【ラジオ深夜便】祖父・かこさとしの背中を追いかけて(後編)

22/08/10まで

ラジオ深夜便

放送日:2022/06/10

#インタビュー#絵本#ライフスタイル#家族

『からすのパンやさん』「だるまちゃんシリーズ」などで知られる国民的な絵本作家・かこさとしさん。
亡くなられた後、去年2021年に発表された童話集『くもとり山のイノシシびょういん 7つのおはなし』は、孫の中島加名さん(28歳)との共著でした。
東京大学大学院生の中島さんは、現在、北海道西興部村で暮らし子どもたちの教育支援などに携わっています。祖父の存在、思いは今の中島さんにどう影響しているのか。そして、中島さんが目指しているものとは?中島加名さんのお話、後半です。(聞き手・村上里和アンカー)


【出演者】
中島:中島加名さん(大学院生・教育支援員)

村の魅力発掘~みんなで楽しくつながりたい!

――お話にも出ていましたが、今、中島さんは北海道の西興部村で生活しています。西興部村は北海道の北部、内陸にある村です。人口がおよそ1000人。小学校が2つ中学校が1つあります。ここで子どもたちの教育支援や地域づくりに2020年の4月から携わっていらっしゃいます。具体的にどんな仕事、どんな生活をされてるんですか。

中島: そうですね。来てからの2年間は教育委員会に籍を置きながら、実際にいる場所は小学校に毎日行っています。アメリカからの外国人児童が2人いて言葉が分からないので彼らの教育サポートをするっていう仕事、そして、ALT、英語のネイティブの先生がいらっしゃってるので先生の通訳だったりもしますし。あとは…う~ん、人が足りないんで、テクノロジー、コロナ以降ICTを使った教育をしようっていう流れになってますんで、そういうのもいろいろやったりとかして。

中島: あとは、去年2021年の夏ぐらいから西興部村の中に教育支援をする施設、簡単な塾みたいなものをつくることもやっていて。そこの現場預かりですかね。実際に中学生に勉強も教えるし。
僕はその施設を教育だけじゃなくて、広い意味での教育、地域の人が何か学べる場所になったりとか、集まっていろんな作戦会議をできる場所だったりとか。あとは単純に食事をすることでも何でもいいですけれども、そういう場所がそもそもあまりなかったのでそういう機能も持たせた施設にしていきたいなと思っていて。
結構いろんなことやっちゃってるんで(笑)。

――お忙しそうですね。

中島: ほんとにね。なおかつ自分の趣味で村の中で自分で企画を立ち上げて。それは、西興部村で作っている食材、例えば、うちは酪農が有名で主要な産業なんですけれども、そこで作っているソフトクリームがあります。でも、西興部で作ってるソフトクリームがその当時あんまり西興部で食べられてなかったんです。キッチンカーでいろんなとこ回って西興部村ソフトクリームを売ってくれる人はいたんですけど、そことあんまり交流がなかったので、来てほしいなと思って呼んだり。
あとは、うちはシカとクマがたくさんいるんですけれど、シカ肉とクマ肉を食べない村民も多くて。そういう人にも知ってもらいたいなと思ってシカ肉やクマ肉を食べるっていうのもそうだし。
あとは西興部村はある意味で歴史的に農業・畑作を諦めた土地みたいなところもあるんですけれど、けれども「いや、畑作できるんだ」って言って頑張って畑やってる農家さんもいるんで。でも、その人の野菜も村民は食べる機会がない。そういうものを集めたりとか。

中島: あと、酪農家さんのとこに来ているベトナムの技能実習生が十数人村にいるんですけれど、酪農家さんはもちろんふだんやり取りはしていますが、それ以外の人って(ベトナムの実習生が)本当にいるかどうかも知らない。彼らがふだんどんな生活してるか、ほとんど分からない。それはあんまりいいことじゃないなって思ったんで。きっと彼らには彼らの生活があるはずなんで、出かけていって「今度イベントやるんでフォーを作ってくれないか」と言って作っていただいたらおいしくて。これおいしいから、ぜひみんなに食べてほしいから作ってほしいと言って。
フォーとかシカ肉クマ肉だったり、ソフトクリームや野菜だったり。そういうものを集めてみんなに食べてもらうっていうイベントをやりました。

あと音楽の企画も。西興部村にはギター工場があって、実は世界的なギターメーカーのボディーを作って、そういう事も全然知られてないけれど音楽にかかわりがある村なんです。西興部村の中にとてもすてきなゲストハウスがあって、そこのゲストハウスのオーナーと新潟市にある古町(ふるまち)っていう地域で活動しているローカルの音楽グループ、アイドルって言ってもいいんですけど、その音楽グループとゲストハウスのオーナーがすごく仲がいいおかげで、コロナの前は、その音楽グループは毎年西興部村にライブをしに来ていたという音楽のつながりもある。
ぼくは東京から西興部村に行きましたけれども、大学時代はずっとブラジル音楽をやっていて、吉祥寺の老舗のレコーディングスタジオにすごくお世話になっていて。そこがコロナでちょっと…電話がかかってきて、「いや~かめちゃん、何かいい仕事ないかな。どこでも行くよ」って。「西興部、北海道の中でも遠いですよ」と言ったんですけど、「どこでも行くから!」って言ってくれて。「じゃあ何か考えましょう」と、ぼくら村の中でいろいろ話をして。
結果的に、その新潟の音楽グループのとてもいい曲があって、ぼくもすごく大好きな曲なんですけれど、その曲を、村に住んでいる作曲家さん…その人の話もすると長くなってしまうんですが(笑)。(その人は)もともと新潟のアイドルグループのファンなんですね。西興部村に毎年その音楽グループが来るんで、じゃあもう村に住んじゃって、そのライブを待ち構えようという不思議な人で。4月からは公園の管理人として半年ぐらい10月ぐらいまで働いて、8月末に音楽グループが来るからライブを見届けて。また10月で公園の管理人の仕事が終わったら東京に戻ってっていう、2拠点生活をしている人がいるんです。

中島: その人は作曲家なんで「そのグループのこの曲をアレンジし直して、村の人が演奏できるようにちょっと楽譜におこしてください」と頼んで。ギター工場の音楽できるやつら、ギター弾いたりとかドラムたたいたりする人がいるんでそういう人たちと、中学校の吹奏楽部の子たちが一緒に演奏できるように、編曲しなおしてくださいって。結果的にギターの人とかいろいろ巻き込んで、役場の人とか村のハンターの女の子にも声をかけて、いろんな人に参加してもらって、ゲストハウスで録音することにしたので。東京からレコーディングスタジオをよんで、機材も全部持って来てもらって、スタジオとしてセッティングして仕込んで。それで1月半ばぐらいに録音をして。
それはまだ声が入ってないんで、ぼくとゲストハウスのオーナーの2人で新潟に行ってアイドルの4人が声を入れるのを見届けて…という企画で(笑)。本当に好きなことばっかりやってるという企画なんですけど。

――食べ物から音楽まで、中島さんがいろんな分野の人たちをつなげてるなって感じました。

中島: 役場の人たちからは、地域を盛り上げてくれとか異業種交流だったり、いろんなことはもちろん言われて。ぼくもそれはそうだと思うんで、それに見合う企画をたくさん考えるんですけれども、本当の根元のところは自分が楽しみたいだけなんで(笑)。自分が楽しくて、なおかつ周りの人も楽しくなって、友達が増えていったらいいなっていう。それだけなんですけれども。

祖父の姿を追って~引きこもっていた自分からの脱却・現場へ!

――そもそもなぜ北海道の西興部村に行かれたのでしょうか。

中島: 自分の流れとしては、大学院生活4年ぐらいやっていてちょっと疲れちゃったなというのもあって。なかなか一人で家に引きこもって考え込むっていう生活は精神衛生上あまりよくなかったんで。あるとき、ずっと東京近郊・神奈川と東京で暮らしていて、それで自分は政治の本とか文化の本とか読んでるんだけど、これでいいのかしらって。「そんなんで日本を分かったつもりになるなよ」って、自分の中で思ってしまって。であれば、どこかに出かけないと分からないことが絶対にあるなと。そういうことを見てからじゃないと言えないことがたくさんあるし。

川崎セツルメント活動(1950年代中頃)

中島: それから、祖父は若い頃にセツルメント活動をやっていて。工場地帯の子どもたちだったりとかそういう子たちを相手に、今で言ったらボランティアですけど、いろいろな場所に連れていったりとか紙芝居見せたりとか。もちろん教育活動もしてたんだと思うんですけれども、そういうことをやっていて。全然それには及ばないですけども、自分が受けてきた、自分が享受してきた教育とは違う教育環境にいる子たちとか、教育環境そのものを見てみたいなと思って。それでたまたま西興部村のお話をいただいたんで。
何だかんだで祖父のあとを追うというのはあるんで、自分の中には。

――かこさんは、戦後自分の友人たちが(戦争で)多く亡くなり自分は「死にはぐれた」と思って沈んでいた気持ちが、セツルメント活動で出会った子どもたちの笑顔によって救われたということを本の中で語っていらっしゃいます。
中島さんは子どもたちと接する環境に飛び込んでみて、何か発見したことや自分の中で変わったことはありますか。

中島: それはたくさんありますね。子どもってあんまり僕にはぴんとこないっていうか…祖父はたぶん子どもっていうところにすごく何か刺さるものがあったんでしょうけど、正直ぼくは、子どもよりも大人かなっていう気がしていて。
それは時代が変わったということももちろんあるでしょうけどね。子どもの貧困がものすごく増えてるし、それって、子どもの問題っていうか大人の問題というか、社会の問題なんで。ちょっと子どもだけにフォーカスできないなっていうか。

個人的な話になりますけど先日村の人と話をしていて、今「貧困の定義」ってどんどん変わってるんですけれども、単純に1日いくらというお金の問題じゃなくて、人間関係だったり人間関係を踏まえて自分に自信が持てるかどうかという、そこまで含めて貧困の定義が最近はなされてると思うんですが、そんな話を村の人としていて。その村の人が、「その基準に照らしちゃうと私も貧困だな」っていうふうに言われたんです。それを打ち明けてもらったときに、これはどうにかしなきゃいけないなということを思って。

なので、もちろん子どもも大事ですけど、その地域で生きてる人だったりとか、これはこの地域に限ったことじゃないと思うんで、もうちょっと大きなところに取り組んでいかないといけないなと僕は思っていて。
もちろんかこさとしの考えていたことは非常に大きいので、子どもだけ相手にしていたわけではないし、子どもを通して何かを考えてたってことがあるんで、結果的に同じかもしれないけれども。何ていうんでしょうかね…フィルターの置き場所がぼくの場合は子どもに限らないような気がしますね。

人は一人じゃ生きられない

――中島さんは西興部で過ごすことによって、自分の価値観のどんなところにどんな変化がありましたか。

中島: それもたくさんあって、ひと言じゃ言えないんですけど…例えば外国人の子どもたちを通して痛感させられたのは、一人じゃ生きていけないっていう事ですね。男の子は何ていうんですかね、心が全然安定してなかったんです、(兄妹)2人ともなんですけど。ぼくが来たのは、彼らが半年間村で過ごしてから、ぼくがサポートで入るようになったんですけれども、すごく何ていうんですかね…アップセットなフラストレーションが(あって)すぐにかんしゃくを起こしちゃって、すぐ感情がコントロールできなくなっちゃうような子たちだったんです。

だけど、ぼくが入って半年くらいで、ぼくの力ではなくて、ぼくは彼らと日本人の子どもたちの間を取り持つじゃないですけども、彼らが安心して友達をつくれるようにするのが自分の仕事だと思ったんで。まず自分が彼らの友達になろうと思ったし、僕が彼らの友達になることで日本人の子どもたちもそういうふうに彼らと友達になればいいんだということも示さなきゃいけないなと思ったし。そうしていくうちに半年ぐらいたって、本当に見違えるように全然感情が暴発することがなくなって、友達もできたしすごく穏やかになったんですよね。だからやっぱり、本当に何ていうか…一人じゃ生きていけないんだな、ということを彼らを通して学んだし。

中島: 何だか最近は、「家族のあり方」とかを自分の中で考えなきゃいけないなと思っていて。ぼくは相変わらず古典的な家族像にとらわれているんで(笑)。やってることに自分の価値観が追いつけないなっていうところもあるんですけど、自分1人で食事をすることがほぼなくなってしまって。大抵毎日誰か村の人が来て、「ごはん作ったよ」とか「クッキー焼いてきたよ」とかって言って来てくれて。ぼくはもう夜は野菜しか食べたくないんで。グラタンとかちょっとえ~って感じなんですけど(笑)。まあ、ありがとうございますって言ってグラタン食べるとすごいおいしいんですけど。
そういうふうにして、人と一緒に生活をすることとか食卓を囲むこととか、そういうのが面白くなってきて。はやりの言葉で言うと「シェア」ってことになるんだと思うんですけど。何かを共有すること、自分の中では全くこれまで考えてきたものではなくて、ずっと1人で研究もするし、ごはんも食べるしって感じだったんですが、いろんな部分で価値観が変わりましたね。そういうふうにそれまでの自分が壊れていって、新しい自分が立ち上がってくるのがすごく面白いですね。

絵本の可能性~人と人がつながるために

――まさしく今変化中だと思うんですが28歳の中島加名さんのこれからの目標、将来の夢っていうのはどんなことでしょうか。

中島: うーんまあ…行き当たりばったりで生きてるんで、あんまり未来のこととか考えてないんですけど。
でも絵の練習はしたいですよね。練習あるのみですからね。

――してますか?

中島: してないです。はっはっはっは。

――でもきっと西興部村で過ごして、絵は描けてないけど、次に描いた時に絵が変わっているかもしれないですね。

中島: それはずっと自分の中で考えていて、どう描くかももちろん大事で技術もとても大事ですけれども、何を描くかがやっぱり大事なんだろうなと思っていて。祖父はたくさん勉強してた人だったんで、だからこそ描けたものがたくさんあるんだろうなと思っていて。そっちの方を鍛えていかないとすごく何か中身のないものになっちゃうなと思っていて。だからぼくも全然祖父には追い付かないですけれども、これからももっとたくさん勉強しなきゃいけないし、ぼくはそういうのが好きなのでやりたいなと思ってます。

――(祖父で絵本作家の)かこさとしさんのように、絵本を作ったり本を作ったりという仕事に将来的にかかわるということも考えていらっしゃるんでしょうか。

中島: そんな才能があるわけでもないし努力をしてるわけじゃないんで、言うことすらおこがましいですけれども。
でも、絵本って面白い媒体だなと思っていて。話が面白ければいいとか、絵がうまければいいってことじゃなくて、例えば誰かと一緒に物語を読む、読み聞かせをするでもいいし、お休みの前に一緒に読むでも何でもいいですけれども、それはすごく大事なものだなと思っていて。1人で本を読むとか1人で漫画を読むっていうんじゃなく、てコミュニケーションのきっかけになるっていうのがすごく面白いなって思って。

例えばお母さんが子どもに(絵本を読む)っていうことももちろんそうですけれども、お母さんじゃない人が子どもではない人にコミュニケーションを取るためのきっかけに絵本を使うとかね。ぼくは家族になることとか家族っていうものが当たり前のことじゃないだろうなと思っていて。ぼくの家族は今のところ両親、自分の妻はいないし子どももいないんですけども。家族はきっと当たり前ではなくて、子どもを産んだから家族になれるわけでもないし、結婚したから妻と夫の関係になれるわけでもないような気がするんですよね。
だからその関係をつくるために、きっかけとして絵本がうまく機能するんじゃないかなと思っていて。うまく親になれてない人が親になろうとするときに絵本を使うとか。誰かとコミュニケーションを取りたい時にこの絵本を一緒に読んでみようとか…っていうところで機能するのが絵本かなと思っていて。それはすごくすばらしいことだなと思っていますね。

じいじ山の頂ははるか遠く!

――最後に自分の思いや歩んでいく道が、祖父かこさとしさんとつながってるなっていうふうに感じるところはどんなところでしょうか。

中島: つながってるっていうか、つなげちゃってるんで(笑)。
あの人がやったから自分もやってみようってこともあるし。でもこれからは、あの人がやってなかったからやってみようってことをやりたいなと思っていて。ぼくは彼とは違う人間なので、ぼくの向かう先に、ぼくの好きなものがあるし、時代も違うし環境も違うんで。彼がやれていなかったことをやっていかないと意味がないなと思ってますね。

――かこさとしさんの存在を何かに例えるとしたら、どんなものになるんでしょうか。

中島: うーん、ずっと思ってるんですけど、例えじゃないですけど…ほんと聖人みたいな人だと思っていて(笑)。 聖人、聖なる人ですけど、一般の人が使う聖人とは違う…何ていうのかな…もう人間の到達地点みたいなところ(笑)。

なんでそう思うかというと、 あの人やっぱり異常だなって思うのは、全然異常じゃなかったところが異常だなと思ってて。よく天才は人格が破綻してるとか、奇行が多いとか、ありがちな天才像としてあるかもしれないんですけど、そういうものから全く離れた、ものすごくまともな人でしたね。とても真面目だったしとても丁寧だったしとても優しかった人で、人格の破綻が1つもない。
けど、成し遂げていることはちょっと普通じゃない。そういうところがぼくにとってすごく魅力があって、かっこいいなと思うんです。自分も人格を陶冶(とうや)しながら、それで到達できる業績だったりとか、ものづくりだったりとか…それじゃないと意味がないっていうんですかね。めちゃくちゃ面白いもん作ってるけどあいつやばいやつだよね、みたいなことはあまり言われたくないっていうか。
とっても丁寧な人で親切な人の上で、すごくすばらしいものをつくっているよねっていう。そこしか目指す価値がないと思ってるんで。それはやっぱりそのモデルとして(祖父が)間近にいたので、そういうふうになりたいなと自分は思います。

――本当に高いところにある到達点ですね。

中島:
うーん、「じいじ山」なんでしょうね。

前編「じいじ山登攀記」はこちら

――これからそのじいじ山を目指して、中島さんのご活躍本当に楽しみにしています。どうもありがとうございました。

中島: こちらこそありがとうございました。お呼びいただいてありがたいことでした(笑)。

【放送】
2022/06/10 ラジオ深夜便 「人生のみちしるべ」 中島加名さん(大学院生・教育支援員)


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