古代の宇宙論~始まりは太陽と月の不思議から

ラジオ深夜便

放送日:2024/01/29

#天文・宇宙#サイエンス

最も古い学問の1つとも言われる天文学の始まりは、人々が太陽や月の動きや形の変化に興味を覚え、観察したことにありました。世界各地で紡がれた古代の宇宙論について、縣秀彦さんにうかがいます。(聞き手・坂田正已ディレクター)

【出演者】
縣:縣秀彦さん(国立天文台天文情報センター)

天からのメッセージ、まずは太陽と月に注目

――今回のテーマは、「古代の宇宙論」です。

縣:
宇宙、天文のお話ですが、天文学というのは最も古い学問の1つとよく言われるんです。数学や音楽と並んで、最も昔から人々が興味や関心を持ってきたのが宇宙です。そしてその宇宙について、空を見上げると天からメッセージがやって来る、それを読み解くのが天文です。遠くいにしえの時代から人々は夜空を見上げて、何かを見つけようとしてきたんでしょうね。

――地域によって、宇宙の考え方というか、夜空を見上げて見つけようとしたものは、異なっていたんでしょうか。

縣:
見えるものはどこでもほぼ同じですから、天の文を読み解こうという天文のアプローチのしかたは、似たところがあると思うんです。でも興味深いのは、いにしえの昔、古代と呼ばれている時代に、私たちの祖先は、さまざまな場所でさまざまな宇宙の姿を考えていたということです。

特に有名なのは、古代文明発祥の地でしょうね。古代文明といえば、中国・インド・メソポタミア・エジプトでしょうか。それぞれ独自に天文学が発展したんです。共通して言えることは、まず、空を見上げて一番わかりやすいのは太陽ですよね。昼間は太陽が見えていて、動きますものね。朝、日が昇り、夕方には沈んでいく。規則正しくて何か法則性がありそうだということで、太陽の動きに注目する。それから、夜だとまず気がつくのは月じゃないでしょうか。

――そうですよね、まず月ですね。

縣:
毎日形が変わるのが興味深いですよね。ですから月の満ち欠けの観察もしたと思うんです。そして星はあまりにも多いので、それぞれの人々がそれぞれに、星座、明るい星と星をむすんで何かの形を考案してきたということでしょう。

――やはり太陽と月は、古代から特別な存在だったんですね。

縣:
そうだと思います。太陽というのは、見たくても見られませんよね、まぶしすぎて。目を痛めてしまいますからね。この太陽の動きを観察するには、どうしたらいいでしょう。

――何かで太陽の影を測る?

縣:
そのとおりですよね。太陽はまぶしいですけれども、その光によってできる影は太陽の動きに合わせて反対側にできますから、影を測れば太陽の動きを記録できます。これが日時計ですよね。

と言っても、最初は地面に対して垂直に棒を1本立てたんです。そうすると棒の影ができますよね。この初期の日時計、1本の棒によって影の位置を示す道具は、「ノーモン」と呼ばれています。

国立天文台にある日時計のノーモン(岡村定矩氏撮影)

縣:
このノーモンを使って、すでに5,000年ほど前に1年間の影の長さの変化を測っていたようです。それはどこかと言いますと、古代メソポタミアです。古代メソポタミアの遺跡がいくつかありますが、発掘された粘土板に、1年間の影の長さの変化を記録しているものが多数見つかっているんです。中国も早いんですよ。古代中国、2,500年前には、日時計が使われていたという記録が見つかっています。古代インドも2,000年以上前から日時計が使われていました。

――日本では、日時計はいつごろから使われていたんですか。何か記録はあるんですか。

縣:
日本には日時計の古い記録がないんです。ただ、立てば自分の体が日時計になりますよね、自分の影を見ればいいので。それで時間がどれくらいたったのかを知ったり、ノーモンを立てて使った時代というのは、記録がないとはいえ、日本でも大昔からやっていた行為だろうなとは思います。

手に負えない不思議を神話に委ねた時代

縣:
太陽の動きは規則的なので、何かと便利ですよね。

――そうですね。

縣:
昼間は、太陽の動きで時刻の変化を知った。つまり時計代わりになるわけです。カレンダー代わりにもなりますよね。太陽は朝、東の空に昇って、北半球にいる私たちからしますと、四季を通じて太陽は南の空を通り、夕方には西の空に沈みます。これを見て、われわれの祖先は「なんでだろう」と不思議に思ったでしょうね。当時は地球の自転とかわかりませんし、地球が丸いなんて全然イメージできていないですね。

――そうですよね。

縣:
どういうふうに考えたらそういう動きをするのか、と。古代、まだ混とんとした時代の話です。人間も科学的なアプローチで物事を考えるところに至っていませんので、自分の力の及ばないものは、神様の存在であるとか、神様の仕業とか神様の考えでこうしているんだろうというのが、だいたいどこの文明でも基本的な考え方になっていたようです。

例えば古代エジプト。5,000年ほど前ですから、われわれ人類は思考的にはまだよちよちしています。どう考えたかというと、天空の神様がいて、それは女性の神なんです。

――女神?

縣:
はい。その天空の神様が、上から男の神、大地の神の上に覆いかぶさっているというのが私たちのこの世界だ、と。ところが、この2人の交わりを邪魔する神様がいるんです。

――ほう。

縣:
これが大気の神様ですが、この大気の神様が天空の神様と大地の神様の間に入って、無理やり交わりを引きはがしてしまった。当時は天も地も一緒でしたから、このために天と地が分かれたという神話があります。そうすると、太陽も月も神様なんです。この天空の女神を「ヌト」というんですけど、そのヌトが、夕方になると西の空で太陽の神様を飲み込んじゃうんです。

――へぇ~。

縣:
ヌトという大きな女性の神様は天空で私たちの世の中を覆っているわけですけれど、毎朝、東のほうで太陽をはき出します。これは月もそうで、ですから太陽も月も、ヌトという天空の女性の神様の上を移動するんです。太陽の場合は昼間、この神様の上を、船に乗って東から西に毎日移動していると想像したわけです。

今考えると陳腐な感じがするかもしれませんが、見た現象に何か理屈をつけようとすると、こういうふうに神様に預けてしまうのが一番みんなが納得しやすかったのかもしれません。ただこのような想像的な神話の世界、宇宙観では、なかなか天文学という学問は発達しなかったでしょうね。

――そうですね、学問としてはね。

古代エジプト、シリウス観測で1年=365.2422日

縣:
ここまでは5,000年ほど前の話でしたが、同じ古代エジプトでも紀元前2,000年ごろになりますと、太陽暦、太陽の動きを記録してそれを暦として使うようになりました。エジプトで最初に使われた太陽暦、太陽の動きから1年間を決める暦は、1年を365日としていました。ただし、うるう年がありますよね。

――はい。

縣:
われわれが今使っている暦は、ほぼ4年に1回あります。ということは、実は太陽の暦でいう1年、正確に太陽が同じ位置に戻ってくるのは365日ではなくて、およそ365.2422日。半端な数字がありますから、4年に1回はうるう年を入れて調整することになります。それが実は、古代エジプトの人たちがシリウスを詳しく観測することで、365.2422日という正しい1年と365日の差を見いだしているんです。

――シリウスというのは、冬の大三角を作る星の1つですよね。

縣:
そうです。冬によく見える星座を作る星で1番明るいのがシリウス。これはおおいぬ座のα星です。マイナス1.5等ですから、明るい星に注目するのは自然の理ではあるんです。

シリウスとシリウスB(撮影 長山省吾)

冬の大三角

縣:
どういうことをしたかと言いますと、エジプトですからナイル川という大河が流れていますね。ナイル川は、当時は毎年、同じ時期に氾濫することが知られていました。この氾濫がいつ起こるかを予測することが、極めて重要でした。

古代エジプトで農耕をしていた人たちは、ナイル川が氾濫しますと、そんなに肥えた土地ではない場所だと思うんですけど、上流から物が運ばれてきますから大地が潤う。水分も十分ですから、氾濫したらタネをまきたいわけです。タネをまくとか苗を植えるのは、いつ氾濫するかがわからないと手遅れになりますよね。ところが古代エジプトの人たちは、シリウスが朝方、日の出直前に見られるときに氾濫が起こることを、経験から知るわけです。

一般的に、太陽が昇るよりも先に星が昇ってくるのを、「ヘリアカルライジング」と呼んでいます。ヘリオス、太陽が昇る前に、明るいシリウスがヘリアカルライジングをする、と。ですから朝早起きをして、毎日、東の空を一生懸命見るわけです。

太陽がまだ昇らなくても明るくなる時間帯、薄明がありますよね。そのときに星がどんどん消えていきますけど、シリウスという星が太陽のすぐ近くにあって、太陽よりも先に上がってくる。それは西側にあるということになりますが、これですと、さっきのノーモンで影を測るよりも精度よく1年の長さを決めることができたんです。365日より余る半端な部分が、シリウスの観測からわかった。これは「シリウス年」という言い方もするんですけど、シリウスという星に注目して観察を熱心にしたというのが、エジプトの大きな特徴です。

交流盛んなメソポタミア、太陰太陽暦や天体暦も

縣:
メソポタミアも、同じように川が流れていますよね。チグリス川とユーフラテス川に挟まれている部分です。川がありますと、交易が始まるという特徴があります。川のところに人々が集まって、欲しいものを手に入れたり余剰にあるものは差し上げたり、多民族が行き来する場所になります。

――そうですね、交流の場ですね。

縣:
交流の場ですよね。5,000年前、さっきの古代エジプトの神話のような宇宙論の世界の時代です。シュメール文明、バビロニア文明、アッシリア文明と、その中心となる民族が次々と変わっていったのがメソポタミア文明の特徴です。やはり、今考えるとよくわからない宇宙論です。

どういう宇宙だったかというと、始めは古く、闇と水があった。闇と水が分離していなくて混じり合った状態だったところに、2つの神様が登場します。神様といってもエジプトのように人格化されていなくて、彼らは神を、形が不明でよくわからない物質として捉えていました。その2つの神が合体することによって、この宇宙が創造された。これがシュメール文明、シュメール人の考えていた宇宙像のようです。

とはいえ紀元前700年前後から、メソポタミアでも科学的な天体観測が盛んになります。アッシリア文明とかアッシリア時代と呼ばれる時代ですが、すでに太陰太陽暦を用いていたことがわかっています。

――こちらは太陰太陽暦ですか。

縣:
はい。太陰太陽暦というのは、この番組でも何回か登場していますが、私たちの感覚でいうと旧暦ですね。月の満ち欠けが毎月の月の単位になっていて、でもそれだとずれてしまいますから、たまにうるう月を入れて、1年の季節の変化になるべく近づけるのが太陰太陽暦です。先ほどのエジプトのように太陽の観察もして1年の長さと季節の変化も理解していましたし、さらに月を毎晩詳しく観測して、月の形の変化を使っていたことがわかります。

紀元前4世紀ごろには、月の動きを掌握する、水星・金星・火星・木星・土星の5つの惑星がいつどこにあるかを予報する、今でいう、いわゆる天体暦をあみ出していたこともわかっています。

――古代の人々は古代の人々なりに、より正確な暦を作ろうとしていたんですね。

縣:
そうですね。でもやっぱり古代のメソポタミアが、一歩先を進んでいたことがわかります。さまざまな文明が、民族が混じるという刺激が大きいんじゃないでしょうか。

中国、インド、マヤ、インカ。それぞれの宇宙観

縣:
古代中国では黄河流域で文明が栄え、紀元前1,300年ごろ、殷の時代の都だと思いますけれど殷墟という場所が有名ですが、そこから出土した動物の骨とかカメの甲羅に、暦に関する内容、月食が起こったという記録があるのがわかっています。中国でも紀元前1,000年以前に、暦に関する研究が進んでいたということです。古代中国でも、宇宙は始め混とんとした形のないものであったのが、分離をして天と大地を造ったという考え方をしていたようです。

一方、古代インド、こちらはインダス文明ですよね。もしかしたらリスナーの皆さん、古代インドの宇宙像、宇宙観といいますと、世界は大きな半球の形をしていて、その中心に神の住む山があって、その半分の球が巨大なゾウの上に乗っていて、そのゾウはカメの上に乗っていて、カメはさらにヘビの上に乗っているという、そんなイメージのイラストを見たことがあるんじゃないでしょうか。

――あります。

縣:
ありますか?

――ええ。

縣:
実はこれは、どうも古代インドの皆さんが考えていた一般的な宇宙像ではないことがわかってきました。

――そうなんですか?

縣:
はい。正しくは……「正しい」といっても、さまざまな時代、さまざまな人たちがいますから「みんなが」という意味ではないんですけれども、最も一般的な古代インドにおける宇宙の姿というのは、世界の中心に巨大な山がそびえていて、平らな地面は、上にある天と下にある地獄に挟まれている。これが宇宙のイメージなんだそうです。高い山は、ヒンドゥー教ではメール山、仏教では須弥山(しゅみせん)、これが世界の真ん中にあるという考え方のようです。

ここまでお話ししてきた4大文明の他にも、興味深い古代の天文学、宇宙観、宇宙像が、世界各地の古き時代に存在していたようです。

――例えば?

縣:
メキシコには、紀元前1,500年ごろからマヤ文明というのがあったようですね。今でも巨大なピラミッド型の神殿などが遺跡で残っていて有名ですが、紀元300年ぐらいになりますと、メソポタミアや中国に匹敵するような高度な暦と天体観測技術を持っていたようです。マヤ文明といいますと、特に金星ですよね。金星の精密な暦を作ったのもマヤ文明です。

――そうなんですか。

縣:
それからペルーのインカ帝国でも、古代には太陽観測所を建設して熱心に太陽観測を行っていたようです。

日本独自の最初の暦は江戸時代の貞享暦

――世界のお話をうかがってきましたが、古代の日本はどうだったんですか。

縣:
日本で本格的に天文が始まったのは、ずっと時代が近づいて6~7世紀ごろと思われています。このころ中国起源の暦、中国は太陰太陽暦ですけれど、これが朝鮮半島を経由して伝わってきました。

もちろんそれ以前も、各地で独自の星座を作ったり太陽を観察して季節を知ることはあったと思いますが、本格的な観測をして中国やメソポタミアやエジプトのように暦を作るという行為で考えますと、日本の場合はあまり古い記録が残っていなくて、中国から来た暦を使うかたちになります。暦の伝来や、いつから始めたのかは諸説ありまして、正確にはまだわからないところもありますが、われわれが一番頼りになるものとして使うのは、『日本書紀』と『古事記』じゃないでしょうか。

――そうですね。

縣:
『日本書紀』には、欽明天皇15年(西暦554年)に百済から暦に関する博士、暦博士が来日して、そのあと推古天皇の10年(西暦602年)には、百済の有名な観勒(かんろく)という高僧が来日して、このとき伝えたものが日本での暦の始まりです。つまり602年、推古天皇10年が、本格的な天文が日本で始まった年と言えるかもしれません。このころはまだ中国から来た暦を工夫しただけですから、日本独自の天体観測にもとづいて日本独自の暦が作られるのは、江戸幕府の1684年のことになります。

――それは渋川春海の貞享暦ですか?

縣:
そうですね。

――ということは日本独自の暦が誕生してから、ことしで340年ということになりますね。縣さん、今回もありがとうございました。

縣:
ありがとうございました。

貞享暦(縣秀彦著・岡村定矩監修『ビジュアル天文学史』緑書房 より)


【放送】
2024/01/29 「ラジオ深夜便」

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