追悼・兼高かおるさん① 「自分の目で確かめた」地球180周分の旅

ざっくり言うと
2019/01/25 ラジオ深夜便 「深夜便アーカイブス <"世界の旅"から見えてきたこと①>」 旅行ジャーナリスト 兼高かおるさん
東京の六本木の車道が未舗装だった時代に、山頂まで舗装されていたハワイに仰天
80時間で世界一周したのは、「できる」と証明して見せるため

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2019/01/25

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2019年1月5日に90歳で亡くなった兼高かおるさんをしのび、2010年にラジオ深夜便で放送したインタビューをお送りします。兼高さんは旅行ジャーナリストとして、31年間続いたテレビの紀行番組でおよそ150もの国へ訪れました。
少女のころから世界旅行へあこがれ、外国語を習得。兼高さんは「自分の目で世界を確かめたい」という思いから世界一周旅行へ飛び出しました。


150の国を訪れた旅行ジャーナリスト

――兼高かおるさんといえば、世界の旅の番組を…31年間でしょうか。私は子どものころから憧れて見ていたんですけれど。150か国。地球180周分を取材で回られました。ほとんどの人生を世界中で過ごしてらした、ということになりますか。

兼高さん: 今の年になりますと、「ほとんど」まではいかないですね。3分の1くらい。

――当時は海外に行くことすら難しい時代でした。まだ1ドルが…。

兼高さん: 360円。ピンと来ない方が多いと思うんですけど、一流の大学を出て一流の会社に勤めて、初任給が9000円の時です。ですから、1ドルが360円としますと25ドルです。円の価値が、今とは格段の違いなんですのよ。

――海外には相当のお金持ちじゃないと行けない時代ですか。

兼高さん: 当時はまだ、日銀から許可をもらわないとドルを買えなかったんです。ドルを買うといっても、お金持ちだから買えるのでなくて、理由をちゃんと書いて。そして1日分の最高額が17ドル。17ドルは大きいんです。さっき申し上げましたように、大学卒の月給取りが25ドルですから。そしてそれを、買いたいだけ買えないんですのよ。ある日数分だけ買えて、そして外国に行けたんですの。

――そういう時代から世界を取材して回られた。日本で兼高さんのような方はいらっしゃらなかったので、特別な方のような気がしておりました。

兼高さん: そうでしょうか。チャンスがあったかないか、じゃないでしょうか。

――海外に目を向けたのは、いつごろからですか。

兼高さん: わりあい小さい時からですね。本も、わりあい外国の物語、伝説とか童話。まずは、「世界童話集」を読んで挿絵を見て、「ここに行くの」ってやってましたから。

――それは幼い時の話ですか。よく少女が夢見ることはありますが、本当に「世界に行くんだ」と思ったのはいつごろですか。

兼高さん: もう行くんだと思ってましたね。

世界にあこがれた少女時代

――小さい時から。

兼高さん: 世界って何だか分からないし、「行きたい所には行ける」と思っていたし。それで、「外国に行くのには、お勉強しなきゃだめよ」って言われて。お勉強といっても、何をお勉強するか分からないけど。長じてきて、学校も、英語を教えるところに。今で言う中学で、英語は必修科目です。その中でも、英語の教え方がよそよりもっと多い所に入りました。

――それは海外を意識したのですか。

兼高さん: いずれ行くということで。

――あの時代ですと戦争もあって、「敵国語」ということでなかなか英語を学びにくい時代でもありましたよね。

兼高さん: そうです。公立の学校では英語をやめたところもあるらしいんですけど、私の学校は、初めは週8時間ありまして、戦争が厳しくなってきて週4時間に減りました。ですから私は、個人教授をつけていましたけど、その先生が「憲兵に狙われるから、やめたほうがいい」とおっしゃるので、これもすぐやめてしまいましたけど。

――そんなアドバイスが来るくらい、「海外に行きたい」というお嬢さんの夢を、ご家族も支えていたのですか。

兼高さん: どうなんですかね。私が好きだからやらせたのかもしれません。小学校の2年生ぐらいの時はまたバレエをやってましたから。バレエを踊りに行くのか、習いに行くのか、「パリじゃなきゃだめだ」なんて思ってましたし。子どもの時ですからいろんな夢があって、バレエの時はパリですね。そのうちお医者さまになろうと思って、「お医者さまもヨーロッパ」と思ってましたし。

――どういう少女でしたか。

兼高さん: 自分のことはよくわかりませんけど、母が言うには、かなりおてんば…おてんばといっても、兄が非常におとなしい人ですから、きっと差が見えるんですね。それと、兄が病身だったもんでいつも友達をおうちに呼んでいましたから、そこに私がいますと、周り中が男です。友達はみんな男。そして私より年上でしょ。私のことを甘やかし放題です。ですから遊びに来た、うち兄の年ぐらいの学生に、お馬になってもらって、廊下を歩いたり。

――いろんな人から刺激を受けつつ、夢の多い少女だったということですか。

兼高さん: 学生たちがいっぱいうちに遊びに来てたおかげで、自分の同級生たちのレベルの話じゃなくて、もっと…あのころの3つ4つ年が上だと、だいぶ大人なんですね。皆さまの読んでる本の話を聞いたり。するとますます忙しいんです。フランス文学になったり、英国文学になったり、ロシア文学になったり。会話に出たものは負けじと思って読んだ。読んでも分からないんですけどね。いい環境でした。

――会話に入りたいから、一生懸命本を読まれたのですね。

兼高さん: 入れませんから聞いて、今度の時にはわかっていようと思って読むわけです。

――少女の時の夢はそのままで終わってしまって、ごくふつうの平凡な女性の暮らしに入る方も多かったと思うんですけれど、兼高さんは何が違ったのでしょうか?

兼高さん: 「奥さんになろう」っていうことは初めからなかったみたいですね。「子どもを育てる」っていうのもなかったみたいですね。だって、別に親が「お嫁に行け」って急かさないし。

ホテルウーマンを目指し、アメリカ留学

――兼高さんが最初に行ったのはどの国で、何の目的で行ったのですか。

兼高さん: アメリカ留学です。私は「初めに英国」なんて思ってたのが、戦後のヨーロッパは、食べ物が配給だったんですよ。食べ物の配給は日本でこりごりしてますから、英国に行ってまで…もう日本が配給でなくなったのにイギリスではまだ配給、という話だったので、それは嫌だと思いまして。いろいろと、アメリカのほうがいいというようなことで。それと、そのころはまた考えが変わってまして、「ホテルを営業したい」と思って。そしてホテルの営業の学校はスイス。スイスの学校へ行ったらフランス語です。フランス語だけじゃなくて、英語もしておかなきゃいけない。まずはアメリカで英語をブラッシュアップして、それからスイスに行くということで、アメリカに留まるはずではなかったんです。

――ホテルの営業、ホテルウーマンになりたかったのですか。

兼高さん: そうです。今でもホテルに行くと、いろんなところを全部検閲します。どういう造りであるとかね。まず室内の壁から、天井から床から、全部調べて。このごろのホテルって、すごくいいですね。一時は一流でも、同じようなホテルばっかりでした。このごろはすばらしいホテルがいっぱいできてきました。

――それは「個性がある」ということですか。

兼高さん: そうですね。人間が贅沢になったのもありますね。

――初めてのアメリカ、初めての海外はどんな印象でしたか。

兼高さん: すごかったですね。まず羽田なんか、かまぼこ小屋みたいなターミナルだったんです。そしてそこから出て…その時まだプロペラですからね。プロペラでウェーク島に給油で止まって、その時にドーナツとコーヒー飲みまして。これがすごくおいしくて、今も好きなんです。給油が終わったら、今度はハワイなんです。私はハワイにしばらくいるつもりでしたから、降りました。うちの兄がハワイアン・ミュージックをやってたんです。フラダンスというような音楽。それで、そういう光景を思い浮かべていたんです。そして飛行機がハワイに近くなったら、ちっちゃな島どころか大きな山が見えるんです。「おかしいな。これがハワイ?」なんて思って。それで降りまして、私は結核も持ってたもんですからレントゲンを提出して、そしたら通関のところで「待ってなさい」って言われて。それで皆さんいなくなって、ただ1人空港に残されて、私の荷物がそこに1つ置いてあって。何にも言われないからずっと待ってましたら、呼び出しがあって、「友達が表で待ってるから早く行きなさい」って言われて。「あれ、これで入国していいんだな」と思って、急いで出ていきました。出ていったら、裸のフラダンスどころか、高級車のキャデラックがいっぱい走ってるんですね。

――イメージと全然違っていたのですね。

兼高さん: 車道が、山の上の方まで舗装をしてあるんですよ。東京の六本木だって舗装してなかったんですからね。

――時代が今と違いますものね。

兼高さん: それが山の中まで舗装してある。それと、街灯がついてるんです。

――日本では、まだ街灯もあまりついていない時代でしたか。

兼高さん: 私どもは電気節約時代に育ってますでしょ。そしてホテルの庭の草花に…夜ですよ、ライティングしてるんですね。「なんと、もったいない」と思って。

――「すてき」じゃなくて「もったいない」と思われましたか。

兼高さん: ええ。2~3日いて、いろいろ見せてもらいましてね。レストランで食べる時に、パイナップルがタダで置いてあるんですね。生のパイナップルが。「いくらでも食べていい」って言われて、生のパイナップルは食べた事がないから、おずおずとしたりして。それはいい思い出でした。それからアメリカのロサンジェルスに飛んだんです。

――日本と違うから、全てがびっくりの連続。

兼高さん: 全てびっくりです。「こうも違うか」と思いました。別世界ですね。そして、カリフォルニアのきれいなこと。空がきれい、海がきれい、家がきれい。そして花が咲き乱れてきてね。道は全部舗装してありますし。日本は、車をピーピーピー、プップー鳴らして走ってる。でも、ハワイもそうでしたけど、ホーンを鳴らしてる人ほとんどいないんですね。

――うるさくもなく、静かできれいで、「海外ってすてき」って思っちゃったのですね。

兼高さん: 海外っていうか、カリフォルニアのことはアメリカ人に聞いてたんです。「天国みたいな所だ」って。パラダイスみたい。「あ、これだな」と思いました。

体の不安を抱えながら世界一周

――海外に行ったのは、ホテルウーマンになるためだったのが、なぜ世界を巡る旅の番組をするようになったんですか。

兼高さん: そこに行くまでは、いろいろありますね。アメリカの学校に行って、また結核の再発が危ないもんで、日本へ帰ってきたんです。日本で英語ができるっていうのと、学生で英語を学ぶっていうのは、だいぶ違いまして、半日辞書引いてますって言うの。そして単位を、きちんとした4年のうちに取ろうと思うんですから、夜のクラスも取る、夏休みのクラスも取る。それをやってて体を壊しました。

――頑張りすぎちゃったんですね。

兼高さん: ラジオだから申し上げたいのですが、私が夏のクラスを取ってる時に、見ず知らずの日本女性が…神戸の方なんですけど、いらしてね。「あなたは一生懸命勉強してるけれど、そんなことをやってたら体を壊しますよ。私はその経験があるから、あなたにそれを注意しに来ました」って。見ず知らずの方なのに。だからお名前も伺ってないんです。その方は、多分生きてらしたら80代だと思いますね。

――そうですか。

兼高さん: その方、病気になって入院したらしいですね。そういうことがあるから、「あなたは気をつけなさい」ってわざわざ言いに来てくだすったの。私をどこで見たのか知りませんけど、名前も伺ってないのでね。分かったらお礼をと思うんですけども、これを聞いていらっしゃれば、「私です」って出てきて下さるかもしれない。

――でも、そういった忠告がありながらも、体調を崩されるくらい頑張ったのですか。

兼高さん: 向こうで発病しますと、結核っていうのは隔離されるんですね。アメリカはすごく結核に…どこの国もそうでしょうけど、日本の病気として警戒していましたから、すぐ隔離されちゃうんですね。「そうされる前に」と思って、日本に帰ってきましたの。

――世界を回られているからとても丈夫な方だと思ったら、体はそんなに丈夫ではなかったのですか。

兼高さん: 日本に帰ってきてからも、日光に当たっていけないと言われてたんです。日光、いけないんですって。

――世界中でずいぶん太陽に当たっていらっしゃいましたよね。

兼高さん: いけないと言われているのにあの仕事を始めたので、「あなたは爆弾を抱えてるんですよ」って言われました。でも何ともないの。発病もしなかったし。

――日本に帰られてからは…。

兼高さん: 英語も日本では使わないもんですから、忘れますでしょ。日本にいらした外国人をインタビューして記事に書いたりしてるうちに、いろいろな外国のことを伺いますよね。それからラジオの番組も持って。そして、日本の方で外国に長く住んだ方たちから、外国での習慣やその国のあり方とかを聞いて、そして世界一周したんです。世界一周早回り。

――いくつの時ですか。

兼高さん: 30歳ぐらいじゃないですかね。

――世界一周早回りって大変なことですよね。

兼高さん: 私は乗ってるだけだから、大変じゃありません。

――なぜしようと思ったんですか。

兼高さん: できると思ったから。『八十日間世界一周』っていうジュール・ヴェルヌの書いた本がありますね。これ1873年に出版されたんです。そのころは、バルーンで飛んだり、馬だとかいろいろな乗り物で乗り継いで、世界一周を80日間でやり遂げたというストーリーですね。時代が変わりまして、「今は航空機時代だから、飛行機だったら80時間でできる」ということで、ほかの方がなすってうまくいかなかったんです。80時間をオーバーしたの。私、たまたま旅客機のスケジュール見てたら、「うまくいったら、80時間以内でできる」っていうのがあったので、友達の集まりの時…この友達っていうのは異業種の集まり。記者もジャーナリストもいるし、航空会社で働いてる人もいるし、いろんな人たちと話してて、「こういうことができる」って言ったら、「やれやれ」なんて言われて。その中の1人が話をつけてくれて。

――それでやることに。

兼高さん: ええ。やれると思ったからやったんです。やれないと思ったら、私はやらない。

――チャレンジャーでいらっしゃいますね。面白がって生きてらっしゃる気がいたしました。

兼高さん: 面白がってじゃなくて、できることは「できる」と証明をする。

自分の目で確かめないと納得しない

――理屈ではなく、やってみる。それが大事ですか。

兼高さん: それが私の性格ですね。大学にいた時に、生理学の先生が、「男の人はひげを毎日剃りますね。剃るとだんだん濃くなるって言いますね。あれはうそだ。うそか本当か調べたかったら、片脚の毛を、1年間剃ってごらんなさい。そして両脚くらべてごらんなさい」。それで、1年間やったんです。

――兼高さんご自身が。

兼高さん: ええ。脚を美容師に見せたんですよ。どっちの毛が濃いか。美容師も…美容師って脚の毛を取る美容師ね。それに見せたら、分からない。だから、証明して納得したんです。

――すごく面白い方だと思いました。言われたら、自分で納得するまでやってみないと気が済まないんですね。

兼高さん: いつも私、自分の人体実験で。戦争中、食べ物がきっと偏ってるんですね。だから、できものが出来るんです。そういう状態の人がいっぱいいて、私もそのうちの1人になりまして。この傷はどうしたらいいのか。放っといて自然に任せた方がいいか? 薬をつけたほうがいいか? その両方をテストしたら、どんどん悪くなってしまいましてね。戦争が終わって、進駐軍が来て私のその傷を見て、「これはいけない」って言って、すぐ薬をくださったんですよ。そうしたらパッと治っちゃったんですよ。「薬はすごいな」って分かった。骨まで見えるぐらい悪くなってたんですけどね。

――人から聞いたことをうのみにするのではなくて、納得することが大事ですね。

兼高さん: そうです。

――そういう価値観をお持ちだからこそ、たくさんの国を回られたのでしょうか。

兼高さん: そうです。

――自分の目で確かめる。耳からいろんな情報が入ってきますけど、それを自分の目と体験で確かめる。

兼高さん: それでないと「こうです」って言うことは、人さまに言えません。

――ジャーナリストの一番根本のところをしっかりと守っていらっしゃる。

兼高さん: これは性格ですから。

追悼・兼高かおるさん②へ続く

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