金子みすゞの『絶望名言』

ざっくり言うと
2019/01/28 ラジオ深夜便「絶望名言 金子みすゞ」文学紹介者 頭木弘樹さん
『私がさびしいときに / よその人は知らないの。』
『登り得ずして帰り来し、 / 山のすがたは / 雲に消ゆ。』

文学

2019/01/28

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古今東西の文学作品の中から絶望に寄り添う言葉を紹介し、生きるヒントを探す「絶望名言」。今回は童謡詩人・金子みすゞ(1903年~1930年)のさまざまな詩から珠玉の言葉をご紹介します。みすゞの詩はわかりやすく明朗ですが、その背後には過酷な人生で育まれた「さびしさ」による深い絶望があったといいます。
名言のセレクトと解説は、20歳から13年間、難病のため闘病生活を送った体験もお持ちの頭木弘樹さんです。


『私がさびしいときに、
よその人は知らないの。

私がさびしいときに、
お友だちは笑うの。

私がさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

私がさびしいときに、
仏さまはさびしいの。』
(「さびしいとき」)

■『私がさびしいとき、 / よその人は知らないの。』
これを読んだのが難病で病院に入院してるときだったんですね。まさにそのときの状況にぴったりだったんです。
まだ若かったですし、自分以外の人はみんな病院の外で元気にしてる。「何で自分はここでこんなことになってるんだ」と不思議な感じがするんですよ。自分には悲しい大事件が起きてるのに世間はまったく関係ない。普通に動いてるんです。当たり前ですけどね。
当たり前ですけど、そういうときってそれは不思議なんですよ。『私がさびしいときに、よその人は知らないの。』まさにその心境ズバリで、すごくしみました。

■『私がさびしいときに、 / お友だちは笑うの。』
 『私がさびしいときに、 / お母さんはやさしいの。』

友達なら、もちろん一緒に泣いてくれることもあります。でも当人とは違います。例えば痛みがずっと続いてるとして、当人はそれを忘れることはできない。一瞬でも笑うのは無理なんです。でもいくら親身な友達でも、面白いテレビを見たりビールを飲んだりすれば、笑ったり「おいしいな」と思ったり、一瞬は友達の不幸を忘れるわけです。当たり前です。
当たり前ですけど、「本当に悲しいのは当人だけなんだ」という事実がとても孤独ですよね。

肉親ともなれば、他人とは違いますから、より親身ですよね。ただ、それでも当人とは違う。
「お母さんだけはわかってくれる」という意味じゃなくて、「お母さんは優しくしてくれるけど、同じさびしさを感じてくれるわけではない」。だから最後の2行があるんだと思うんですね。

■『私がさびしいときに、 / 仏さまはさびしいの。』
ひねくれた解釈と思われるかもしれないんですけど、僕はこういうふうに思うんです。
本当に同じさびしさを感じてくれるのは仏さまだけ。仏さまでなければ同じさびしさを感じることはない。ということは、「他人が自分と同じさびしさを感じてくれることは決してない」ということなんじゃないかなと思うんですよ。
「自分の気持ちを本当に理解してくれる人はいない」ということなんですね。それに気づいたとき、人はすごく孤独ですよね。そういうことを見事にうたっている詩だと私は思います。

「自分の気持ちを誰にもわかってもらえない」孤独を感じて苦しんでるときにこの詩を読んだらどうでしょう。すごく救われるんじゃないでしょうか。それで金子みすゞの虜(とりこ)になったというか。ここまで書く人はいないと思いました。

希望を求める祈り

『明るい方へ
明るい方へ。

一つの葉でも
陽(ひ)の洩(も)るとこへ。

籔(やぶ)かげの草は。

明るい方へ
明るい方へ。

翅(はね)は焦(こ)げよと
灯(ひ)のあるとこへ。

夜飛ぶ虫は。

明るい方へ
明るい方へ。

一分(いちぶ)もひろく
日の射(さ)すとこへ。

都会(まち)に住む子等(こら)は。』
(「明るい方へ」)

パッと聞くと明るい詩という感じがするんですけど、暗い所にいるからこそ明るいほうに行きたいわけで、「絶望してるからこそ希望を求めている」というふうにも読めます。

金子みすゞの生い立ち

金子みすゞが生まれたのは1903年4月11日。同い年の作家には山本周五郎や小林多喜二、林芙美子がいます。映画監督の小津安二郎や版画家の棟方志功も同い年です。ただみすゞは26歳の若さで亡くなっているので、これらの人たちと比べてずいぶん前の人という感じがします。
詩を書き始めたのは1923年の20歳のとき。おうちが本屋さんで店番をしていた。周りに本がたくさんあって、詩人の西条八十(さいじょう やそ)の童謡に感激して自分も童謡を書くようになるんです。
当時は芸術性の豊かな童謡を作ろうという運動が盛んだった。きっかけとなったのは鈴木三重吉が創刊した『赤い鳥』という児童雑誌で、それに続いて『金の船』や『童話』など、いろんな児童雑誌が誕生した時期にあたるんです。
どの雑誌にも童謡が載っていて、読者が投稿する欄もあった。選者が豪華で、『赤い鳥』は北原白秋、『金の船』は野口雨情(のぐち うじょう)、『童話』は西条八十。当時一流の詩人が熱心に子ども向けの童謡を書いてたんです。
みすゞも自分の詩を投稿するようになる。当時は山口県の下関にいたんですが、自分の詩の掲載された東京の雑誌が、店番してる本屋に届く。これは楽しいですよね。

ところが残念なことに、童謡ブーム自体が急速に去っていきます。また第2次世界大戦前でだんだん軍国色が強まってきたこともあり、『赤い鳥』などの雑誌も次々と廃刊になっていく。ブームが去ったころに書かれたのがこの「明るい方へ」、昭和2年1月ごろ、23歳ぐらいのときの作品です。
さらに私生活でもみすゞはつらい状況だった。
周囲のすすめもあって、書店の店員だった男性と結婚するんですが、この夫が遊郭に遊びに行ってばかり。朝帰りをしたり、女性が店に呼び出しに来たり。まだ籍は入れてなかったんで「今のうちに離縁させたほうがいい」と周りが動き出したら、みすゞが妊娠してることがわかった。それで逆に正式に婚姻届を出すことになってしまうんです。このことがさらによくなかった。

病室での孤独

『思い出すのは
病院の、
少し汚れた白い壁。

ながい夏の日、いちにちを、
眺め暮らした白い壁。

小(ち)さい蜘蛛の巣、雨のしみ、
そして七つの紙の星。

星に書かれた七つの字、
メ、リ、ー、ク、リ、ス、マ、七つの字。

去年、その頃、その床(とこ)に、
どんな子供が寝かされて、
その夜の雪にさみしげに、
紙のお星を剪(き)ったやら。

忘れられない、
病院の、
壁に煤(すす)けた、七つ星。』
(「紙の星」)

みすゞが入院したのは昭和4年、26歳の夏。悲しいんですが、夫から性病をうつされてしまう。淋病だったわけです。当時はまだ抗生物質がなく、女性の場合はかなり重症化してしまう場合があったんです。
退院したあとも寝込むことが多くなる。母親の手紙に書いてるんですけど、「朝雑巾かけをすこししましたらすぐにたたりまして、また五日やすみました」。夫が浮気をしてそのせいで性病をうつされ、自分が重症になる。しかも夫は自分を放っておいてまた浮気に出かけてる。

夢を諦めることで見えてくるものもある

『──できました、
できました、
かわいい詩集ができました。

我とわが身に訓(おし)うれど、
心おどらず
さみしさよ。

夏暮れ
秋もはや更(た)けぬ、
針もつひまのわが手わざ、
ただにむなしき心地(ここち)する。

誰に見しょうぞ、
我さへも、心足(た)らわず
さみしさよ。

(ああ、ついに、
登り得ずして帰り来し、
山のすがたは
雲に消ゆ。)

とにかくに
むなしきわざと知りながら、
秋の灯(ともし)の更(ふ)くるまを、
ただひたむきに
書きて来し。

明日よりは、
何を書かうぞ
さみしさよ。』
(「巻末手記」)

金子みすゞは生前自分の詩集が出なかったわけですけれども、自分で手書きの詩集を3冊作ったんですね。
みすゞの詩って、少なくとも表面的にはすごくかわいくてあったかい感じがするものが多いと思うんですけど、この詩だけは珍しく、生々しい感情が出ているように思うんです。

僕はこの詩の中で、特にこの3行が好きなんです。
『登り得ずして帰り来し、 / 山のすがたは / 雲に消ゆ。』
私は山の頂上に到達できた人よりも、山に登ろうとして挫折して途中から戻ってきてしまった人、あるいはそもそも山に登ることさえできなかった人、もっと言えば山に登ろうと思うことさえできなかった人、そういう人にすごく興味があるんですね。

うまくいった人はそもそも関心を持たれます。でもうまくいかなかった人も味わいがある。夢を諦めるしかなかった人たち。
今の世の中って、「夢を諦めないで」「自分を信じていればいつか必ず夢はかなう」というようなメッセージがあふれてるじゃないですか。もちろん、そういうメッセージは大事だと思います。夢をかなえるのって大変ですから。応援ソングや応援の言葉というのは必要だと思うんです。

でも、夢を諦めることも同じように大変なことだと思うんです。
どうやって諦めたらいいのか誰も教えてくれない。応援してくれない。例えば1000人で1人だけがかなえられる夢があったら、999人はかなわないわけです。そうした人たちの気持ちを、「そのままでいいのかな? もっと大事にしなくていいのかな?」と思ってしまうんですよね。
「夢を諦めること」をただ単に「だめなこと」みたいにしてしまうのは違うんじゃないかなと思うんです。そういう経験をしたことで、いろいろ見えてくるものもあると思うんですよね。

「山に登り損ねる」というのは、当然山の頂上から見る景色は見えない。それは確かに見られなかったけれども、挫折して地上に戻ってきたとき、これまで見慣れたものの見え方が違ってくる。それはそれで、頂上の景色を見るのと同じぐらい貴重なことだと思います。

「巻末手記」を書いた翌年の昭和5年3月9日。
みすゞは写真館に行って写真を撮ってるんですね。娘のために自分の姿を残したといわれてます。写真を撮ったあとに桜餅を買って、実家に帰って久しぶりに娘と一緒にお風呂に入った。それから家族みんなで買ってきた桜餅を食べて、娘の寝顔を見て、「かわいい顔をして寝ちょるねえ」と言ったのが最後の言葉です。
そのあと2階の自分の部屋に行って、日付の変わるころに睡眠薬のカルモチンを大量に飲んで自殺してしまった。

雪それぞれに、人それぞれにさみしさがある

『上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。

中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。』
(「積(つも)った雪」)

この雪の詩を紹介したいために冬まで待ったんです。
この詩には、みすゞのものの見方がすごくよく表れてると思うんです。雪が積もってそれを眺めてるときって、普通は「きれいだな」とか、そんな感じじゃないですか。みすゞの場合は、そこに悲しみを見ている。

普通は雪を見ても、雪っていう1つのものとして捉えると思う。それをみすゞは3つに分けて捉えている。ものの見方が細やかなわけです。「上の雪」「下の雪」「中の雪」のすべてに、それぞれ悲しみを見てるんです。こういうものの見方をするみすゞが、私はすごく好きなんですよね。

これは雪だけのことじゃなくて人に対してもそうだと思うんです。例えばいい人か悪い人かとか、どうしても人間って白黒2段階ぐらいでやってしまいがちですけど、せめて、「上の雪」「下の雪」「中の雪」のように、いろんな段階の人がいるという見方をすると、人の見え方も違ってくるような気がします。

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