福島県浪江町「ふるさと津島の姿を映像に残す」(前編)

ざっくり言うと
放射能汚染被害、そして復興事業によって姿を消す前のふるさとの姿を映像で残す
家屋を保存したい思いと見通せない将来との間で揺れる住民の苦悩
2020/05/09 NHK東日本大震災 音声アーカイブス ~あれから、そして未来へ~

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2020/05/09

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2020年5月9日(土)放送より

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【出演者】
野田さん:野田雅也さん(フォトジャーナリスト)
柴田アナ:柴田拓(ひらく)アナウンサー


被災したふるさとの「最後の姿」を映像で残す

柴田アナ: 福島県浪江町の津島地区は阿武隈山地に抱かれた山里です。震災前はおよそ1400人が暮らしていました。東京電力福島第一原子力発電所からおよそ25キロに位置し、震災後は帰還困難区域となって、現在も立ち入りが制限されています。
その津島地区の人々が今、「ふるさとの最後の姿」を映像で残すというプロジェクトを進めています。きょうは皆さんと一緒に福島県浪江町津島地区の人々の声に耳を傾け、震災発生から9年がたつ今、ふるさとを映像で記録することについて考えます。
ゲストはフォトジャーナリストの野田雅也さんです。野田さん、どうぞよろしくお願いします。
野田さん: よろしくお願いします。
柴田アナ: 野田さんは震災発生直後から福島県飯舘村や岩手県大槌町の取材を続けています。野田さんが9年にわたって飯舘村の人々を追ったドキュメンタリー映画『サマショール』は2月末に公開されて以降、全国各地で公開の予定です。そして、先ほどご紹介した「ふるさと津島を映像で残す会」というプロジェクトでは、カメラマンとして協力されています。
まずはプロジェクトの内容を教えていただけますか。
野田さん: ことしで原発事故から10年目に入りましたけれど、今も帰還できない福島県浪江町の津島で行っているプロジェクトです。
2017年より除染作業が始まりまして、その除染に伴って家屋の解体が始まりました。住民たちは、自宅を残すのか解体するのか、決断を迫られています。「自分のふるさとが地図から消えてしまう前に、家が解体される前に、津島の最後の姿を記録したい」ということで、住民12名の方たちが中心となって「ふるさと津島を映像で残す会」を結成されました。現在、ふるさと津島の家々500軒あまりをドローンで空撮して記録に残すプロジェクトを進めているところです。

柴田アナ: このプロジェクトに野田さんが協力されているわけですが、映像で残す意義についてはどのようにお考えですか。
野田さん: 浪江町津島というところは、小高い山々に囲まれた美しい山里です。歴史ある地区でしたけれど、2011年3月の福島第一原発事故で、北西に吹いた風の影響で大量の放射性物質が降り注ぎ、戻れない場所となってしまいました。
現在も福島県内で最も線量の高い区域で、帰還困難区域に指定されたままです。これから先いつ戻ることができるのか、その見通しは未だに立っていません。「最後の姿を映像の中にだけでも閉じ込めたい」という住民の方たちの強い気持ちがあり、地域を撮影することにしました。
柴田アナ: 「すべての家を撮影したい」と言われたとき、どのように思いましたか。
野田さん: 津島は広い地域で、全体で500以上の家屋があると言われました。すべてを撮影することは膨大なカットの撮影になるため、正直なところ戸惑いましたけれど、すべてを記録に残すことはとても重要な仕事だと思いました。
暮らしの証しが消えてしまえば、津島という土地が存在したことさえ記憶から薄れてしまいます。だから、地図から消える前に記録に残すことの重要性を強く感じましたし、何よりも「ふるさとを映像の中に残したい」という津島の方たちの強い思いに心を動かされました。
柴田アナ: きょうは野田雅也さんと一緒に、福島県浪江町津島地区でふるさとの最後の姿を記録しようと活動する人々の声を聞いていきます。

除染・復興整備に伴って解体されていくふるさと

柴田アナ: 最初にご紹介するのは、「ふるさと津島を映像で残す会」副代表の今野秀則(こんの ひでのり)さん(72歳)です。
今野さんは津島地区で明治時代から続く旅館を営んでいます。今野さんが4代目です。震災発生後、大玉村で避難生活を続けながら、先祖から受け継いだ旅館を守ってきました。
今野さんに、ふるさとである津島地区を映像で残すことへの思いを聞きました。
(取材:小川真利枝ディレクター)

今野さん: 震災と原発事故からもう10年目ですよね。その間、私たちは自分たちの本来の住まい、生活の根拠であるふるさと津島、自宅周辺にある田畑の管理さえもできない状況にあるわけです。
10年もたてば、地域の人々の絆やつながり、ふるさとに対する思いが時間の経過とともに薄れていき、弱まっていくのはやむをえないことでしょう。一方では、ふるさとの風景が手入れや管理もできないままに放置され、どんどんすさんで荒れて、原野に戻っていったり自宅が破損していくわけです。それは私たちには悔しいことですから、なかったことにさせたくない。ふるさとの記憶を私たちは失いたくない。
そのためにも、「記録として残そう」という思いから、かつてそこに私たちの生活があったことを将来に残したい。そういう思いから始まったことです。

柴田アナ: 「ふるさとの記憶を失いたくない」という思いから始まったプロジェクト。そのきっかけとなったのは、2017年に地区の一部が「特定復興再生拠点区域」となったことでした。
「特定復興再生拠点区域」とは、将来にわたって居住が制限されることになっていた「帰還困難区域」の一部について国が認定し、放射性物質の除染などを進めて人が戻れるようにしようという区域のことです。
津島地区では、2017年12月に地区の中の一部がその区域と認定され、2023年3月を目指して住民が暮らせる場所にするための整備が進められることになりました。

今野さん: 津島は広いんですよね。東京の山手線の内側の1.5倍くらいの面積があるんです。その9550ヘクタールの中のわずか1.6%、153ヘクタールが「復興拠点」という形で整備が進められているんです。
その復興拠点内だけが対象になるんですが、破損してどうしようもない家を将来に残しても、自分の子どもや孫に負の遺産を残してしまう形になる。だから、残念だけれど断腸の思いで自宅を取り壊す、という決断をなさる方がいらっしゃるわけです。もちろん経費は国が負担して取り壊してはくれるんですけれど、そういう家が復興拠点の事業進捗(しんちょく)とともに増えていくわけです。
手をこまねいていると、解体されてしまったあとには記録として残すべき家さえもなくなってしまう。家が取り壊される前に、みんなでふるさとの記録・記憶を将来に伝えるためにも記録作業を始めよう、ということで始まったんです。

柴田アナ: 「ふるさとの記録・記憶を将来に伝えるためにも、取り壊しが始まる前にプロジェクトを始めた」ということでした。野田さんには、住民の方々からいつごろにどんなお話がありましたか。
野田さん: 直接最初に相談を受けたのは2019年5月中旬でした。そのときは津島で解体作業が始まる2週間前のことでした。「時間がない」という相談だったんです。
すべての家を撮影することは、それぞれの家に家族の思い出や受け継いだ歴史がありますから「1軒でも撮り逃すことはできない」と思いまして、大まかな予定だけを立ててすぐに津島に向かいました。
解体番号が家屋に貼り付けられた家を探して、優先して撮影を始めました。家具の運び出し作業なども始まっていましたし、解体寸前のギリギリのタイミングで撮影が始まりました。
柴田アナ: 本当に直前で、ギリギリのタイミングだったんですね。

長く受け継いできた家を取り壊すのか、残すのか

柴田アナ: 今野さんは津島地区で100年以上続く旅館を営んでいます。その旅館も「特定復興再生拠点区域」に指定され、解体するかしないか、決断を迫られています。

今野さん: 私の家もその「特定復興再生拠点区域」である1.6%、153ヘクタールの中に入っています。1.6%の逆は98.4%ですよね。その98.4%に対する計画は一切ないんですよ。いつになったら除染がされて、いつになったらどういう形でどんな計画が進められるのか、それすらもない。
そういう状況の中でわずか1.6%の復興拠点を整備したからといって、津島という地域に帰って、事故以前と同様に地域での運動会や神社のお祭りなどの年中行事を通じて、事故以前と同様の生活が送れるか? これは無理です。
そんなこともあって、私も事故以前に住んでいた家をどうしようか、迷っています。残したとして、そこで通常どおりの生活ができるか? 確かに、家で寝てごはんを食べるぐらいの生活はできると思いますけれど、地域住民との交流を繰り返す年中行事を通じて、お互いの生きがいや楽しみ、喜怒哀楽をともにした地域生活はたぶん無理ですね。
そうすると、どうなんだろう。家を残したとしても、私はもう70歳を超えてますから元気でいるのはあと10年くらいでしょう。自分の子どもたちや孫たちに負の遺産を残してしまう。いずれは取り壊しや管理経費といった経済的な負担がかかってくる。5か年の復興拠点整備を進める中で国が国の経費で取り壊してくれるのならば取り壊そう、という気持ちは私にも一方ではあります。
だけれど、4代目の私自身を含めて、曽祖父、祖父、両親、私たちのきょうだい、さらには私たちの親戚や地域の人たちが寄り集まって交流を繰り返した、その生活の拠点である自宅を取り壊すという決断は私にはできないんです。
どうすべきか迷っています。残したい。残したいけれど、残したとしてどうする? 何をやる? 何がどうなる? それが見通せない。ジレンマに陥っています。
それを乗り越えて決断して今は解体が進められている、という実態はもちろんあるんですけれど、私はそこまでなかなか踏み切れない。迷いに迷っています。

柴田アナ: 「残したいけれど、残したとしてどうする?」という今野さんのジレンマについて、野田さんはどのように考えますか。
野田さん: 今野さん自身もずっと考え続けてこられました。しかし、今でもやはり「答えが出せない」。それだけ苦しんでらっしゃる。特に、今野さんの自宅は150年近くたつ古い建物で、代々受け継がれてきたとても大切な建物です。そこには思い出がたくさん詰まっていますし、「できれば壊したくない」というのが本音だと思います。
取り壊したとしても、「果たして津島に住民が戻ってくるのか?」という問題があります。同じ浪江町で帰還が始まりましたけれど、現在浪江町への住民の帰還率は事故前の人口のわずか6%にとどまっています。住民の意向調査でも、「帰還しない」とすでに決めている人たちが半数に達しています。
そんな中で復興再生事業を進めたとして、果たしてふるさとを取り戻すことができるのか? その将来が見えないために取り壊しの決断もつかないという状況なのではないかと考えています。
柴田アナ: 整備される地域も狭いエリアですし、帰ってくる住民の方の割合も少ない。そういう中で、かつてのコミュニティーを取り戻すのは難しい面もありそうですね。
野田さん: 私は隣の飯舘村も取材しています。帰村して農業を始められた方がいらっしゃいます。その方からお話を伺いました。
「田んぼというものは、水路を使って水を上から下に流さないといけないんです。これまで地域の仲間たちがみんなで協力して水の管理をしてきました。しかし、村に戻らない人、農業を再開できない人がいらっしゃいますので、田んぼの水が上から下まで流れなくなってしまったんです。田んぼ全体を管理できなくなって、従来の米作りができなくなっている」。
地域そのものがすでに崩壊しているため、再生が難しい状況になっています。おそらく津島でも同じようなことがこれから起きるのではないか、と考えています。

ものや映像が喚起するふるさとの記憶

柴田アナ: 次にご紹介するのは、ふるさと津島を映像で残すプロジェクトの代表を務める佐々木茂(ささき しげる)さん(65歳)です。
佐々木さんは、震災前は福島県浪江町の津島地区で農家と漬物店を営んでいました。現在は、二本松市で避難生活を続けています。一緒に避難した母・ヤス子さんは、津島地区で「昔の生活品展示室」という小さな展示施設を作って切り盛りし、津島の歴史を伝えていました。佐々木さんがふるさとを映像に残すプロジェクトを始めたのには、この「昔の生活品展示室」の存在が大きかったといいます。

佐々木さん: 母親が一生懸命、昔の農具など家に残されていたものを大事に保管していたんですよ。年も取ったんで、「なんとか建物を作って保管できないか」ということで、夢中になって展示をやっていたんですね。
古い農家さんであれば、だいたい納屋にあるようなものが同じなんです。ほかの人はどんどん処分しているんですが、うちでは処分しないで展示しているということで、震災前においでになった方々が「これ、家にあったよね」「昔こんなのを使った記憶がある」と思い出を語っていただくような場になっていました。
立派なものが並んでいるわけでもないんですよ。「昔の山村の暮らしはこういうものだったのか」とご理解いただけるんだろうと思っていました。「昔の姿を目に見える形で残さないといけない」という思いに駆られたんだろうと思っています。

柴田アナ: 佐々木さんの母・ヤス子さんは、原発事故で避難したあとも避難先で展示室のことを気にかけていました。しかし、2011年9月にすい臓に末期がんが見つかり、翌年帰らぬ人となりました。
ヤス子さんには最後まで「展示室を残したい」という思いがあったといいます。

佐々木さん: 母親には「残してほしい」という強い意欲があったようです。私と2人で2度ほど入りまして、一部内部からシートをかけたりしたんです。
母親がその年の9月に末期がんを宣告されましたので、私の知らないところで母親が自分で車を運転して、自分でシートかけに行った。たぶん、死ぬ2~3か月前に行ってきたんじゃないでしょうか。それが残っていました。シート1枚かけるのが精一杯だったようですね。
「どうしても自分で残したい」という気持ちに駆られたんでしょうね。 「なんとかふるさとの情景の中で残してあげたい」という気持ちからスタートさせていただきました。

柴田アナ: 野田さんは、津島地区の住民の方にも撮影のためのインタビューをされました。佐々木さんのように「ふるさとを記録する」ことに対して、皆さんにさまざまな思いがおありのようですね。
野田さん: 佐々木さんの母親ヤス子さんが作った展示室を実際に拝見させていただきました。鍬(くわ)や脱穀機、釜や台帳など、生活品がぎっしりと土間から天井まで展示されています。そのひとつひとつの道具に手書きの解説が付けられているんです。そこには当時の暮らしぶりや津島の物語が詳しく記されています。そこにヤス子さんのふるさとに対する愛情を感じました。
津島には古くから集落がありましたけれど、人口の半数以上が戦後に満州から引き揚げてきて入植した人たちなんです。
柴田アナ: そうなんですね。
野田さん: そのために、入植者たちはかつて鍬(くわ)1本で木の根っこを掘り起こして荒れ地を農地に変えて開拓し、食糧難の時代を生き延びてきました。当時は木の枝を組んだだけの粗末な小屋で生活されていたそうです。
佐々木ヤス子さんはそんな入植者たちの姿を見て、開拓者の手助けをされていたそうです。おそらくヤス子さんが展示している当時の道具ひとつひとつに、生きた証しや津島の歴史が詰まっているのだと思います。苦労しながら命をつないで津島の仲間たちとともにふるさとを作り上げてきたことが、ふるさとへの深い愛情につながっているんだと思います。
その母親の苦労を見てきたからこそ、佐々木茂さんもふるさとの思いを受け継いで、最後の姿を映像で残したいというこのプロジェクトに奔走(ほんそう)されているのだと思います。
佐々木さんだけではなく、ひとりひとりに話を伺うと、たくさんの思い出、たくさんのお話を聞かせていただけます。その話ひとつひとつがふるさと津島で生まれた物語です。ふるさとが消えるということは、こういった思い出、物語ひとつひとつも消えてしまうということにつながりますので、誰もが心を痛めているという状況です。
柴田アナ: それぞれの方にふるさと津島への思いがある。野田さんもそういった方に直接触れることで、皆さんの思いを感じていらっしゃるわけですね。
野田さん: その思いを蓄積しながら、ドローンで空撮して上空からその方の家を拝見しています。イスが転がっていたり、子どものおもちゃが残っていたり、あるいは農具がそのまま散乱していたりする光景を目の当たりにしてきました。9年前当時がそのまま残っているんです。
その姿から私は、その方たちがどのような暮らしをしていたのか、そこに子どもがどのくらいいて、何歳くらいの子どもたちが生活していたのか、といったことを想像することができます。生活がリアルに残っているところとひとりひとりの話が撮影する中で組み合わさって、津島の方たちの思いを直接心にとどめているところです。

<福島県浪江町「ふるさと津島の姿を映像に残す」(後編)>

放送を聴く
2020年5月9日(土)放送より

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