未知の世界に飛び込むということ

ざっくり言うと
今回の「ひみつの本棚」は、
シリア内戦を描いたノンフィクション、
小松由佳著『人間の土地へ』
日本人女性初のK2登頂、
そして中東のシリアに向かい内戦を目撃
2020/10/02 高橋源一郎の飛ぶ教室 「ひみつの本棚」

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2020/10/02

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2020年10月2日(金)放送より

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作家・高橋源一郎さんがセンセイとなって、1冊の本をテキストに現代社会の課題やひずみを考察し、生き方の指南役となる「ひみつの本棚」。今回のテキストは小松由佳の『人間の土地へ』です。日本人女性として初めてK2に登頂した小松さん。次に向かったのは中東のシリアでした。シリア内戦を描いたノンフィクションを源一郎センセイがどう捉えたのか、教えていただきます。

【出演者】
高橋さん:高橋源一郎さん(作家)
小野アナ:小野文恵アナウンサー


過酷な山頂から、人間の生きる大地へ

小野アナ: さあ、1コマ目は「ひみつの本棚」です。きょうの本は小松由佳著『人間の土地へ』です。
著者の小松さんは1982年秋田県生まれのフォトグラファー。2006年に世界第2位の高さの山・K2に日本人女性として初めて登頂。そして、2012年からはシリア内戦・難民をテーマに取材・撮影を続けています。
…あ、ごめんなさい。きょうの本の宣言を、源一郎さんにしていただくはずだったのに…。
高橋さん: いいんですよ、別に。
小野アナ: 言ってしまいました。
高橋さん: いいです。ありがとうございます。そういうこともあります。ナマですから。
小野アナ: この本は先週発表されたばかり。K2を登って、シリア内戦を目撃して、そしてシリア人の男性と結婚して、現在に至るまでの物語。
高橋さん: 現在、2人はお子さんと日本に住んでいらっしゃるんですね。
小野アナ: どんな本なのか、お願いします。
高橋さん: 小松由佳さんのこの出たばかりの本を、実は僕の担当編集者が担当していました。
小野アナ: へえ。
高橋さん: 本をプレゼントしてもらったんですよ。
本はいっぱいいただくんですけれど、おもしろくないと「よかったですね…」で終わるんです。これは、うちへ帰って読んで、たまげましたね。感動しました。「すごいな」と思ったんです。「すごいな」にもいろいろあるんです。引用したいところが多すぎるので、ざっくり説明します。
ポイントがいくつかあるんです。この方は日本人女性として初めてK2に登頂する。女性としては世界で8人目だそうです、
小野アナ: ものすごく難しい山ですよね。
高橋さん: 確か下山のときがすごく危なくて、4人に1人ぐらい遭難する。
小野アナ: うわあ…。
高橋さん: 本当に危険な山だそうです。そこに登って植村直己冒険賞もいただいているんですが、それは最初にちょこっと書いてあるだけなんです。
これ登頂する直前のシーンなんですけど…。

息が苦しい。寒い。ハア、ハア、ハア。荒い息づかいが聞こえ目が覚めた。その声が自分の呼吸音であることに気づく。目覚めると、私は隣の青木の肩をたたき、「生きてる?」と確かめた。そして彼が「生きてます」と答えると、再び安心して目を閉じた。息苦しく寒いが、それ以上に眠かった。何度となく、目覚めては隣の青木を起こして生存を確認し、また眠った。このとき青木がもし死んでいたなら私もそのまま死んだだろう。とにかく隣に生きた人間がいることになんとも言えない安堵感(あんどかん)があった。
どれだけ時間が経(た)ったのだろう。頬に何かが触れて目が覚めた。覚醒し始めた意識の奥で、私は自分が死んだのかもしれないとうっすら考えていた。そしておそるおそる目を開いた。視界に、紫色の雲海が広がっていた。そのはるか彼方(かなた)に球のようなものが光っている。煌々(こうこう)と光を伸ばし、私たちが座る山肌を照らすもの――太陽だ。頬に触れたのは、その光だった。
呆然(ぼうぜん)と見つめているうち、世界は光で満たされていった。それは強烈な美しさで、思わず涙が流れた。「立ちなさい」「生きて還(かえ)りなさい」。太陽がそうささやき、導いているかに思えた。私たちは太陽に背を押されるように立ち上がった。

小野アナ: 登頂して下りる途中…。
高橋さん: 死にそうになるんですね。
最初の30ページぐらいがK2の話なんですけれど、ここだけで1冊分ぐらいの迫力があるんです。ところが、小松さんは山に登るのをやめちゃうんです。
どうしてかというと、一緒に荷物を運ぶポーターたちを見て、風土とともに生きる人々の確固たる姿に強く引かれていった。「助けてもらって登って、どんな意味があるんだ?」ということで、あっさり山に登るのをやめちゃうんです。
30ページぐらいで本1冊分あるんだけど、そうじゃないところがすでにすごい。

彼女は砂漠へ向かって、砂漠の人たちと会う。小松さんの場合は「人」に会うんですね。アブドュルラティーフというイスラムの一家の人たちと出会います。大家族主義なので、この一家は2008年の時点で37人が同居していた。その数は年々子どもが生まれることで増え、2011年には45人になった。それ以外の親戚もいるので、60~70人から成る1つの大家族だった。このイスラムの大家族の中に、小松さんは、最初は取材で入り込んでいくんです。
62ページに「女たちの世界」という節がある。ここも読んでいると(番組が)絶対に終わっちゃうので、読めないんですが…。
さっき言ったように、ポーターの人たちを見て考えが変わったんです。大地に生きる人たちを見て、自分の足場を見直すという作業をする。
小松さんはイスラムの世界へ行った。ご存じの方は多いと思いますが、イスラムでは女性は家を守る。家事をする。びっくりしたんですけど、まったく外に出ないんですね。

アブドュルラティーフ一家の女たちの日々はひたすら家事と育児に費やされ、ほとんど外出をせず、一年の大半を自宅の敷地内で過ごす。どんなに広く見積もっても家から半径五○メートルが生活圏だ。買い物に出たり[…]、友人を訪ねることも稀(まれ)で、ごくたまの外出も女性同士か夫同伴でなければならない。とにかく女は家にいて、いつ男が帰ってきてもいいように食事の準備をし、家を清潔に整える。

高橋さん: そんな中にいて、(小松さんは)日本の文化で育っているから…。

そうした女の仕事を経験した結果、私はたった三日間で我慢の限界に達してしまった。

高橋さん: でも、僕らから見ると束縛にしか見えない中で生きていく女たちに引かれて、仲よくなっていくんです。この入り込み方。
「束縛だ」「あなたたちはダメよ」と言うんじゃなくて、そこにはその世界のよさがあって、それを認めようということで、入り込んで仲よくなっていくんです。これが小松さんの姿勢です。

写真家の視点だからこそ捉えられた、日本への違和感

高橋さん: その果てに、ラドワンという、アブドュルラティーフ一家の末っ子と恋をするんです。これは時間がかかる恋愛。

二○○八年に出会って以来、ラドワンと私はどちらからともなく惹(ひ)かれ合った。二○一○年頃からは互いに結婚を意識したが、翌二○一一年一月からラドワンは二年間の兵役にとられることになった。

高橋さん: ここでいったん2人は別れるんですよ。兵役にとられちゃったから。

「自分のことは忘れてほしい」。ラドワンは私にそう言い残すと、二○一三年の初めにシリアへと戻っていった。

高橋さん: どうしてかというと、徴兵されて政府軍に入っちゃうんです。政府軍に入ると、民衆と対立するようになる。結局ラドワンは政府軍から脱走して、反政府軍に行く。波乱万丈の生活を送る。
そういうラドワンと結婚しちゃうんですね。
小野アナ: ラドワンは軍から脱走して、1度ヨルダンに逃げて、それでシリアに戻っていく。
高橋さん: 反政府軍に入るんですが、そこでも「これが正しいのか?」と。そういうラドワンと結びついていくんです。
1度別れたあとに、ヨルダンから電話がかかってくる。

数秒の間に、心の中に二人の自分が現れ、ここが運命の分かれ目だとささやいた。一人はどこまでも現実的で、ラドワンを忘れ、混乱から離れほうがよいとささやいた。もう一人は、直感を信じ、心の求めるほうへと向かえばよいとささやいた。電話をとるかとらないか。脳裏に浮かんだのは、パルミラで彼と過ごした時間であり、太陽のようなあの笑顔だった。私は電話をとった。

高橋さん: ということで、もう1度シリアまで行って彼と結婚をすることになるんです。向こうのうちは「異教徒の嫁を迎える」ということで大反対するし、小松さんの家も大反対する中で、2人は結婚する。
ところが、シリアでは難民生活を送ったりして苦しい生活を送るんですね。結局シリアでは暮らすことができなくて、小松さんはラドワンを連れて日本にやってきます。
シリア編がすごい話なんですけど、日本編が実はクライマックスだと僕は思うんです。
日本に来て、(ラドワンは)シリア出身のイスラム教徒だったので、文化的なギャップに悩むんです。どうやって克服して日本で暮らしていくか、という物語になっていくんです。
小野さん、どうでした?
小野アナ: 私…感動したんですけど、小松さんは、写真を拝見するとかわいらしい女性じゃないですか。このたおやかな人がこの体験をしたら、もっと泣いたり苦しんだりしたことをいっぱいお書きになりそうなもので、きっとすごく体験なさったと思うのに、あまり書いていなくて抑えてある。その分、シリアの人々に対して目が向くんですよね。この抑えた感じが特徴かと思ったんです。
高橋さん: それはカメラマンだからですね。
小野アナ: カメラマンだから?
高橋さん: 対象をきちんと撮る。クリアに、はっきり見てもらいたい、というのがある。自分の感情や意見より先に、「見てもらいたい」というのがあると思うんです。自分も「写真の対象」だと思うんです。
小野アナ: おお…。
高橋さん: シリアのイスラムの人たちと日本の生活や考え方とのギャップが書かれているんです。

シリアでは、家族や友人とのゆとりの時間(ラーハ)こそが人生の価値でもあった。だが日本では、ゆとりではなく、夢の実現や人間的成長に価値が置かれている。そうした価値観の違いにも、ラドワンは困惑した。

高橋さん: つまり、第一は家族とゆっくり過ごす。日本は家族よりも仕事ですよね。そういうことが、ラドワンにはなかなか理解できずにいる。でも、考えてみたら、「家族や友人とのゆとりの時間が何より大事」というほうがまともかもしれない、と思えるところもあるんです。
イスラムの人の世界も、日本人からすれば「女性が家庭の中に閉じ込められている、ひどい」という見方もあるけど、向こうから見たら「なんでこんなにゆとりがないんだ?」「みんなでゆっくり時間を過ごせばいいじゃないか」とも見えるでしょう。
小松さんの本は、夫婦の苦労の話ではあるんですが、その中に日本とイスラムの文化の違い、それから「どうやって一緒に過ごしていくか」ということが描かれている。意見を言っているんじゃなくて、小松さんのすごいところは、その場所へ飛び込んでいっちゃうんだよね。
小野アナ: この人がその境遇に自ら飛び込まなかったら、それは浮かび上がってもこない。
高橋さん: 最後にK2の話が戻って出てくるんです。こういう文章でこの話は終わっています。

紺色の、乾いたヒマラヤの空。私は酸素の薄い空気を吸い込み、白い雪の上を歩き続ける。自分の足音と、呼吸音だけが聞こえる。巨大な山の、非情さと美とが交錯する世界。
――K2の八二○○メートル地点。頭上に玉のように輝く星々を仰ぎながら、私は凍った雪の斜面で朝が来るのを待っていた。強烈な疲労と耐えがたい眠気が身体を襲う。静寂と、寒気、そして夜の闇。自分が生と死の分岐点に立っていることを実感するあの感覚。やがて、どこからか光が現れて頬を撫(な)でた。太陽の光だ。この美しい世界に還(かえ)りたい。私は心から願った。あのビバークの一夜が、今や私のかけがえのない原点として、私を導いている。
ヒマラヤの山々は、私に“命が存在することの無条件の価値”を気づかせてくれた。
人間がただ淡々とそこに生きている。その姿こそが尊い。

私はその姿を追い求めていこう。
シリアの沙漠(さばく)にあって幸福な日々を生きた人々のなかに。
激動の内戦に翻弄され、異国の地に生きようとする人々のなかに。
そして、夫ラドワンや、二人の息子たち、私自身のなかに。

私は歩き続ける。
ヒマラヤから沙漠へ。
難民の土地へ。
そしてまだ見ぬ、人間の土地へ。

高橋さん: 「人間の土地へ」という言葉は、サン=テグジュペリの『人間の土地』の中にあるんです。
サン=テグジュペリも、飛行機に乗ることがまだ危険だった時代に、飛行機に乗って地上のもろい存在の人間を見て飛んでいた。それが『人間の土地』なんですね。いろいろ考えさせられました。
小野アナ: 「ひみつの本棚」、きょうは小松由佳著『人間の土地へ』から引用させていただきました。

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2020年10月2日(金)放送より

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