コーダの私が手話の可能性をひらく

ラジオ深夜便

放送日:2023/01/24

#インタビュー#コミュニケーション#お笑い#ローカル#沖縄県

明日へのことば。今回は「コーダの私が手話の可能性をひらく」と題して、沖縄を拠点に活動するお笑い芸人・大屋(おおや)あゆみさん(38)にお話を伺いました。「コーダ」とは、耳が聞こえない、または聞こえにくい親のもとで育った“耳が聞こえる”子どもたちのことで、Children of Deaf Adultsの英語の頭文字をとって付けられています。去年(2022年)には、コーダの家族の物語を描いた映画がアカデミー賞の3部門を受賞するなど注目されました。コーダは親のコミュニケーションのフォローをつとめることもあり、大屋さんも幼い頃から親のサポートを続けてきたと言います。

大屋さんは、手話通訳の仕事を経験した後、お笑いを通したコミュニケーションに興味を持ち、2018年には、耳が聞こえない人にもお笑いを楽しんでもらいたいと、手話を交えたコメディ劇団を立ちあげました。手話の可能性をひろげようと奮闘する大屋さんのこれまでの体験と思いを伺います。聞き手は沖縄放送局の大谷奈央(おおたに・なお)アナウンサーです。


【出演者】
大屋:大屋あゆみさん(お笑い芸人)

コーダの悩みに翻弄(ほんろう)された日

――大屋さんは、耳が聞こえないご両親のもとで育ったということですが、幼少期の家庭生活について教えてください。

大屋: 私は物心ついたときから手話をするようになったらしいです。両親が言うには、初めて使った言葉、手話が「パパ・ママ」みたいな感じだったらしく、ちゃんと手話っぽい手話をするようになったのが、3歳ぐらいという話を聞きました。そこから私は、そこまで手話を意識せずに言葉として、普通に両親と家族と一緒に、私は兄がいるんですけど、兄も手話ができるので、自然と家庭内では手話で会話をするという感じでしたね。

――自分が手話を使っているということに気がついたのって、どのくらいからですか。

大屋: 結構早い段階で気づいていました。幼稚園の時は手話ソングのようなものをした記憶があって、園の中で、先生が「大屋さんは手話ができるんだよ」と、周りの子ども、同級生の子に言っていて、「じゃあ大屋さんからみんなで手話を習おう」と言った記憶があるので、幼稚園ぐらいはもう、私は手話ができるんだっていう感覚でしたね。

――小さい頃から大屋さんはご両親のサポートをされてきたと伺っています。どのようなサポートをいつごろからされてきましたか。

大屋: そうですね。私の記憶の中では、例えば、歯医者に行ったときに、受付もそうですし、いつも治療したときに痛いところ手あげてとか、そういうのを幼いながらにやっていて。今でも知っているお医者さんなんですが、毎回会うたびに、3歳ぐらいからサポートをやっていたよねという話をされるんですよ。なので、そういった病院関係だったり、市役所に一緒について行ったりとか。あとは電話が1番多いですね。電話が家に入ってきたのが小学2年生ぐらいだったと思うんですが、それまで家に電話がなかったんです。小学2年生か3年生くらいの時に、家にファックス付きの電話が入ってきて、それで両親がファックス以外で、すぐに知り合いや友達、家族、親戚に連絡する時は、用件を私が代わりに電話でやるという、そういうサポートをしていました。

――では、もう常日頃からご両親の隣にいるという感じですか。

大屋: そうですね。買い物とかもそうですね。小さい時は。

――買い物もついていって?

大屋: はい。店員さんに聞きたいこととか、そういうのは。あと逆もありますね。洋服屋さん行った時に、店員さんが「このデザインが何とかです」って、よく話しかけてくるじゃないですか。でも、親は聞こえないので話しかけられていることすらわからず、私がそこで「すいません、ちょっと聞こえないので、何ですか?」みたいな感じで、一緒に通訳しながらという感じでやっていた記憶はあります。

――サポートをしているという自覚はありましたか。

大屋: それがサポートという意識はないです。それが日常当たり前だったので特に。でも今思い返すと、すごく言葉は乱暴ですが、面倒くさいとかそういう時期もやっぱりありました。

――どうして面倒くさいと思われたのですか。

大屋: 毎回頼られるじゃないですか。私自身まだ小さく、子どもだったので、語彙(い)力も追いつかない状態なんですよ。特に市役所関係とかは何を言っているかわからない。大人が何を言っているかわからないのに、少し通訳させられる。だったら大人の皆さんが手話を覚えてやればいいのに、と思う時期もありました。

――サポートをしていることに対して、ご両親は大屋さんに何か言葉はかけられていましたか。

大屋: そうですね、親はいつも感謝していました。ありがとうね、ごめんねって。最後に必ずごめんねって言うんですよ。やっぱり親としても、常にずっと何かさせているという思いはあったのかな、というのはすごく感じます。難しい通訳を私や兄にさせたりしていたことに関しては、申し訳ないっていうことも言ったりしていました。

――ごめんねって言われたときに、どんな風に思いましたか。

大屋: 「いや何が?」という感じですね。「大丈夫、大丈夫」という感じです。

――その時はそんなに?

大屋: はい。まだ子どもだったので、そうですね。

――小学校、中学校って変わっていくと同時に、何か心境の変化とかはありましたか。

大屋: そうですね。思春期、小学校高学年ぐらいになると、子どもたちって正直なので、見たまま、ものまねとかされたりしていたんです。手話をやっている様子をまねされたりとかするのがとても嫌で、親と会話するのを見られたくないとか、そういう気持ちに徐々になっていって。もう最終的には親としゃべるのが面倒くさい、通訳したくない。「学校にも授業参観にも来ていいけど、話しかけないで」と言ったり。

あと、運動会で親子フォークダンスっていうのがあったのですが、親子フォークダンスってリズムじゃないですか、音じゃないですか。音に合わせてダンスするから、だからフォークダンスはできないだろうと思い込んで、親には言わなかったんですよ。親子フォークダンスがあることを。でも周りの子は、ちゃんとお父さんなりお母さんなりと一緒にダンス参加するじゃないですか。担任の先生だけに、「うちの親は耳が聞こえないのでフォークダンスはできません」とだけ言って、親にはフォークダンスがあるっていうことすら伝えずに本番を迎えて、私は学校の先生と一緒に踊ったんですよ。それを見て、聞かなかったのですが、たぶん寂しかったのではないかなと思いますね。「他の父母の方は踊っているのに自分だけ見ている、あれ?」というのはたぶん、私には言わないですけど、寂しかったのではないかなと思いますね。

――周りの生徒さんを見てうらやましいなと思う事もありましたか。

大屋: いっぱいありました。もう本当にいっぱいありました。一番、今でもうらやましいなって思うのは、電話できるという、当たり前に親の声が聞けるっていうのが、すごく子どもの頃からうらやましかったです。家にまず電話がなかったと言いましたが、周りの子たちを見ていると、公衆電話からお母さんに電話かけて「迎えに来て」とか。けっこう公衆電話、すごく憧れていたんですよ。公衆電話でみんなが普通に家族に電話をかけている、というのがすごくうらやましくて。そういうところはすごく、周りの子はいいなぁっていうのは、とても思っていましたね。

――その時、手話に対してどのような捉え方をしていましたか。

大屋: もう手話は面倒くさいと思っていました。もうやりたくない、手話を使うことが恥ずかしいことなんだって思ってしまったんですよ、よくないのですが。どうせ、やっても笑われるし、やっているとこ見られたら笑われるしとか、家の中だけの言葉にしようって思ったと思います。

――人前で手話を見せるのは?

大屋: 嫌でした。とても嫌でした。なので、スーパーとか一緒に買い物に行っても、私から先に「いくらですか?」→(店員)「○○です」→「ああ、いくらいくらいくら...」って言って、親が聞こえないっていうのをバレないように動いていました。

――同じような立場のコーダの方は周りにはいたのですか。

大屋: 小さい時は、親同士が聞こえない家族同士で遊びに行くなど、よくあったんですよ。でもそれって本当に子どものときの話なので、小さい時ってその悩みを、特にそういう話をしたりする年齢でもなかったので。特に思春期ぐらいになってからは、コーダの人との付き合いはなかったですね。

――本当に1人で抱え込むというか、そういう状態が続いたのですかね。

大屋: そうですね。いなかったですね。こうやって言えるような人はいなかったですね。本当に悩んでいても、最終的には飲み込んでいたのだと思います。しょうがないというか、これが自分の道なんだというか。

――信じるというか?

大屋: そうですね。自分はこれという。誰にも特に相談もしなかったですし。「しょうがない」と言ったら諦めに感じますが、でも、これが私だからという、そういうのをひっくるめての自分なので。「利用されている」ではないですが、家族なのでそういう言い方をするのはよくないですが、「やっぱり自分がいないとダメなんだ」みたいな。家族とはまた別の……なんて言うんですかね、家族ではあるけど、家族じゃない何かなのかなとか、言葉ではとても難しいのですが、使われているみたいな、すごくネガティブな気持ちになったことも、とてもありました。

手話を受け入れる

――手話に対する考え方が変わったきっかけを教えてください。

大屋: 中学2年生のときに、家族と一緒に東京かどこかに行ったんですよ。旅行で。そこで、私も少しうろ覚えなんですが、手話喫茶っていう喫茶店に入ったんですね。そこの入り口に「声を出してはいけません、お店のルールです」みたいなことが書かれていて。お母さんと一緒に入ったんですが、店内が静かなんですが、騒がしいんですよ。音としてはとても静かなんですが、みんなすごく手話をやっているんですよ。笑っているんですね。それを見て、すごく温かい気持ちになって。「あ、この場所は自分の居場所に近い空間だな」みたいなのをその時に感じて。

――居場所だなって感じた要素って、どんなところにありましたか。

大屋: それはやっぱり、みんながみんな手話を使っている、みんな笑って冗談を言っている。それも全部、手話なんですよ。だから不思議な空間でした。食器の音しかしないっていう。笑い声はしますよ。はははって言う笑い声とカチャンカチャンっていう音。でもその空間がすごい居心地がいいというか、みんな一緒なんだって。私だけじゃなくて、みんな一緒なんだというのはすごく感じたと思います。手話って、すごく面白いなというのを思って、言語なんだなというのをすごく思ったんですよね。手話イコール言語で、その言語を自然に私も、この周りの人たちと一緒に使うことができるっていうのは、両親がいるからできるんだなというのは、その時に思ったんですよ。だからすごく感謝というか、その気持ちが芽生えて。

――手話のどういうところが楽しい、かっこいいなと思いましたか。

大屋: 手話が恥ずかしいと思っていた時期って、手話は言語なんだっていうのを認識していなくて。理解していなかったから、恥ずかしいと思っていたのですが、手話は言語なんだというのを理解したときに、(私は)日本語も手話もできるんだという感覚に近いのかなというのはありますね。その喫茶店に行って、手話をやっている人たちを見て、自分もそれができるということは、自然に勉強したわけでもないのに、自然に言葉と同じように手が動かせるということを考えた時に、やっぱりこの親でないと、この親のもとに産まれていないとできないことだったんだなと思ったときに、やっぱり親からプレゼントされたというか。私が健常者のもとに産まれた子どもだったら、絶対に今みたいに手話できなかったし、というのを考えたら、やっぱり今の親に「ありがとう」って言う風に思いますね。

――その感情をご両親に伝えたりしましたか。

大屋: いやもうそれは。自分だけに秘めてというか。特に言うことはなかったです。

――それはどうしてですか。

大屋: うーん、恥ずかしいというのがあったんですかね。ただ自分の中で「ああ納得」というか、納得させたと思います。聞こえないってことは不便なことはもちろんいっぱい、今までいっぱいあったのですが、不幸なことはないんですよ。だからお母さんには「不便なことは今も確かにあるけど、自分は幸せ。不幸じゃないよ、幸せだよ」というのは、とても思っています。

――喫茶店での経験からは現在のお仕事につながっていると思いますか。

大屋: つながっているのではないですかね、やっぱり。芸人になってからは、やはり頭の片隅にも心の中にもずっと、入学した時からずっと、いつかはお笑いの中で手話ができるような何かをやりたいなと思って、講師の方にも「私、手話ができるので、いつかはお笑いと手話を融合させたようなものがやりたいんですよね」っていうのを言った記憶もありますし、それはもうずっと変わらないですね。

お笑いで手話の可能性をひらく

――幼少期の経験があって、大屋さんは、よしもと沖縄に所属されることを決意されたのですよね。2018年に手話とコメディを交えた劇団「劇団アラマンダ」を立ち上げて、現在、座長として活動されている。去年の11月には、沖縄で開かれた国民文化祭・全国障害者芸術・文化祭のステージにも出演されたということで、まず劇団アラマンダについて教えてください。

大屋: 劇団アラマンダは、聞こえる人と聞こえない人が一緒に見て楽しめるような手話コメディの舞台となっています。分かりやすく言いますと、新喜劇に手話をのせて、聞こえる人、聞こえない人が同時に楽しめるような舞台を目指して作りました。

劇団アラマンダのみなさん

――そう思った背景はどんなところにありますか。

大屋: 子どもの時にずっと、一緒に家族で見て楽しめる番組が限られていたというので。健常者の方々と比べたら、やはりどうしても映画見るときは、字幕がないので邦画は選ばないですし、洋画中心でどうしても選択するものが限られてくるので。その中で私が芸人っていう職業に就いたのだったら、その聞こえない人、特に両親になんですが、お笑いってこういうものなんだよというか、お笑いを届けたいっていうのが、1番の強い気持ちで立ち上げましたね。

その時のきっかけが、漫才を、通訳の人が代わりに隣で漫才するというイベントがあって。ちょうど100人ぐらいの人たちがいて、とても喜んでくれたんですよ。漫才を隣で通訳するというのは異例な感じかもしれないんですが、でもそれも伝わったんだと、そこで手話でお笑いするというのがすごく喜ばれたという。私の中で「これって、もっといろんなことにチャレンジするべきだな」っていうのと、沖縄のよしもと沖縄新喜劇の座員に一時期ならせてもらったことがあったんですが、そこで海外・台湾公演に一緒に連れて行ってもらった時に、どうやって台湾の人たちに新喜劇を届けられるんだろうってすごく疑問だったんですが、いざやってみると、大きなモニターに意訳がずらっと流れて。また、みんなで一緒にずっこけるとか、バッグたたいてのようなリアクション芸がものすごく台湾でウケたんですよ。そこの経験がヒントになって、その手話のイベントに立たせてもらったときのあの歓声、もういろいろパズルみたいな感じで、自分が今まで経験したこと、考えていたことが1つになった感覚になったんですよ、頭の中で。

新喜劇を海外でやってウケた。言語が違うのに動きでウケた。今、通訳の人をつけて漫才を見てもらって、そこでもウケた。そこから手話の新喜劇って面白そうだなみたいな、すごくそこでひらめいたというか。私がずっと何かお笑いと手話を融合させたようなコンテンツを作りたいなって、入学当初から思っていたことが「これだ」と思ったのが、そのイベントだったんですよ。私は家族に聞こえない人がいる。だからこそ、私しかできないことをやろうってすごく強く思って、この2018年の劇団アラマンダ立ち上げにつながりましたね。

――劇団アラマンダを立ち上げようと思ったことはご両親に伝えましたか。

大屋: 伝えました。びっくりしていました。「どんなことするの?」みたいな。でも一応楽しみにしているよみたいな感じではありました。

――手話と交えるって言ったときに、ご両親はうれしかったのですかね。

大屋: うれしかったと思います。
(劇団立ち上げ前のピン芸人時代に)父親が一度、私のネタをサプライズで見に来た時があったんですよ、ライブ会場に。私、客席を見ていて頭が真っ白になったのを覚えているんですが、お父さんが座っていたんですよ、客席に。後から聞いたらチケットを友達経由でもらって私に内緒で見に来ていたんですよ。でも私、その時って別に手話のネタをやっているわけではないし、普通にしゃべっているだけ。ピン芸人なので1人で。

ライブが終わって家に帰ったら、「意味がわからなかった」って言われたんですよ。「やっぱり娘が出ているのはうれしいけど、意味がわからなかった」って。他の人たちも普通に漫才しているし、しゃべっている姿を見ていても意味がわからないって言われて。ただ娘がいる、それを見に来ただけで、もう面白いとかじゃなくて、意味がわからなかったと言われて。「そうだよな、意味分からないだろうな」って。なので、今回は手話を入れてやるよって言ったから、「すごい、ああ、いい、よかった、よかった」って言ってくれました。

――メンバーは何人でされているんですか。

大屋: 今は私含めて9名ですね。

――具体的にその演目としては、どういう風に手話は絡めていくのですか。

大屋: 新喜劇みたいな感じなので、せりふを言いながらそのせりふと同じ手話をやるという内容です。それをすっと続けていくという、舞台の中で。長尺だと45分から50分ぐらいの劇なのですが、喜劇に手話をのせる、しゃべりながら手話をやるという内容です。

――舞台上では手話以外にも、耳が聞こえない方に対して配慮があるんですよね。

大屋: そうですね。あらすじというか、完全な字幕ではないですが、今どういう場面なのかをモニターに簡潔に出したり、また入場するときに、今新しい人が入ってきたよというのを分からせるために、ライトを上手く使ったりとか。あらすじ書きとか、ネタバレしないようにちゃんと関係性をこういう感じですっていうのを作って、お客様に提供してというような感じで、より内容を、ストーリーを分かってもらうための工夫などはしています。

――舞台上には手話通訳士の方も登壇されるんですよね。

大屋: そうですね。手話通訳士の方のサポートを得て、手話の漏れだとか通じないことがあったらフォローしていただいていたんですが、通訳としてではなくて、同じ演者としてやろうという形で、「今回は太陽の役で立ってもらいます」とか「シーサーの役で立ってもらいます」とか、「ガジュマルの木の役で立ってもらいます」という風に。

――手話を学ばれていて、ゼロからスタートですよね。はじめは基本的な言葉から学んでいくのですか。

大屋: 私以外(の劇団員)は、本当に初心者で何もできない状態で入ってきました。劇団員に最初に伝えたのは自己紹介、自分の名前をまず言えるようにしよう。劇中のせりふは、「このせりふの時はこれだからね」っていうのを教えていくっていう形になりました。なので今のところ、言語として手話をペラペラに話せるという芸人はまだいないんですよ。単語、単語としてそのせりふの中の単語、単語として覚えていっている感じですね、芸人たちは。

――手話を一から学んでいる人たちが劇団の中で公演していくということに、どういう意味があると思いますか。

大屋: やっぱりゼロから手話を始めたっていう彼らのコメディを見て、彼らを通して、手話ってはじめて今からでもできるんだっていう勇気を与えられるんじゃないかなっていうのをすごく思うんですよ。私は正直、この劇団を立ち上げて誘ったときに、どこまでできるかがとても不安だったんですよ。1回目の公演の時もほとんど手話ができなくて、通訳の方がほとんど中心になって劇を回している感じだったんですけど、2回3回と重ねていくうちに、彼らの技術が本当に少しずつ向上していって。また、表情だったり体の動きだったりが本当にどんどん良くなっているのを、私は間近で見ていて感じるので。

――手話が言語であるとおっしゃっていたと思うのですが、それをメンバーの皆さんが実行することによって、どんな意味があると思いますか。

大屋: ずっと今まで手話に関わりがなかったメンバーなので、言語であるというのはやっぱり最初は理解していなかったんですが、話していくうちに稽古とかしていくうちに、私は「手話って言語だから、特に間違いとか恐れずに表現していくことが一番だよ、伝えることが一番だから」っていうのを言っているんですが。その彼らが一生懸命言語として手話をやることによって、もっと子どもたちとかいろんな人に、初心者の自分たちと同じようなゼロの皆さんに、手話を覚えるチャンスというか、そういうのを与えられる機会になるんじゃないかなというのはすごく感じています。

――実際、公演で耳の聞こえない方も多くいらしたりするのですか。

大屋: 来ています、来ています、いつも。

――皆さんどういう反応を示されていますか。

大屋: 手話の拍手は手を広げてパラパラパラとやるんですが、やはり舞台で見ていても、舞台を見ていても、こうやる人がけっこういて。

――ひらひらさせて?

大屋: ひらひらさせて。その時の反応を見ると、「ああうれしい、喜んでくれている」とかいうのは感じますね。

――ご両親は実際に見られて感想とかは言ってくださったりするのですか。

大屋: 毎回、面白かったとか感動したとか。ものすごい母親の笑い声が聞こえた時は一番勝ったって思いますね。舞台で照明がすごくまぶしくて客席が見えない状態だったのですが、お母さんの笑い声がしたんですよ、せりふを私がぼけて何かやった時に、はははははってすごいお母さんの声が聞こえた時に、すごく感動しましたね。涙が出そうでした。「笑っているということは伝わっているんだ」、それが今でもずっと残っていますね、耳に。もうずっと焼き付いていますね、自分の中で。

――リクエストや要望も来たりするのですか。

大屋: あります。通訳がいらなくなるくらい頑張りなさいって、すごく激励してくださいます。「通訳見なくても伝わったよ」って言う方が何人かいまして、それぐらいみんなの表現力がすごく上達してきているので、今後は自分たちだけでできるように、目標にしていこうかなっていうのはあります。

――自分たちでやるっていうのは、なぜそう思ったのですか。

大屋: 通訳の方、もちろんサポートとして入っていただくのはすごくありがたいし、誰一人取りこぼさないようにお客様のことを第一に考えて通訳の方をつけていたのですが、やはり芸人たちの技術だったり、手話の向上を目指したりっていう部分を考えた時に、より自分たちで表現した方がお客様に気持ちが伝わるんじゃないかなっていうのを、すごく最近考えるようになりまして。もちろん通訳の方がいても、お客様に対する感謝の気持ちは変わらないのですが、やはり「自分たちで全部を作り上げてるんだよ」っていうその強い思いが、やっぱり通訳がいない、自分たちだけで作り上げているっていうものの方がいいんじゃないかな、というのをみんなで話し合って考えました。

――そのステップに立つために、課題になっていることってどんなことですか。

大屋: そうですね。やっぱり今までは稽古の時もそうですし、「通訳の人がいるから大丈夫」という心の余裕みたいなのがあったと思うんですよ、私含めメンバーみんな。でも、やっぱりそうだと成長しないなと私ずっと思っていて。通訳の人に頼るのではなくて、自分たちの力で言語を覚えていく。そして見ている皆様に感動を与えられるように、気持ちを伝えていくっていう上では、やっぱり自分たちの力で表現するっていうのはすごく大事なことだと思うので。それがちょっと、今まで少し足りていなかったのかなというのは、座長として見ていて感じたので、今後の課題としてもう一度見つめ直して、誰のために、誰に喜んでもらうためにやるのか。私もまだまだ未熟なんですが、座長として、みんなにそれを一緒に協力してもらえるように努力していかないとな、というのはすごく感じています。

――今後、劇団アラマンダの皆さんが目指す形、教えてください。

大屋: 私はどうしても新喜劇、喜劇に手話をのせたっていうお笑いがやりたくて。やはり新喜劇と言えば大阪に見に行くみたいな感覚で、「劇団アラマンダといえば沖縄にある手話の新喜劇だよね」って言われるぐらい知名度を伸ばしたいなっていうのもありますし、また、沖縄を拠点にしたいっていう気持ちがすごく強いんですね。やはり沖縄出身だし、沖縄が大好きなので。ですが、全国の方に手話のコメディっていうのを見せたいっていうのがあるので、沖縄を拠点に全国に回って公演する日が来ればいいなというのは、すごく感じています。

――最後に、大屋さんが手話を交えたコメディを通して築いていきたい社会ってどんな形ですか。

大屋: 沖縄県が手話言語条例を制定しているのですが、周りを見ても、手話を使えるっていう方はまだまだ少ないなっていうのは、すごく感じているんですね。ここ最近だと、ドラマの影響もありまして、手話に興味を持ってくれている方がすごく増えてきているのはいいことだと思っていますし、私は私の劇団を通じて、少しでも手話が言語なんだっていうのをたくさんの人に理解してもらって、手話が当たり前のように、簡単な手話でもいいので、もう周りが手話であふれるみたいな、世の中になっていけばいいなっていうのは、私の夢でもあります。

大屋あゆみさんが所属する劇団の公演は、来月(2月)に新作を発表予定です。大屋さんは、沖縄県内だけでなく、全国でも公演していきたいと意気込んでいます。

沖縄放送局
大谷奈央アナウンサー


【放送】
2023/01/24 ラジオ深夜便 明日へのことば 「コーダの私が手話の可能性をひらく」

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