレエ)設立20年を迎えて、お気持ちはいかがでしょう。

熊川さん: 肌身で感じる20年っていう感覚は、ちょっと他の人よりは薄い気はしますけどね。今までのアーティスト生活で数字に踊らされることなくやってきていたので、自分よりも周りの祝福的ムードというかそういった温度を感じて、ああ、20年経ったんだなという気がします。

――英国ロイヤルバレエ団にはその前に10年所属されていましたね。

熊川さん: 本当に古き良き清い思い出にイギリス時代はなっていますし、やっぱそれだけこの20年間の活動が濃いものだったんだなとは思いますけどね。思い出に浸る瞬間がそんなに無かったっていうか、後悔も当然ないですし。

――ロイヤルでプリンシパルで26歳の踊り盛り、そこを止めて、ご自分でKバレエを立ち上げられました。

熊川さん: ロイヤルに入ったときは16歳ですから、社会も知らない、大人との付き合い方も知らない、日本でいったら高校1年生くらいですよね。それがメジャーなところで、世界三大バレエという、パリオペラ座・ボリショイ・ロイヤル、その大きなバレエ団でスタートさせてもらった幸運な立場だったから、そこからバレエ団を広げていく、バレエ団活動をチョイスとしてみた時に、それ以上大きなバレエ団か、もしくはもうほんと縮小された小さなアプローチのクラシックじゃないコンテンポラリーとかそういったところしかないわけで、あとはもう一つは自分の思い描く自由な形で、今の形ですけどそれがね、そこにたどり着いたんでしょうね。
チョイスはありましたよ。アメリカで1,2年踊ってもいいしとか、ヨーロッパだったらイタリアスカラ座とかあったんですけど、そのときはすでに日本での自主公演がベースとして産声を上げていたので、もうその延長線上になるのは普通な感じでした。

――予想外のご苦労もあったのではないでしょうか。

熊川さん: たぶん帰国した当時に35歳で経験する大けがをしていれば、すごく苦労話にここで華が咲くんですけど、幸せなことにけがしらずで35歳までやれたので、しかもやっぱり舞台に穴を開けるっていうことが僕の辞書にはなかったから、踊り続けられたことは本当にラッキーでもあり計画的でもありっていうところで、それほど苦労はないです。
日本に帰って来たときは、「熊川哲也」っていう4文字がブランドになり、16歳でローザンヌ取ってから、メディアの方々に取り上げてもらったり活字が一人歩きしちゃったりとかしてたので、いつの日からか熊川哲也っていうのは自分の名前じゃなくなってる感覚はあったんですよ。それは多分著名な方とかビッグアーティストって皆そう思われてるのかなと思いますけど。そんな中で組織を作ってトップになったときに、本当に見よう見まねのママゴトの延長線上みたいな。他にこうやってトップダンサーが組織を離れて組織を作って育てていくって、トライした方は何人か知っていますけどほぼ自然消滅してたんで、だからまあ大人のマーケットの世界に入っていった感じですよね。

“熊川哲也みたいなヤツ”を作る

――Kバレエが求めてきたものっていうのは、プロ集団というイメージがあるのですが、そこが他と違うところだったのでしょうか。

熊川さん: うちは株式会社なので財団法人化してないわけであって、国からの援助金をいただいてないっていうのがまず1つ。チケットセールスとスポンサー協賛費などで運営してるのでバレエスクールの方もそうですけど、本当会社母体になってるのでそこは大きく違いますよね。だから潰れる可能性がある。
他のバレエ団は潰れない。なぜならば支出が少ない、ダンサーに対しての支出もそうだけど環境を整えることに対してもないと思いますから。創成期っていうのはお金持ちの娘さんがバレエをやってたのでそのまま山売ってそのままスタジオにして生徒集めてたら、バレエ団になっちゃったみたいなのが多い。
今何か作っていくっていうのは非常に大変ですよ。すごくリアリズムっていうのかな、求められる時代なんで。

そういう意味ではこの20年一個人でよく頑張ったなとは思います。バレエの世界で興行成功させるダンサーっていうのはなかなかいないです。僕は今社長目線で言ってますけど、実際、熊川哲也みたいなヤツが5人いたら、5倍の利益になるわけだから、それを作りたい。
素晴らしいダンサーはいるんだけど、素晴らしいだけじゃダメなの。売れる法則ってのは、アーティストにはなかなか無いの。商品ってのは仕掛けだったりとか法則はあると思うんです。必ずヒントがあってその答えが見つけられれば大きく売り上げが上がるんだろうけど、アーティストはなかなかないですね。点数で結果が出せる世界ではないんで。
とにかく周りが持ち上げていく、神聖化していくっていうのが、売れる法則。ゴールデンプロフィールがなきゃダメですよ。

「熊川哲也」っていうのが名前がそこに出たのは、ローザンヌで金賞、日本人初。日本人初っていうのでいかに日本人が踊らされたか。僕からするとそういう感覚全くないんだけど。そういった意味で、過大にマーケットの渦の中に入っていった感覚はありますよね。
今は俯瞰で違うものとして見られるようになったけれど、あの当時はギャップに悩まされました。クラシックバレエという崇高な世界というイメージに乗っかっちゃったわけで、実際自分は北海道の運動神経がいい少年だったわけで、だから少し勉強しなきゃいけないなとは思いましたよ。
そこはちょっと悩みましたけど、だから振付するにしても自分は振付家と思ったことはない。どっちかといったら構成作家の方が強いかなと思いますし、バレエは踊るものであって観るものじゃない感覚って未だにやっぱり強い。 だから、バレエというものが自分のプライベートを100%埋めてるかっていったらそうではないわけで、YouTube とかで他のアーティストの振りを見たりとか、一切ないですから。バレエの形式美ってのは、同じような振りにもなったりするんですよ。だから僕みたいな見ない人間が作り出す、少し真剣じみているけど何かどこかで注目を浴びて笑ってくれないかなという遊び心が入ったときにできた振付は、他の人にはなかなかできない。

――そこが熊川さんのオリジナリティーですね。K バレエでの20年はオリジナル作品、世界初演のものをやることに尽きるかなと思うんですが。

熊川さん: おっしゃるとおり、そこはやっぱり一番誉めてもらいたいところです。バレエ、シアタービジネスっていうのは、特にこの20年30年は下火だったりするわけ。やっぱり文明の発達だったりとか情報のスピードだったりとか人の興味だったりとかは最新のテクノロジーのほうに向いていってるところで、このご時世、新作を予算をかけてオリジナルを生み出していくっていうのが、いかにすごいことかっていうのは、このごろ思っています。たしかに周りってやらないよなーって。『死霊の恋』『クレオパトラ』『カルメン』、今度『マダム・バタフライ』やり、なおかつ今度オーチャードホールでは30周年の『カルミナ・ブラーナ』をやったりしますけど、それなりの金額かかるわけです。Kバレエは今まで20年の中で、新作という、改訂版・熊川版でもう12,3作品フル・プロダクションがあるので、すごい金額やっぱり衣装・セットにかかっているじゃないですか、一流の世界のオリジナル作っているので。まあ手前味噌になりますけど、「すごいスピードで作り上げてきたんだな財産を」、とは思いますね。

本来だったら新国立バレエ団とかがもっともっとやって欲しい部分もあって、切磋琢磨(せっさたくま)して民間のバレエ団も頑張っていくっていうのがいい連鎖反応なんだけど…。
やっぱり日本人ってね、もちろんそれぞれのバレエ団が持っているマーケットの費用対効果があるから打ち出したくても打ち出せない部分もあるし、振付家がいないんだよね。いい振付家はいっぱいいるんですよ、感性を持った。でもじゃあ振付家がどうして育たないのかっていったら、バレエ団が持っている環境、提供しているところのメンタルの問題だと思いますね。でもそれはよくわかるんですよ、みんな雇われ芸術監督だから。雇われだと自分で作らないじゃないですか。だって監督辞めたら、上演権・作品権を持ってっちゃったら終わりだし、カンパニーの財産にならない。もちろん契約の中において規約交渉すればいいだけのことなんだけど、やっぱり外国から買ってきちゃうよね。バレエの世界であるならば、ちゃんと後輩を育て、その国の代表する作品を作るべきだと思いますけど。

――そういう意味では、かなりのリスクを負ってやってきたわけですね。

熊川さん: あのね、無謀な少年でしたよ、やっぱり。まず自分がけがすると思ってないわけで、あと、自分の才能、良くも悪くも天狗(てんぐ)じゃない自信があったんで。僕天狗に見られがちなんですよ、でも天狗になったことないですよ、こう見えて。バレエやってようが、自分の名前がブランドになろうがなかろうが、こういう性格は変わらなかったと俺の友達が証言してくれてるから、そこには保証があるんですけど。
まぁその無謀なところっていうのはやっぱり自分の才能にはすごく自信があった、頼りきってたよね。僕には最高の鎧(よろい)があり武器があると思ってたので、それをふんだんに使って経験値を上げて、踊ってセットの返済だったりとかスタジオも頑張って自分の規模で購入できるところを買えたしね。無謀ですよ、だって何か終わったら相当な借金抱えてましたから、多分ね。何かあったら終わってましたよね。危ない危ない。Life is Risk.

――賭けに勝ち続けてきたというところがありますか?

熊川さん: 今思えばね。でも賭けてたつもりはないんですよ。まぁある意味、欲しいものっていうのが、日本に帰ってきてからのほうが多かったですよね。環境を整えたいとか、カンパニーをただ単に熊川哲也の遊び事のグループ活動としてとらえられたくないっていうのと、しっかりとしたバレエ団に見てもらいたいとか、そういうのはありましたよ。よく言われましたから「Kバレエなんてバレエじゃない」とか「エンターテイメント性が強い」とか「素人のお客さんしか集めてない」とか。でも集めてない人が言ってるわけだから、それは矛盾があるんだけど。実際、本来のバレエ公演のお客さんっていうのは一般のお客さんが来なきゃダメなの。
バレエ関係者しか集まらない日本のバレエ界、もしくはもう本当にマニアックなその穴蔵に入って出てこないような人たちが見に行くようなものでもないわけ。Kバレエが一般の人を巻き込んだ興行として成功してるの。今の僕の同世代でやってる芸術監督はそれをケーススタディーにしようとしてるわけで。一生懸命芸能と付き合ったりとか、もうちょっとメディアに出させてもらえるような仕掛けを出すとか、一生懸命やってますよ。でもそれは当たり前のことだよね。今SNS見れば、20年前僕がやってたことをみんなやり始めてますよね、発信という意味ではね。

2年ぶりに立った舞台は

――先ほどのけがの話に戻りたいと思うのですが、けがをする前と後では、やはり大きな変化がありましたか。

熊川さん: 個人的には、ダンサーとして今後を見据えた活動をしていかなくてはいけないところで大きく違いました。自分の才能が「けが」というイベントによって変わっていってしまって、最終的にフォローできなかったってのは、少し寂しいかな。
あのままけが無くやっていたら、今のこの47歳の自分の踊りってどうなってたんだろうなっていうのはありますよね。だからけがの後、技が失敗したとか体力がもたなかったりとか筋肉の質が変わったりとかしたときに、これはけがの影響だったのかそれとも普通に歳をとってそうなったのか判断ができないときがあって、それはちょっと知りたかったです。
ただまあ組織としては大きく飛躍できたきっかけではあったと思います。自分のメンタル、組織を率いる長としての感覚的にはもうそういうときが必ず来るし、後輩を育ててそれこそ未来の熊川哲也を3人ぐらい作ったら興行として成功するだろうななんていうふうに思うわけじゃないですか。だからそういう風に向かって行こうとしてたし、Kバレエをブランディングしてかなきゃいけない。Kバレエを前に出してほしいというのは言い続けてきたけど、やっぱり興行マンも売ってなんぼだから「熊川哲也」がどんと前にくるわけで、でもそれをずっと戦い続けてやってきた。Kバレエのダンサーさんたちがそれぞれの売りを自分の人生の中に持ってるわけだから、けが後にその思いが一層強くなったってのはあるかな。

――けがの影響もありつつ、近年はダンサーというよりも芸術監督としての仕事が増えていました。今年は2年ぶりにご自身が舞台に立たれたわけですが、どういった気持ちで?

熊川さん: 単純に久々に舞台出てみようかなっていう気はあって。若いダンサー・事務スタッフ・社員含めて、僕の世界っていうのかな、熊川哲也が出る舞台の世界を知らない人も増えてきていたから、そこにちょっと勇気を出してね。勇気が要ったことですよ正直言って。僕の立場でまた舞台の側に立つっていうのは確かに勇気が要ったことでした。
実際まあ発表されてから公演まで、何べんも後悔しましたね。なんで出ると言ったんだろうなって。慣れって怖いですよね。やっぱり鏡の前に座って、フロントとして見てる目線だったのが急になんかダンサー達と一緒に鏡に向かってスタジオの真ん中でリハーサルするわけでしょ。子ども世代が多くなってきたので、実際鏡に映ってる姿も僕ちょっと白髪が結構多いほうなんで、なんかおじいちゃんがいるなみたいな。でそれがまたエネルギーを消費しちゃうわけですよ。やっぱりやらなきゃよかったなっていうのはありました。
でも、「熊川哲也」というダンサーのDVDを見て育ったりとか、憧れがあって来てくれている子たちに見せたいなっていうのはありました。僕は子どもいないですけど、息子には見せてあげたいみたいな感覚はちょっとあったと思います。あとは事務スタッフもね、チケットが即日完売5分、もうパンクするような状況もない、劇場の温度が上がるってこともないわけで、そういったのは見せられて良かったなとは思う。
いろいろ発見もありましたよ。「僕が生きてきた世界ってこういう世界だったなー」って。忘れちゃうんですね、やっぱり。ヌレエフさんは「この喝采を浴びたらスターは絶対舞台から降りることはしない」って名言を言っていましたけど。僕はいったん長い間降りてたのね。Kバレエを育てる意図でもあったんですよ。熊川が出てしまうとやっぱり差別化がはっきりしちゃうので危険なことであって、それで悩み苦しんだ何年かがあったから、出るってことはそこに対するリスクもあって。実際やっぱりチケットの集中とかね、やっぱり顕著に表れているので。
まあ今後どうなるか分かんないですけど、いろんな発見がありました。まずメイクし終わった後の自分の顔が昔と違うっていう。あれっ、もっとなんかカッコいいはずだったのに、なんでこんな。ああ垂れ目になったんだって。僕結構垂れ目系なんで。ペンでアイライン描くじゃないですか、昔はスーッと1本で描けてたのが途中で皮膚が止まって、たるんでんだなってのがあって。極めつけは鏡との距離ってこの30年間変わってなかったのが見えない。ちょっと老眼入ってきたなみたいな。いやこれは笑い話に使えるなと思って、照れ隠しだったんですけど。
でも良い舞台で、さすがに興奮しました。素敵なマジカルな世界に生きてたんだなあ、またそれを味わえて、またお客さんたちもねそれを味わってくれたってのは良かった。
まあ、この年齢にしてできることしかやりませんでしたけど、まずスターのレッテルに頼りたくはなかった。出てって歩くだけでも拍手してくれる、長年やってればリスペクトもしてくれてるから、それわかった上でそこに頼ってしまうと、もう本当に中途半端な踊りになっちゃうと思ったから、やっぱり見せるならちゃんとしたものを見せたいと思って、そこだけは自分に言い聞かせてました。弱気になって、「まあでも俺、熊川哲也だからいいや」みたいなこと考えたらお客さんに失礼だし、自分のこと大嫌いになりそうになるわけで、そこは考えてました。

――舞台の録画って後からご覧になるんですか?

熊川さん: 見ないですね。今回は写真も撮らせなかったですし。今は見たくないです、顔が違うんで…42歳ぐらいまでは頑張って踊ってたので5年ぐらい前かな。会社にあるライブラリに忍びこんで、早くその映像を抹消しなきゃなと思ってるんですけどね。

――何歳まで舞台に立ちたいですか。

熊川さん: ダンサーには2パターンあって、本当に自分に線を引いて引退セレモニーを派手にやって去っていく方っているんですよ。そういうのって照れくさいんですよ、僕。人からおめでとうも言われたくないですし、ハッピーバースデーも大嫌いで、イベント嫌いなほうなんですよ。照れくさいってのもあるし。そういうの嫌なの。
だから僕はそういうふうに線を引いて去るってことはしない。黙して去ると思うんですけど、引退宣言してしまうと次を踊るとき詐欺っぽくなるから。だから多分気が向いたときに、また気まぐれでね、ちょっとちょい役でもいいから出ようってなったときに、出づらいから。

――では、死ぬまで現役?

熊川さん: いや、現役ということが自分の活動に当てはまるのかどうかは分かりませんけど、振付がね、やっぱり作品を生むことが多くなってきてるんで。それがKバレエの財産、誇りだし。

――5月に、本を出版されるということですが。

熊川さん: やっぱり20周年ってすごいことなんだなと思って。忘れてることが多くなってきてるし、自分の発言をできる場ってのが結構少なくなってきてるから、テレビあまり出ないし、後輩たちと語るにもそういう場もないですし、ちょっと書いとこうかなと。
内容としては20周年の軌跡ですね。ダンサー目線もあれば、本当に個人目線もあれば、ビジネス的な話もあれば、裏話もたくさんあれば、やっぱり自分の芸術的見解も深いところまで入ってますし。おもしろいかな、どうかな、分かんないけど。
今後のことは白紙で常にいたいなとは思ってます。だからどういうふうに変わっていくか分かりませんけど、まずは1つ絶対言えるのは、作品はずっと作り続けていきたい。ダンサーとしてはね、出てみてもいいかなと思った公演があれば、気負いなく頑張ります。

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