世界文化遺産登録から10年 富士山と人々の関係&歴史

23/07/08まで

石丸謙二郎の山カフェ

放送日:2023/07/01

#登山#ネイチャー#世界遺産

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登山を趣味とし、山を愛する石丸謙二郎さんが「山」をテーマに、さまざまな企画をお届けする<石丸謙二郎の山カフェ>。今回は「富士山特集」。世界文化遺産に登録されて、ことしで10年。富士山と日本人とのつながりを、静岡県富士山世界遺産センター教授で、15世紀から17世紀の日本史が専門の大高康正さんにうかがいました。

【出演者】
石丸:石丸謙二郎さん(俳優・ナレーター)
山本:山本志保アナウンサー
大高:大高康正さん(静岡県富士山世界遺産センター 教授)

聖徳太子やかぐや姫も?! 歴史が深い富士登山

山本:
富士山の歴史を研究していらっしゃる大高さんです、最初に富士山に登った人は誰なんでしょう?

大高:
伝説では聖徳太子が馬に乗って、富士山を高々と飛び越えていったという話が。

石丸:
ええ?!(笑)。

山本:
聖徳太子?! 伝説ですよね。

石丸:
記述で残っている人物はおられるのですか?

大高:
平安時代の終わりぐらいの1149年に、末代上人(まつだいしょうにん)という方がいて、富士山の山頂に登って、お経を埋めた記録があります。

山本:
平安時代の記録が、さかのぼれる限りでは一番古いのですね。
昔の人は、どんな理由で富士山に登っていたのでしょう?

大高:
富士山は今でも活火山ですが、噴火の活動が活発だった時期が過去にあって、平安時代の初めぐらいまで、非常に大きな噴火があったのですが、噴火をしていたら、当然、山には登れないものですから、噴火を起こす原因が、「富士山の神様の力」だと考えられていました。富士山の山そのものが、火の神の山ということで、畏れ敬ってふもとのほうで拝んでいた、という形のアプローチをしていました。

先ほど紹介した平安時代終わりの末代上人のころには、噴火の活動が小康状態になっていきますので、そうすると山の中で修行する、今で言う山伏に近いと思いますが、山岳修行をするような方たちが修行のために山に入って、その修行のために入った道が開かれていって、一般の方も登るような形になっていきました。

石丸:
例えばハワイ島の山では、ペレという女性の怖い神様がおられて……という話があるけれど、富士山の場合はペレみたいな神様はいたりしないのですか?

大高:
富士山は「女性の神様」をイメージされていて、江戸時代になると「コノハナサクヤヒメ」という女性の神様を、富士山の神様になぞらえるようになっています。それよりも前の鎌倉時代や室町時代の記録を見ると、富士山の神様はかぐや姫だと語られていた時代が結構長くありました。

石丸:
竹取物語のかぐや姫? 月に帰ったという。

大高:
そうですね。
本家のかぐや姫は月に帰るんですけれど、この辺りで語られているかぐや姫の伝説は、最後に富士山の山頂に帰るという話があります。

石丸:
ええ~! 月に帰るのはロマンがあったんだけれど、富士山の山頂に行ったら寒いですよ(笑)。

山本:
山小屋をやっていたんじゃないかと(笑)。

石丸:
おもしろい話だな!

山本:
なぜ、かぐや姫が富士山と関係があるようになっていたのでしょう?

大高:
もともと、竹取物語に富士山は出てくるんですね。最後、富士山の山頂でかぐや姫が残していった薬を燃やすのが、天に近い場所である富士山の山頂で……という形で出てくるのですが、お話の舞台も富士山の辺りを設定した話が地元で作られるようになったのかなと思われます。

山本:
山って、女性に例えられることが多いのでしょうかね? 畏れ敬う対象、という意味では、ちょっとわかるような気がしますが。

江戸時代には信仰のため多くの人が登るように

山本:
信仰の対象から修行の場になって、その後、多くの人が登っていくようになるのはいつごろなんでしょう?

大高:
室町時代の1400年の終わりぐらいから、一般の方たちも富士山に訪れ始めているようなのですが、本当にたくさんの方が行くようになるのは、江戸時代に入ってからだと思います。

山本:
どういうきっかけがあったのでしょう?

大高:
江戸に幕府が開かれて大きな町ができたということもあると思いますが、「富士講」という今でいう新興宗教のようなものが広がりました。基本的には富士山を信仰する人たちのグループなのですが、お金を出し合う相互扶助の組織でもあって、富士山に行くのにも費用がかかるものですから、グループでお金を積み立てて、その積み立てたお金で、クジを引いて当たった数人が、その年の代表として富士山に登って、皆さんの分の御札を買って帰ってくることもあったと言われています。

山本:
お伊勢参りみたいなものでしょうかね?

大高:
そうですね。お伊勢参りも伊勢神宮を信仰する講の一つだと思うので、その富士山バージョンですね。

山本:
それは江戸の町でどれぐらいの人気があったのでしょう? 講の数はわかるのですか?

大高:
全部の講は数えられないのですが、当時江戸の町が非常に栄えていたときに、「八百八町(はっぴゃくやちょう)ある」って言われていて。よく時代劇で聞きますよね? 江戸の町が栄えていたという表現ですが、「八百八町に八百八講(はっぴゃくやこう)あり」。全部の町に必ず一つは富士講があったと言われているぐらい大流行していたと言われています。

山本:
人気ですね!
富士山にはどういう行程で、何をしに行ったんでしょう?

大高:
当時、江戸から富士山に登って帰ってくるまでだいたい1週間ぐらいかけて行っていました。

石丸:
そうか、歩いて行くんだ。

大高:
はい。途中馬を使ったりもしますが。
山頂に向かってお願いをしに行くのですが、今は「御来光を見るため、8合目・9合目ぐらいで宿泊をして、夜行登山で夜に出発して、暗いうちに頂上に着いて、朝日がのぼるのを見て帰る」という形が基本だと思いますが、昔も同じように、夜行登山をするのですが、9合目ぐらいで朝日がのぼってくるところを見て、山頂に着いて、山頂の噴火口に富士山の神様がいると考えられていたものですから、噴火口に向けておさい銭を投げて、お願いをして帰ってくるのが、当時の登山のスタイルでした。

富士山頂噴火口

石丸:
広いお鉢の中にね。

大高:
大きなおさい銭箱のようなイメージなので、毎年たまったお金を拾うのを、山頂を管理する浅間大社や、須走村でも管理をしていまして、仕事の一つになっていました。

山本:
なるほど! 皆さん、どんな格好で行っていたのでしょうか?

大高:
富士講の人たちは「行衣(ぎょうえ)」と言われている白装束を着て、ぞうりを履いてきゃはんをつけて出かけるのですが、過酷な旅で、いつどこで死んでしまっても、だびに付してもらえるように、死装束がもとになっているという言い方もされますが、それを着て出かけるイメージですね。

山本:
ナップサックのようなものは持っていたのですか?

大高:
持っていく一式はいくつか決まっているのですが、なるべく荷物は少なくしたくて、登山者はふもとの宿坊で宿泊をする際、そこですべてのお世話をしてもらうんです。登山をするためのお弁当を用意していただいたりとか。

山本:
今の山小屋のサービスと変わらないですね。

大高:
あとは、山頂は寒いですが、なかなか厚着を家から持ってこられないので、宿坊で「どてら」のようなものを貸していただいたりとか。

石丸:
それを持って登るのですか?

大高:
自分たちで持っていかず、「強力(ごうりき)」という荷物持ちの方がいらっしゃいました。

山本:
シェルパのような方ですか?

大高:
そうですね。強力のあっせんも宿坊でしてくれて。
「金剛杖」という杖を登山者は持っているのですが、その杖を持ち、笠をかぶって、あとは手提げを下げるぐらいです。残りのお弁当やどてらを含めて、強力が全部持ってくれました。

石丸:
何人かの強力が何十キロも背負って?

大高:
基本的には“1グループ1人の”強力です。強力の絵も残っていまして、背中のところにものすごい高さの荷物を担いで登っている絵があります。

石丸:
今の尾瀬の歩荷(ぼっか)さんみたいな。

大高:
今の強力の方、シェルパの方と同じ形ですね。

山本:
今のお話を聞くと、(江戸時代の富士登山は)“システマティック”というか制度として整っていますね。


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【放送】
2023/07/01 「石丸謙二郎の山カフェ」

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