Z世代が伝える戦争のはなし(1)AIカラー化で「8.6以前」をよみがえらせる

Z世代が伝える戦争のはなし
放送日:2023/08/14
#インタビュー#戦争
終戦から78年。戦争の記憶が薄れていく中、幼い頃からデジタルの世界になじんできた世代、いわゆる「Z世代」の若者たちが、新たな方法で過去を掘り起こし、体験を引き継ごうとしています。
8月に放送した特集番組「Z世代が伝える戦争のはなし」では、過去に向き合う若者たちの姿を5夜連続でお伝えしました。
第1回は、原子爆弾で消えてしまった街の姿を、AI技術によってよみがえらせようとしている、広島市出身の庭田杏珠さん、21歳の取り組みです。(語り・江崎史恵アナウンサー)
庭田杏珠さん
原子爆弾で消えてしまった街
戦前の広島・中島本町「本通り商店街」
――1945年、昭和20年8月6日。人類史上初めて、原子爆弾が投下された広島。
爆心地から半径2キロ以内にあるほとんどの建物が破壊されました。
爆風と熱線、そして放射線によって、その年の末までにおよそ14万もの人が亡くなりました。
爆心地の近くには、広島有数の繁華街がありました。中島本町。
さまざまな店、劇場やレストラン…。
にぎやかな街並みは一瞬のうちに消え、暮らしていた人の多くが命を失いました。
そこはいま、緑豊かな平和公園へと姿を変えています。
5月のG7サミットでは、各国の首脳が原爆慰霊碑に献花を行いました。
庭田さん:
今の広島平和公園と呼ばれている場所は整備されていて、当時の広島一の繁華街だったことがわかるものはありません。でも実は中島地区という日常があった場所なんだよと、私の取り組みで少しでも伝わるきっかけになったらいいと思っています。
――現在大学4年生の庭田さんは研究の一環として、原爆投下前の中島本町で撮られた白黒の写真をカラー写真に変える取り組みを続けています。AI技術を使い、その上で戦争体験者との対話を通して、当時の色を再現していきます。
写真が色を取り戻すことで、凍り付いていた記憶がよみがえっていく。
その様子から「記憶の解凍」と名付けられたこの取り組みは、いま大きな注目を集めています。
カラー化した戦前の広島・中島本町「本通り商店街」
原爆で家族を亡くしたおじいちゃんとの出会い
――広島で生まれ育った庭田さんが原爆投下について知ったのは、幼稚園の頃でした。
庭田さん:
初めて平和学習を行ったのが幼稚園の年長のときでした。資料館を訪れたときに、被爆後の人々の肌が垂れ下がっているジオラマの展示、悲惨な光景を写した白黒写真といった光景を目の当たりにして、資料館を出る時も泣いていたし、その日の夜は眠れなかった記憶があります。
――平和学習はつらく、苦手と感じていた庭田さん。
その後、原爆投下前の中島本町を写した白黒写真を見たことで、この地区にあった日常と、それを奪った出来事に、関心を持つようになりました。
そして、高校1年の時、庭田さんにとって大きな出会いがありました。
庭田さん:
2017年の6月に、中島本町で生まれ育った濵井徳三さんと偶然お会いしました。ちょうど平和公園の濵井さんの生家の濵井理髪館のあたりでお会いしたんです。濵井さんが「僕の家はここにあって、ここに街があったの知っとる?」と言われて。そこにお住まいだった方にお会いできると思ってなかったので驚きました。当時のお話を詳しく伺いたいですと伝えると、「被ばく前の日常ならなんぼでも(話を)できるよ」と言われたんです。
――濵井德三さんは、1934年、昭和9年に中島本町の理髪店に生まれ、両親と、姉・兄と暮らしていました。原爆投下当時、濵井さんは11歳で疎開中。家族は皆、亡くなりました。
濵井さんは平和公園をたびたび訪れ、かつてそこにあった中島本町の様子を語っていました。
濵井さん:
「ここに我が家があった。ここでお好み焼きの始まり、一銭洋食を焼いてもらい、ここはビリヤード、玉突きね、生意気にガキのくせにしていた。理容学校があったんですが、父親がここの講師をしていて、飲んだくれて昼ごろまで家で寝ていたら、生徒が、時間ですよって起こしに来ていた。本当に懐かしい。ここに来たら。」
――濵井さんの元に残された、一冊のアルバム。
そこには、戦前の中島本町の風景、そして濵井さんの家族の姿がありました。AIによるカラー化の技術を教わった庭田さんは、濵井さんのアルバム写真にそれを役立てることを思いつきました。
庭田さん:
250枚ほどの写真が1冊のアルバムに入っていました。それを見た時に、この白黒写真をカラー化してアルバムにしてプレゼントしたら、もっとご家族のことを身近にいつも感じてもらえるんじゃないかと、カラー化を始めました。お別れも言えずに家族と別れて、時間があれば平和公園に行って、どこかで家族がみているんじゃないかとずっと思っている、このおじいちゃんのためにカラー化したいという気持ちから始めました。
カラー化写真が開く記憶の扉
――庭田さんの取り組む写真のカラー化。AI技術に加えて、写真の提供者から当時の話を聞き、記憶の色に近づけることが特徴です。
庭田さん:
AIでカラー化するのは下色を付ける程度、1割程度のカラー化です。そこから当時の資料を調べて、写真提供者、戦争体験者の方にお話を伺う。そこから手作業で色補正をするというのが9割ですね。
桜の名所「長寿園」でのお花見 ニット帽の男の子が濵井德三さん 1935年撮影
―――たとえば、お花見の様子を写した濵井さんの写真では、こんなこともありました。
庭田さん:
AIで色をつけると木々や木の葉も全部緑色に着色される。でも実際はお花見の時の写真なので、桜色だってわかって。それを一つずつ、手作業で色補正していきました。それで、この写ってるのが杉並木だとわかったので、濵井さんが「杉の実を取って杉鉄砲の弾にして友達と遊んどったんよ」、「この近くに弾薬庫があって、幼な心に怖かったんよ」と。少し色が着くだけでも記憶がよみがえるのがすごく驚きでした。
―――濵井さんのアルバムに残された、家族の記憶。
生家の理髪店の前で母の手を握る、幼い濵井さん。
兄と川べりに並んで立つ写真の背後に写っているのは、当時の「広島県産業奨励館」、いまの原爆ドームです。家族そろっての記念写真もありました。
「濵井理髪館」前の濵井德三さんと母イトヨさん 1936年5月2日撮影
濵井德三さんと兄・玉三さん
背後に写るのは当時の「広島県産業奨励館」、いまの原爆ドーム
庭田さん:
濵井さんに初めてAIでカラー化した写真をご覧いただいた時に、「家族がまだ生きとるみたい」って喜ばれました。こんなに色が着いて、ほんとに嬉しいって言ってくださった。なんか思い出すねって、すごくしみじみ言ってくださったのが印象に残ってますね。
濵井さんの家族写真
カラー化写真から広がる活動
―――庭田さんが濵井さんと出会い、写真のカラー化を始めてから6年。
カラー化写真をまとめた書籍の出版。濵井さんの記憶を歌詞にのせた楽曲の発表。
そして平和公園を歩きながら、かつての中島本町の写真を見ることができるARアプリの開発など、庭田さんの取り組みは広がってきました。
こうした活動を通して、庭田さんが力を入れているのは、自分と同じ若い世代が、戦争の記憶を受け継いでいく、そのきっかけを作ることです。
庭田さん:
私が初めて平和資料館に行って怖いって思ったのも、原爆投下直後の街並みに自分自身を置いていたから、それを遠い過去の出来事としてとらえないとすごく怖いっていう印象があったからだと思うんですけど。被曝前の日常の写真を見て、そこに自分自身を置くことができた時に初めて、今の自分の生活と重ね合わせて感じることができた。それをこういった78年前の原爆が投下される前の日常ってものをカラー化した写真を通して、いまがもしかすると戦前かもしれない、いまのみなさんにとっての日常が失われたらどうか。一瞬にして失われたらどうかということを想像してもらって、それぞれにとって平和って何なのか、想像するきっかけにしてもらえたらいいと思っています。
突然の別れと庭田さんの新たな決意
――そうした中、庭田さんに突然の知らせが入りました。
7月19日。取り組みのきっかけとなった濵井徳三さんが亡くなったのです。88歳でした。
庭田さん:
5月17日にテレビ電話でお話ししたのが最後になって。
――濵井さんが、「平和公園に久しぶりに行ってきたよ」と庭田さんに伝えた、それが最後の会話でした。
庭田さん:
去年の8月6日以降行ってなかったから、久しぶりだったんだってお話しされて。空気がおいしかったっておっしゃってました。久しぶりに心が和んだって。また元気になったら歩いて行ってみようかなっておっしゃっていたので。電話を切る時も、まだ動けるうちにまた話を聞いてねって言われたんです。平和公園に行ったら、またどこかで濵井さんに会えるんじゃないかっていう気持ちがすごくしていますね。
――濵井さんから受け取ったものを、より多くの人に伝えていきたい。
庭田さんは、いま取り組みへの思いを新たにしています。
庭田さん:
濵井さんはそのメッセージを社会に届けてほしいんだ、もっと写真を通して伝えていってほしいんだとおっしゃっていました。これまで濵井さんから受け取った思いや中島地区のみなさんから受け取った思い、戦争体験者から受け取った思いを、戦争を知らない世代、戦争や平和について関心がない人にも、きっかけとして届けられるように取り組んでいきたいなと。その思いはすごく強くなりましたね。
――原爆で消えた町に、確かにあった人々の営み。
写真のカラー化を通して、その記憶を若い世代へ繋いでいく。
21歳、庭田杏珠さんが伝える「戦争のはなし」です。
【放送】
2023/08/14 「Z世代が伝える戦争のはなし」