琉球王朝の流れを継ぐ家系の末えい・川平朝清さん92歳  首里城への思い

ざっくり言うと
終戦直後に台湾から家族と引き揚げた沖縄。母が漏らした言葉は「戦破れて、山河も残らなかったわね」
アナウンサーになった川平さん、ラジオ局「琉球の声」で最初にかけたのは沖縄の喜びの歌「かぎやで風」
2019/11/27 「三宅民夫のマイあさ!」 三宅民夫の真剣勝負! ゲスト:川平朝清さん(昭和女子大学名誉教授)

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歴史

2019/11/27

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2019年11月27日(水)放送より

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2019年11月27日(水)放送より

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番組が始まって以来、最高齢の方をお招きいたしました。92歳でいらっしゃいます。みなさんおなじみの方のお父さん。焼失した沖縄県・首里城への思いを伺います。

【出演者】
三宅キャスター:三宅民夫キャスター
川平さん:川平朝清さん(昭和女子大学名誉教授)
ジョンさん:ジョン・カビラさん(フリーキャスター)
高嶋キャスター:高嶋未希キャスター


三宅キャスター: けさのお客さまは、沖縄に深いゆかりを持つ男性です。川平朝清(かびら ちょうせい)さん、92歳。昭和女子大学名誉教授で、みなさんよくご存じ、フリーキャスターのジョン・カビラさん、そして俳優の川平慈英さんのお父さんでいらっしゃいます。
おはようございます。
川平さん: おはようございます。
三宅キャスター: そして、息子さんのジョン・カビラさんも付き添っていただいています。カビラさん、ありがとうございます。
ジョンさん: ありがとうございます。
三宅キャスター: きょうは“沖縄の心”としての首里城への思いを、朝清さんに伺おうと思っているんですけれども、川平朝清さんは琉球王朝の流れを継ぐ家系の家の末っ子として、 昭和2(1927)年のお生まれ。日本統治下の台湾で生まれました。終戦の翌年、家族とともに沖縄に引き揚げて、ラジオ放送局の立ち上げに尽力され、沖縄初のアナウンサーに。
川平さん: 戦後初ですね。
三宅キャスター: 戦後初のアナウンサーになります。沖縄の戦後史の生き字引的な存在でいらっしゃるんですけれども、首里城の消失から、まもなく1か月になります。首里城消失のニュースは何でお知りになりました?
川平さん: いや実は、あの日(10月31日)は朝起きましてテレビをつけましたら、首里城が燃えているという生中継を見て、ぼう然自失と言いますか、あぜんといたしました……。これ以上、言葉にならなかったですね。
三宅キャスター: ジョン・カビラさんは、あのニュースは?
ジョンさん: 同じく、ですね。中継を見て、「まさか」という思いでしたね。
三宅キャスター: きょうは朝清さんの人生も振り返りつつ、沖縄、首里城への思いを伺えればと思っているんですけれど、朝清さんはご両親が沖縄の生まれで、王家の流れを継ぐ家の末っ子として台湾で生まれました。台湾では、お父さんお母さんから、沖縄のことはどういうふうに聞いていらっしゃいましたか。
川平さん: 今、私どもは「かびら」と名乗っていますけれども、これは沖縄での姓なんですが、台湾では「かわひら」って言ってたんですね。「かびら」と言うと「かみら? かみや?」と、いちいち説明をしなければならないということと、それから「沖縄」と聞くと、台湾ではちょっと異人に出会ったような反応をされる方が多かったんです。沖縄の人っていうのは、悪く言えば差別されているようなところもあって、その中で両親は首里生まれ、首里育ちですから、首里城のことなどはよく話をしておりました。ですからいずれの日か、お城が見られる日を作ろうというのは両親の願いだったと思うんですけども、それは果たせませんでした。
三宅キャスター: 首里城のことは、何ておっしゃってましたか、台湾時代。
川平さん: 沖縄の言葉では、「グスク」って言うんですよね。グスクとは“お城”のことを言うんですけども、そういう言い方で話をしておりましたね。
それから、いわゆる城内で使う言葉を私の母は非常に自慢にしておりまして。というのは、母の祖母がいわゆる城内で王妃に仕えたことのある人だったんですね。ですから首里城は私の両親にとっては非常に身近なものですし、父方の祖父は最後の王・尚泰王にじかに仕えていた人なものですから、首里城、それから首里の王家というのは、非常に身近な方々であり身近なところだったという話は聞いております。
三宅キャスター: 台湾で育たれて、お父さんお母さんのふるさと、沖縄に戻ってきたのは終戦直後ですね。船で多分向かったと思いますが。
川平さん: ええ、そうですね。
三宅キャスター: 沖縄が近づいてきて、お母さんは何ておっしゃいましたか。
川平さん: 普通ならば那覇港というところに入るのが、沖縄の中部の久場崎(くばざき)という、私の母にしてみれば、“違ったところ”に来たという。船から見ますと、一木一草もない、ということはありませんが、とにかく米軍車両が海岸べりを行き来している状況を見て、私の母が漏らしたのが「“戦(いくさ)破れて山河あり”、国破れて山河ありと言うけれども、山河も残らなかったわね」という言葉。私も、父母や兄たちが語っていた「ふるさと沖縄」に帰ってきたという気持ちは全然ありませんでした。異郷の地に来たという感じだったですね。
三宅キャスター: お母さまは、がっかりしていらっしゃった……。首里城はどんな様子でしたか。
川平さん: 引き揚げた明くる年、1947年。まだ戦後2年しかたってなかったんですけども、行きましたら、(沖縄戦で焼けてしまった)首里城の石垣が崩されたままで、とにかく道路だけはあったんですけれども、城内に入ることはできませんでした。首里城に入る前に「守礼門(しゅれいもん)」という象徴的な門があるんですけれども、それも破壊し尽くされて、柱が1本だけ道路の下に残されている、そういう状態でしたね。
一番ショッキングだったのは、首里城の手前に「玉陵(たまうどぅん)」と沖縄の言葉で言うんですが、いわゆる“王陵”があるんですね。つまり、王様たちを葬っている……。
三宅キャスター: お墓ですか。
川平さん: はい。その石造りのお墓の扉が開けられていて、中に入ると、石造りのお棺ですね。その上の大きなふたと言いますか、そういうものが開けられて、王の白骨が、中にまだそのまま残されているっていう。本来ならばそういうところまで立ち入ることはできないんですけども、ちょうどそこで働いている人たちがいたので、立ち入って見ることができました。今から考えると、その末えいである私が、王様の遺骨を目の当たりにしたっていうことは、ちょっと忘れられない経験ですね。
三宅キャスター: 沖縄の人々にとって、戦争により失われた首里城というのはどういう存在だったんでしょうか。
川平さん: 私どもの両親、それから兄たちは、大正の末期に台湾へ移住しているんですね。大正の末期というと、首里城が壊れていくと言いますか、見る影もないような状況になっていくところを見ているんですね。そのころ、鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう)という美術の先生で沖縄女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校の先生をしておられた方が、東京大学(東京帝国大学)の伊東忠太(いとう ちゅうた)博士という建築家の先生のもとに行き「これでいいのか」ということで、急きょ文部省から専門家を派遣してもらって「これは保存すべきだ」ということになり、国宝に指定されると。そういうことを聞いて、私たちの両親は安心したような気持ちで台湾に行ったと。
三宅キャスター: それは戦前の話になるわけですね。
川平さん: はい。ですから「荒城の月」っていう有名な歌がありますけれども、私の両親にしてみれば、「『荒城の月』を歌うと、瀧廉太郎のメロディーは、何か沖縄の首里城を思い出す」というようなことを言っていました。それほど荒れ果てた住人のいない首里城だったわけです。そして私も、首里はどんなにすばらしかったかということを聞いていただけに、戦後すぐ(沖縄戦で焼失した首里城近くに初めて行ったときには)「これが首里か……」という暗たんたる気持ちでしたね。

三宅民夫キャスター

川平朝清さん

三宅キャスター: 戦後、首里城が再建されましたね。そのときのことは覚えていらっしゃいますか。
川平さん: 首里城の跡をどうするかということで、1950年代に、そこに琉球大学を作ろうということになって、今ある首里城は琉球大学の校内になるわけです。私が勤めておりましたアメリカ軍政府民間情報教育部の作った日本語放送局も首里城の中にスタジオができるものですから、“首里城跡に勤めていた”という状態でした。ですから首里城は私たちにとっては、戦後は琉球大学というイメージしかなかったですね。
三宅キャスター: それが再建されたとき(1992年)は、「こういうものなんだ」っていう思いはありましたか。
川平さん: その前から「首里城はこういうものだ」という写真、白黒写真ですけれども、そういうものは見せられていましたから、いよいよ再建というときには、「あ、そうか」程度のものだったですね(笑)。
三宅キャスター: あっ、そうですか!
よろしけばこのあと、戦後、川平さんがどのような人生を歩んでいらっしゃったか、詳しく伺いたいのですが。
川平さん: ええ、喜んで。
三宅キャスター: ありがとうございます。
ではここで少し、ラジオをお聴きのみなさんからの声をご紹介します。高嶋さん、お願いします。
高嶋キャスター: ご紹介します。
<川平さまの首里城への思い、聴き入ってしまいました。お母さまのお言葉、とても重いです>
<あまりにも深い人生に胸が震える思いです>
<けさ、ちょうど子どもと学校で習った歴史の話をしていました。ちなみに戦後のことを習っているらしいです。川平さんの話、ぜひ子どもに「聴き逃し」で聴かせます。生きた戦後の話、もう近くには聴かせてくれる人、いませんから>

川平さんのお話を聞いて、たくさんメッセージが寄せられました。どんなふうにお聴きになりましたか。
川平さん: うれしいですね。ラジオは、かくも反響が早いんですね。
三宅キャスター: メッセージにありましたように、とても貴重なお話だと思います。沖縄に戻ってこられて、お母さまが、「“国破れて山河あり”と言うけど、山河もないわね」とおっしゃった、という話がありました。そういう中で戦後の暮らしをお始めになって、まず最初はどんな仕事をされたんですか。
川平さん: 最初は、英語で「OKINAWA EXHIBIT(オキナワ・イクジビット)」という、直接訳したら、“陳列する”程度のものなんですけれども、それを日本語では「博物館」と称して、アメリカ軍司令部・軍政府のあった中部の町の東恩納(ひがしおんな)にある展示場の通訳・翻訳をしていました。焼け残された沖縄の民芸品、工芸品等を陳列し、そこに来る沖縄の軍人、軍属、その家族たちに、「沖縄にもこのような民芸品なり工芸品があった」ということを話す立場におりました。それが最初の仕事です。

アナウンサー時代の川平さん

三宅キャスター:
そしてそのあと、沖縄のラジオ放送局のアナウンサーになられる?

川平さん:
はい。私の一番上の兄が、その当時、沖縄側の政府の文化部の芸術課長というのをしていたんですが、島の多い沖縄では、宮古島、石垣島などそれぞれあるので、そこにニュースや娯楽を伝えるのはラジオ局が最良だということで、彼が提言をするわけです。それをアメリカの軍政府が取り上げて、日本語放送局を作ってくれたのが1949年でした。そのときに「君は台湾で一応標準語を話していたんだから、アナウンサーにならないか」ということで、医者になるつもりだったんですが、アナウンサーになりました。

三宅キャスター:
そうだったんですか。最初の放送のこととかは覚えていらっしゃいますか。

川平さん: 覚えています。「聴く人はいるのかね」ということでしたけれど、とにかく放送だけは出すと。その第一声に、「こちら琉球の声」、「琉球の声」という放送局の名前だったんですけれども、そこで、沖縄の古典音楽でお祝いの席で必ず演奏する「かぎやで風」というお祝いの曲を流しましたら、聴く人は聴いてくれて、非常に感激してくれた人がいたんですね。それでこれをきっかけに、「親子ラジオ」というのが沖縄に出てくるわけです。あのころはこちらでは「農村ラジオ」と言って、いわゆる“有線ラジオ”ですね。そういうのを普及させました。
三宅キャスター: ラジオの受信機を持っている人が少なくても、それを拡声したりして伝えれば、多くの人が聴けるようになると。それを「親子ラジオ」と言うんですね。
川平さん: そうですね。親子ラジオは有線で、各家庭にスピーカーだけ配置して、区長さんとか村長さんのところに受信機を置いて、そこで受信したものを流す。一方、それを機会に、村々のお知らせをみなさんにお伝えするというシステムを導入していました。
三宅キャスター: 最初の放送で流されたのが、お祝いの曲だっておっしゃいましたね。
川平さん: はい。「かぎやで風」という曲です。
三宅キャスター: どうしてこの曲をかけようとしたのですか。
川平さん: これはお祝いの席でまず必ずかけられるというか、踊りも伴うんですが、「きょうのうれしさは何に例えよう、露を受けたつぼみの花がパッと咲いたようだ」という歌詞なんです。“喜びの歌”なんですね。
三宅キャスター: 焦土と化した沖縄の中で、この曲を、まず流されたわけですね。
川平さん: はい。
三宅キャスター: そしてそのあと、「沖縄放送協会」という放送局が出来て、やがて沖縄が復帰後、沖縄放送協会はNHKと一緒になっていくので、朝清さんはNHKの仕事もしてくださいました。
川平さん: その前に、実は、「公共放送を作るべきだ」というのが私の兄の主張だったんですけれども、沖縄の場合、局を運営する費用がないということで、アメリカ軍政府の意向で、まず商業放送に移るわけです。それが今で言う「琉球放送」ですね。琉球放送が出来て、そのあとテレビ局、それぞれ商業テレビができるんですが、公共放送が入ってくるのは一番最後なんです。ですから沖縄放送協会が出来ましたのも、1967年。沖縄では公共放送が一番最後に出来たんです。
三宅キャスター: そうなんですね。そのあと1972年に復帰して、NHKの仕事も朝清さんはしてくださるようで、東京に移られますね。東京の人々の沖縄への思いっていうのを見て、何をお感じになりましたか。
川平さん: 私は東京に来てからすぐ「東京沖縄県人会」というのに入りました。「施政権は返還された。これは喜ぶべきことだ。ただし……」というグループがいるわけですね。というのは、アメリカ軍の基地の縮小の約束はされていないということに対する、ある種の失望のようなものがありましたから。沖縄県人会の中でも、「復帰したからには、復帰に従った順序で行こう」というグループと、「沖縄に軍事基地があるからには、これを廃止するためにまだまだ運動を続けよう」という、非常に政治的な面が出てきたものですから、一時、沖縄県人会というのは、混乱とまでは言いませんけれど、非常に運営に困難な時期がありました。
しかしその後は、いわゆる沖縄から来る若い人たちが、自分たちのアイデンティティーを広い視野でとらえてバランスが取れた人たちが増えてきましたので、沖縄県人会でも今回の首里城の火災にはみなさんで募金をして、新春の集まりのときには県知事をお招きして、集まったお金をお渡ししようというくらいになりました。それと同時に、ここ(本土)にいる、私たちは「ヤマト」と言いますが、そういった(ヤマトの)人たちとの関係もずいぶん変わってきたと思います。
三宅キャスター: みんなの心が1つになるものが首里城である、ということなんですね。たいへん貴重なお話を、川平朝清さんに伺いました。ありがとうございました。

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2019年11月27日(水)放送より

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