絵本作家・長野ヒデ子さん「コドモの力を信じターイ!」前編

21/08/11まで

ラジオ深夜便

放送日:2021/06/11

#インタビュー#絵本#ライフスタイル#家族

26年続く「せとうちたいこさん」シリーズなどがある絵本作家の長野ヒデ子さんは、昭和16年、愛媛県今治市生まれです。デビューして45年。子育てや文庫活動、出会った人々との交流の中から、耕すようにして代表作を生み出してきました。創作の背景を伺います。(聞き手・村上里和アンカー)

【出演者】
長野:長野ヒデ子さん(絵本作家)

ラジオ体操、そしてあいさつ

――長野さんは今、鎌倉市でご主人と暮らしていて、一日の始まりにはラジオ体操をしていらっしゃるそうですね。

長野: すぐ裏山が公園で、そこにご近所の人がなんとなく集まってラジオ体操をしています。平均年齢が高いんですけど、夏休みになるとちょっと下がるの。

――子どもたちも来るのですか。

長野: はい。うれしいことに晴れた日にはそこから富士山が見えるんですよ。見えると、ごほうびをもらったみたい。

――ふだんはどんなスケジュールで過ごされているのですか。

長野: ラジオ体操から帰ると、アトリエの草花や虫を見たり、水をやったり。観察っていうんじゃないけど、家の周りのいろいろな動植物にあいさつをしますね。

こんなことがありました。近くの幼稚園から「池を修復工事するのにモリアオガエルの卵の行き場がないから、長野さんの家の水槽にもらってくれない?」って言われて、たくさんかえったんです。ところがオタマジャクシになると、すぐヘビがやって来るのね。水音がするからびっくりして見たら、ヘビが水槽の中でオタマジャクシを食べてるんですよ。もう、びっくりしました。家に誰もいなくて「どうしよう……」と思って、焼き肉とかキャンプのときに使う火箸があるでしょ。あれでつかむしかないと思って、それでヘビをつかんで、その辺に置いたらまた入ってくるからと思って、それを持って走って走って、木のあいだにぽーんと投げたんですけど、観光客の人が「ヘビを持って走ってるおばあさんがいる!」って(笑)。もう、怖かったー。

たいこさん、富士山へ

――絵本を描く時間というのは?

長野: 「この次何を描こう」とかいうのがあんまりなくて、日常生活の中で琴線に触れるようなことがあったら、「これ、絵本にしてみたいな」と思ったりするんですよ。だから行き当たりばったりみたいな感じ。ラジオ体操で富士山を見て、「ああ、富士山、たいこさんに登らせてみようかな」とか、そういうふうにね。

――絵本の「せとうちたいこさん」シリーズは本当に長く愛されていて、26年ですか。

長野: そうなんですよ。ほんと、うれしい。

――子どもたちにも大人気で、翻訳されて海外でも出版されていますね。このシリーズの最新刊が、せとうちたいこさんが富士山に登る、富士山と友達になるというお話なんですよね。
せとうちたいこさんは、なんでもやってみたい「タイのお母さん」で、尾びれで立って、胸のところのひれでバッグを持って帽子もかぶって、「デパートいきたい。えんそくいきたい。ふじさんのぼりたい」と、いろんなことに挑戦します。でもちょっと怖くなったり失敗したりすると、「いやー! もう かえりたーい」と言って……。

「やっぱり うみが いちばん いいわ」
ターイ ターイの たいこさん。
「ずーっと ずーっと うみにいたーい」

長野: そうそう、よく覚えてらっしゃる(笑)。それでおうちに帰っておとなしくしてるのかなと思ったら、またしばらくするとトコトコあっちこっちに行っちゃって、失敗ばっかりしてまた帰ってくるという、そんなお母さんなんですよ。

――せとうちたいこさんは、「長野さん」、ではないかと。

長野: 私は瀬戸内生まれだからタイを食べて育ったし、魚にはなじみがあります。今、子どもたち、お肉が大好きで魚にあんまり目を向けてくれないじゃないですか。もっともっと魚に興味を持ってもらいたいということがあって、魚を主人公に作ってみたいなと思ったんですよ。それから「たい」って、「◯◯したーい」っていう、希望にもつながるじゃない?

――「タイのたいこさん」という、歌も生まれていますね。長野ヒデ子さんが詞を書いて、中川ひろたかさんが曲をつけて、なんと歌っているのは、長野さんご本人です!

♬ 「タイのたいこさん」

長野: これね、替え歌もできるの。最後の「♪デパートいきタイ」を、「♪図書館いきタイ 図書館いきタイ 楽しい本を読みタイな♪」とか、いろんな行きたい場所にすると楽しいの。

本が地域とつないでくれた

――長野さんの生まれ故郷は愛媛県越智郡富田村。今は今治市になっていますね。

長野: 瀬戸内のそばなので、海に行くと瀬戸内海の島々がいっぱい見えるじゃないですか。真っ白な砂の織田ヶ浜っていう浜がありました。

――長野さんのエッセーに、子どものころは海を見ながらぼーっと過ごすだけで不思議とうれしい、というふうにあります。どんなことを考えている少女だったんですか。

長野: 学校行くのにカバンを忘れたり、宿題も忘れたり、本当に忘れ物が多くて落ちこぼれの勉強のできない子でした。小学3年生のとき、学校に行かない日があったの。レントゲン撮ったら影があって、一学期全部学校を休んだんです。そうすると余計に、ぼーっとなにかを眺めて想像するのがくせになったのね。
例えば今ここにペットボトルがあるでしょう? 「これはどうしてここに来たんだろう」とか思ったら、「こうしてこうやって、そしてこうしてここに来たんだ」とか、いろんな物語があるじゃないですか。物語を紡ぐくせがそこでついたっていう感じね。

――長野さんが絵本を買うようになったのは大人になってからだそうですね。

長野: 子どものときはね、自然はいっぱいあったけど学校に図書室がないし、本屋さんも1軒もなかったんです。母の実家に行くと1軒だけ本屋さんがあって、帰るときにおじいちゃんが1冊本を買ってくれるという感じでね。だから子どものときはあまり本なんて出会えなかった。

――絵本を買うようになったのはどんなきっかけがあったんですか。

長野: やっぱり絵がきれいだし、ひらがなで書いてあったりして読みやすいじゃないですか。子どもも読める言葉で書いてあって、子どもから大人までのものなんですよね。だからすごくひかれて、そのころ日本も岩波書店とか福音館書店とかから絵本がたくさん出始めた時期だったから、もううれしくて、買ってたのね。

――1960年代くらいですね。

長野: 買った本がだんだんたまって、結婚するときに嫁入り道具はないんだけど本があったの。それで転勤族だったから、本を持って引っ越ししました。

知らない人が越してくると、「あそこの家、子どもがいるかな?」とか、近所の子どもたちがすぐのぞきに来るじゃないですか。子どもがいないとなると「おやつ、くれるかな?」とかね。「ねえねえ、うちに本があるから、上がって読んでっていいよ」なんて言うと、初めのうちはおとなしくしてたのにそのうち上がり込んできて、だんだん子どもと親しくなる。街に買い物なんか行ってその子とお母さんに会ったりすると、「あのおばちゃんの家で本読んだんだよ」とかいろいろ言って、お母さんが「へえー、そんなことあったの」なんて。

そうしてご近所の人たちとも親しくなったの。本があるおかげで親しくなれた。本は人と人とをつなぐ大きな力があるものなんだなあと、すごく思いました。いろんなところに転勤して引っ越したけど、本があったおかげで、地域地域でお友達ができて、本当によかったです。

家庭文庫の不思議な力

――長野さんは結婚するまで生まれ育った場所にいらして、転勤族と結婚したので今治市を出て、鹿児島に、そのあと長崎でご長男が生まれて、熊本でご長女が生まれて、引っ越した回数は10回を超えるそうですね。

長野: 13回です。そのたびに本のおかげでいろんな人と友達になれました。私は「文庫」のおばさんにすごく憧れてて、「文庫やりたいなあ」って思ってました。

――文庫活動というのは、当時、石井桃子さんとかいろんな方がされてたんですよね。

長野: 石井桃子さん、すばらしい方です。それから長崎源之助先生、岩崎京子先生……本当に憧れで、本当に尊敬してました。私が引っ越した大宰府にも文庫が10個近くあったんです。そのころは図書館がないからみんな家庭文庫で読んでて、華やかでした。文庫に本を置いておくだけで、子どもが遊びに来るだけで、子どもになにかするとかいうんじゃなくて子どもに育てられてる感じ。

――地域のつながりが強かった時代の風景が思い浮かびます。

長野:
今は図書館が充実して誰でも自由に子どもたちが行けるけど、図書館にはないものがあったんですよね。そこに行くと、本も読むけどそれだけじゃない。なにかこういい空気が流れてて、子どもが安心できる場所というか、不思議な力がやっぱりあったですよね。

誰かが本を手渡してくれて、「あ、それ、おばちゃんも読んでおもしろかったけど、こんな本をもう読めるの?」とかいう会話とか、読んだ本を大事そうに手渡してくれるだけでなにも言わないんだけど、その子がすごくよかったと思ってるのが伝わってきたりするじゃないですか。渡し方一つでそういうのがわかるのは、やっぱり文庫のおもしろさだったのかもしれませんね。

本に浮力をつけてくれた人

――そのあと長野さんは絵本作家になっていくんですよね。文庫のおばさん、お母さんだった長野さんが、昭和51年(1976)に、『とうさんかあさん』で絵本作家デビューされます。もともとは子どもたちに作った手作り絵本だったそうですね。

長野: 「手作り絵本」というと、みなさん、きれいに製本されたものをイメージされるけど、そういうのでは全くないんです。ケーキとかパンを焼いてあげるようなとってもいいお母さんみたいに思われるかもしれないけど、私、すごいいい加減で、広告の紙の裏とかカレンダーの裏の白いのをホチキスでぱちぱちっと留めて落書きしてたら、子どもが「お母さん、なに書いてくれるんだろう」って、よだれ垂らして見てるんですよね。それでじゃあ「ちょっとお話を」って、でたらめなんですけど「このページ書いたら次のページね」とかいう感じで子どものリクエストのまま書いてみたりして、そんなものをただ留めただけのいいかげんなものなんですよ。

そしたら九州の出版社で今は石風社っていうところの福元満治さんが、私のやっていた文庫にたまたま来られて、それを見て「おもしろいから本にしたい」と言われたんです。「私がお金を出すんじゃないから、まあ、いいかな」とか思っちゃって、それで出してもらったら賞をもらったのね。

――『とうさんかあさん』で、第1回日本の絵本賞の文部大臣奨励賞を受賞されたんですよね。

長野: 福元満治さんという方に出会ったのが、すごく大きな力になりましたね。作家がいて絵描きがいても本はできないんですよ。どんな編集者に出会うかで本のできあがりは全然違うんです。すばらしい編集者というのは、ああしなさいこうしなさいとかは一切言わないんだけど、持っているものを出してくれる、っていうのかな。目に見えない、本に“浮力”をつけてくれる。そういうすてきな編集者の福元さんに出会ったんですよ。たくさんのことを学ばせてもらって、本当によかったなと思います。

間違いも失敗もみな「出会い」

――この本は1976年に出ていますから、45年になりますね。

長野: 私ね、どうしてこの本がいいのかわからなくて。どうしてこんなにずっと読み継がれているんだろう、って。『はらぺこあおむし』を訳された森久保仙太郎(森比左志)さん、松谷みよ子さん、安野光雅さんとかがその賞の選考委員だったんですけど、森久保さんが98歳のときに日本児童文学者協会で講演なさるというので、絶対にそれを聞きに行って、そのことを聞いてみようと思ったんですよ。

森久保さんは『とうさんかあさん』のことを覚えててくださって、「どうしてこの本がいいのか、私、わからないんです」って言ったら、「子どものどんなくだらない質問も、子どもをバカにしないで対等に向き合うこと。それが子どもの本を作るときに一番なくてはならないもので、それがこの本の中にはちゃんとあります」って言われたんです。大人には経験や知識がいっぱいあるじゃないですか、子どもよりは。それを全部なくして、「お互いに人と人、人間と人間として向き合って伝え合う、話し合う。それがないと子どもの本にはなりません」と言われたんです。

――どうして長野さんにはそれが自然にできたんでしょう。

長野: 嫌なことも間違ったことも失敗したことも、「まあ、出会いだから」と思ってみんな受け入れる、じゃないけど、「これも私だから」と思うんですよ。そうするとそこからなにか、いろんな不思議なことがあるんです。

【放送】
2021/06/11 ラジオ深夜便 「人生の道しるべ コドモの力を信じターイ!」 長野ヒデ子さん(絵本作家)


<絵本作家・長野ヒデ子さん「コドモの力を信じターイ!」後編>へ

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