命に“線引き”は必要ない ②

22/03/31まで

ラジオ深夜便

放送日:2022/02/11

#インタビュー#家族#子育て#映画・ドラマ

常に手厚いケアが必要な状態の帆花さんを自宅で育てていくことを決意した西村理佐さん。医療的ケア児との暮らしは初めてのことばかりで、理佐さんは身も心も消耗していきます。
中でも理佐さんを苦しめたのは、誰もが自分でも気付かぬうちに行っている無理解に基づく“線引き”でした。障害のある子であっても、みんなと変わりのない存在であることを知ってほしい――というのが理佐さんの願いです。(聞き手・村上里和アンカー)


【出演者】
西村:西村理佐さん(医療的ケア児・帆花(ほのか)さんの母)

何もかもが初めての在宅ケア

――そして、「家族一緒に暮らしたい」というふうに理佐さんは思うようになって、帆花さんが生後9か月から在宅生活が始まりますが、家に帰って帆花さんと一緒に暮らすという決意を実現させるために、そして、またそれを続けていくために、思っていた以上に厳しい状況が待っていた、と聞いています。

西村: 「生まれたときからこれほど重症な子がうちに帰る」という事例がまだそんなにない時代でしたので、何をするにも「前例がないから」と言われてしまったんです。

西村理佐さん

西村: 何よりもいちばん必要だった障害者手帳というものを交付していただかなければいけなかったんですが、それはふつう障害がある程度固定しなければ交付されないものなんです。
生まれて生後何か月だと、「このあと障害がどういうふうになっていくか、まだ見通しが立たないから、出せません」と言われるんです。

「帆花の場合は厳しい宣告を生まれたときに受けていますので、このあと障害がよくなっていくということはありえないじゃないですか」という、そんなにつらいことを交渉するときに私も言わなければいけなかったんです。
手帳がどうしても必要なので、そういうふうに説明をして、なんとか生後4か月のときに取得したんです。ずいぶん早く頑張って取ったなと自分でも思いました。

――在宅スタート時は、週に3回、1回1.5時間のヘルパーの利用ということだったそうですが、24時間のケアが必要ですから、理佐さんはずっと日中帆花さんと過ごして、そして秀勝さんが帰宅してからバトンタッチしてごはんをつくって、そして家族で食べて、理佐さんが先に3~4時間寝て、そして秀勝さんは夜中の2時ぐらいにバトンタッチして、そこから朝まで寝て…お2人とも毎日3~4時間の睡眠で頑張っていらっしゃったんですよね。

西村: 交替はそんな感じでやっていたんですけれど、私は主人とバトンタッチして寝室に行っても結局(帆花の様子が)気になってしまって全然眠れなくて。
せっかく寝ていい時間を確保してもらっているのに、隣の部屋からアラームが聞こえてくると、「帆花は大丈夫かな?」、「主人はちゃんとやっているかな?」、「何があったかな?」と常にスイッチがオフできない状態になってしまって、ほとんど眠れてはいなかったですね。

――それで、疲労のために倒れてしまって入院されたと。

西村: はい。帆花を検査入院させるというタイミングがありましたので、そのタイミングで私も休養のために入院した…という感じでした。

――(帆花さんが)小学校2年生の秋にも、理佐さんは入院されています。在宅を始めて7年がたった頃で、このときは2週間入院されたそうですね。

西村: そのときがどんなときだったかというと、帆花は小学校2年生なので、小学校生活にも慣れてずいぶん楽しく充実した生活を送れるようになって、体力もつきましたし、体も著しく成長して丈夫になったんですね。
その頃には帆花が元気に過ごすために必要なケアがきちんとできるようになりまして、私もやっとホッとしたんですね。それで力尽きたといいますか。
本当はそんなことで力尽きちゃいけなかったんですけれど、限界が来たということですね。

帆花が8歳のときですから、8年間私はベッドで熟睡したということがなくて、気力だけでやってきたという感じだったので、そこで力尽きて2週間入院することになったんです。

「その間、帆花をどうするか?」という大問題がありました。
「帆花が元気に過ごせるようになった」といま申しましたけれど、付きっきりで、マンツーマンで細かいケアをして、やっと元気に過ごせる状態だったんです。
細かなケアというのは、どこかに預けたとしても、やっていただくというのは人員的な問題で難しいですし、日頃見ている人でないと難しいケアもありますので、預けるということが難しい状況だったんですね。

ではどうしたかといったら、主人が1か月間仕事をお休みするというふうにしてくれました。あとは在宅のチームの方たちにも助けていただいて、私の不在の間、帆花は自宅でなんとか過ごすことができました。

それで、私も「自分1人で抱えている分量が多すぎた」ということに初めて気が付きました。
私がいなくても帆花が元気に過ごせたということも自信になって、少しずつヘルパーさんたちにも担っていただく分量を多くしていこうということでやっていきました。

――いまは、夜にもヘルパーさん来てもらって、理佐さんも週に3日は寝室で眠れるようになったということですね。

西村: やっとスイッチをオフにするということができるようになりました。やっと「眠い」という人間らしい感覚が戻ってきましたので、週3日ヘルパーさんが来てくれているときは寝室で爆睡しています。

――それでなんとか体調は保てていますか?

西村: 人並みというところまでの睡眠時間ではないですけれど、前よりはだいぶ楽になったという感じですね。

意図せぬ“線引き”が傷を生む

――肉体的には厳しい状況がこの14年間続いてきて、理佐さんが最もこの14年間頑張って乗り越えてきたものというのはどんなことだったんでしょうか?

西村: 先ほど私が2週間入院したと申しましたけれど、そのあとぐらいですね。
「ヘルパーさんを増やしていかなくては」ということで、常に探してはいましたけれど、なかなか担い手が増えないということが続いていました。

それから、私はずっと帆花との生活をつづったブログをやっていたんですけれど、その頃帆花や私たち家族に対してのひぼう中傷というのがひどくなっていたこともありました。
どんな内容かといいますと、「機械をつけて無理やり子どもを生かしている」、「脳死に近い状態であるんだったら、臓器を提供しろ」とか。
あるいは、「帆花がこういうふうに意思を表してくれているよ」というようなことをブログに書くと、「そんなウソみたいなことを書くな」とか、そういったつらいことを言われたりもしていました。
自分の体が元気なときは、そんなことを言われても軽く笑って受け流すということもできたかもしれないんですけれど、そういうことができなくなっていたということもあります。

西村: 自分がひぼう中傷を受けているときに大きなことだったのは、やまゆり事件(神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で起きた障害者殺傷事件)ですね。
障害者施設に入所している方の中で、意思疎通ができないという方たちがたくさん亡くなったという事件がありました。

――2016年に起きた事件ですね。

西村: いちばん先に思ったのは「こういう事件がついに起きてしまったか」というショックでしたけれど、もっとショックだと思ったことは、あの事件の世の中の受け止め方でした。

障害があって施設に入っている人たちが殺された事件でしたけれど、「障害者という、『自分たちとは違うところにいる人たち』が殺された事件だ」、「自分たちとは関係ないところの人たちが殺された」というような、外部化するというか、“線引き”をしているような見方。
多くの人がそういう見方をしているんじゃないかと強く感じて、ショックだったんです。

世の中の多くの人が、差別や悪意ではないとは思うんですけれど、「自分たちとはあまり関係のないことだ」と“線引き”している。善意の人たちの中にある“線引き”が度を超すと、差別になっていくんじゃないか。
そういうことを思った事件だったんです。

だけど、“線引き”というのが私の中にないかというと、そうではなくて。
自分たちの暮らしが、帆花のケアを担ってくれる人が増えていかないことで日々つらくなっていて、「この先、私たちはいつまでこのままでやっていけるんだろうか」、「帆花を守り通せるんだろうか」ということを日々考えていると、「もうちょっと帆花より障害が軽い子たちを預かるような施設はどんどん世の中に増えていて、障害が軽い子たちは手助けしてもらえるのに、なんで最重度といわれる帆花は助けてもらえないのか」と、誰かと比べたり、「障害が重い」「軽い」と自分の中で言いだしたり。
本当は、そんなことをするのが自分でもイヤだと思っていたはずなのに、自分の背負うものが多くてつらくなってくると、誰かと比べて、「うちはこうなのに、助けてもらえない」と人のせいにしはじめたり。
そういうことが自分の中にも起きてしまった時期で。

帆花を育てていながら、自分の中にもやっぱりある差別の感情に気付いてしまって、自分の古くからの友人や、帆花が生まれてから助けてくれるようになった人たちともあまり連絡も取ることができなくなってしまって、3年間(心を)閉ざしてしまうような時期がありました。

――どうやって抜け出せたんですか?

西村: 何か決定的なことがあったということではないんですけれど、幸いにして新しいヘルパーさんがそのときに見つかったということがきっかけで、徐々に生活が回りだしていったことが1つ大きくありました。
事態が動くと、不思議なもので、考え方が変わるんですよね。
世の中に対して絶望したと思っていましたけれど、「急に世の中が激変して悪くなったわけではなくて、自分が世の中を信頼できなくなっていただけだったんだ」と気が付きました。

「命があること自体がすばらしいんだ」

――理佐さんがどうしてそういう考え方ができるのかというのを知りたいなと思うんですが、理佐さん自身が子どもの頃というのはどんなお子さんだったんでしょうか?

西村: いまもそうですけれど、内面に目が行くような子どもではありました。
本を読んだり、「生きるって、どういうことなのかな?」と考える、内向的な…。

――「生きるということは、どんなことなのか?」というのを考えていたんですか。

西村: 小さいときからそんなことを考える、ちょっと変わった子ではあったんです。

父が出版社で編集者をしていた関係で、父の本がたくさん家にありました。
哲学の本だったり、精神医学の本だったり、読んでも理解できないのに興味があって、父のところから勝手に引っ張り出して読んだりしていました。

――「生きることとは…」というのを自分が考え始めたときの記憶というのは何か残っていますか?

西村: いちばん最初は――鮮烈に覚えているんですけれど――幼稚園を卒園した春ですね。小学校入学を待っているときの春休みです。

仲のいいお友達のアキちゃんと遊んでいて、公園のトイレに入ったんです。
時代が時代ですから和式のトイレだったんですけれど、用を足してペダルを踏んで水を流して、水がちゃんと流れるかをボーッと見ていたときに、「生きているって、何だろう?」と急に思ったんですね。

――トイレの水が流れるのを見て?

西村: そうです。変な場面なんですけれど。

私自身が小さいとき体が弱い子どもで、入院したり、採血して血を取ったりすることが多くて、いつも自分の体から血を抜かれていくのをじっと見ていたんです。
「自分の体と心って、つながっているのかな?」、「心って、どこにあるのかな?」ということをいつも考えていたんですね。
思春期になってからは、「よりよく生きるというのはどういうことなのか」、「生きている価値って何なのか」ということを考え始めていたんです。

帆花が生まれてからは…。
いままでは、例えば「人の助けになることに価値がある」といったことを考えていましたが、帆花といういのちを授かったときに、「よりよく生きる」といったことではなくて…。

西村: 帆花はよりよく生きるといったって、自分で何かができるわけではないし、何をするにも人の助けが要るわけです。
でも、その姿を見たときに、決して「情けない」、「なんで何もできないんだ」と思うどころか、生きていること、そこにいのちがあるということ自体がすばらしいんだ、ということに気付かされた。
「なんだ、私は『よりよく生きる』なんて逆に偉そうなこと考えていたんじゃないか?」って。

自分が生きている、いまここに自分があることに感謝するということもしないで、「何をしたらよりよく生きられるのかな」みたいな偉そうなことを思っていたけれど、何をするかしないかに価値があるんじゃなくて、いのちがあって、そこにあるということ自体がすばらしくて、それがかけがえのないことなんだということを、帆花に気付かされまして、いままで私が考えてきたことが全部いったん白紙に戻された、ということを経験しました。
最初は「帆花のいのちを私が守らなきゃ」と思っていたけれど、実は逆に守られていたというか、教えられたというか。

私は健康ですし、生活をしていて何かできないということはないから、「自分1人で生きてきた」みたいな感覚を持つようなこともあるかもしれないけれど、実際は全然そういうわけじゃなかった。
いままでも人と人の間で生きてきたことに気付かなかっただけで、帆花に気付かされたということだと思います。

みんな同じ世界に生きている

――理佐さんたちの家族の生活は、帆花さんのケアということだけを見ると、本当に私たちの想像をはるかに超えた大変さがあるんだろうなというふうに思いますが、いま、その生活の中で理佐さんはどんなところに喜びを感じていますか?

西村: うちは毎日小さな感動に満ちあふれています。

例えば、帆花は自分で排便するんです。そのときに、一生懸命力んで顔を真っ赤にして、冷や汗をかきながらするんですけれど、それを見て私たちは「偉いね」、「偉いね」と言います。
何が偉いかといったら、排便することは人の体にとって大事なことで、「生きる」ということにとても忠実に生きているということだと思うんです。

日々ケアに追われている生活ではありますけれど、小さな幸せを――本当はそれが「大きな幸せ」であるはずだと思うんですけれど――感じながら過ごせています。

主人と私がいつも気を付けていることは、親が勝手に帆花のことを決めるというのではなくて、「帆花はどうしたいの?」、「お母さんたちはこういうふうに進めていこうと思うけど、それでも大丈夫?」、「それでイヤだったら言ってね」ということを必ず確認すること。
いま帆花の周りにいて支援してくださる方たちも、同じようにいつも「ほのちゃん、これで大丈夫?」と必ず声をかけてくれる。
そうやって、人と人として尊重し合いながら、お互いの意思を確認しながら、大事にやってきているんです。

――理佐さんのきょうのお話を聞いていて思ったのは、社会を構成する1人である私というのは、どんなことをしていったら理佐さんたちも過ごしやすくなる社会をつくっていけるのかということです。理佐さん、どう感じていらっしゃいますか?

西村: 先ほども申しましたけれど、知らないということが、“線引き”をするということにつながると思うんですね。私が帆花のような子のことを皆さんに知ってほしいと思うのは、そこに理由があります。
「知らないから、分からなかった」、「知らないから勝手に解釈していた」ということが多いだけで、帆花がふつうに家族で生きているということを知っていただければ、「うちと全然変わらない家族だ」、「ふつうの子どもだ」、「1人の中学生だ」と思っていただけるんじゃないか、ということがあります。

たくさんの手助けが必要な子であることから、「差別しちゃいけない」、「この子やお母さんの気を悪くしちゃいけない」、「だから、こんなことは聞けない」といったことを皆さんは思ってくださるようなのですが、だからこそ知る機会がないというようなことが往々にしてあるんです。


私たちには聞かれたくないことは別にないですし、ふつうの子育てをしているんです。ただ、「こういうときは手助けが必要なので」ということだけなんです。

当たり前のことですけれど、“線引き”をしないで、皆さんと同じ世界に生きている、同じところで暮らしている。
本当にふつうのことなんだけれど、それがふつうに行かないということが、いま起きているだけかと思います。

――知ってもらうというためにも、ドキュメンタリー映画『帆花』がこれから全国で上映されていくということは、すごく大切なことですね。

西村: 知っていただきたいのは、帆花が生きているということ。
ことばはしゃべらないですけれど、あの子から発する何か、存在。あの子が生きているという事実をあの子が言うということがいちばん大事だと思うんです。
「映画を撮らせてくれ」と言ってくれた國友監督との出会いがあって、それが実現したかなと思っています。

――これからの理佐さんのいちばんの願いというのは何でしょうか?

西村: すばらしいことを言えたらいいですけれど…。
いちばんの願いは、私と主人が帆花のケアを引退して、帆花は自分が選んだ、「この人に助けてほしい」、「この人と生きていきたい」と思える支援者の人に出会って、自分の意思をくみ取ってもらいながら生きていってくれればな、と思います。

――それはどんな気持ちが込められているんでしょうか?

西村: 私がケアを手放して楽をしたいということではなくて、本人も「いつまでも親の手を煩わせたくない」という思いがそろそろ出てくると思うんです。
「お母さん・お父さんに苦労をかけているんじゃないか」、「私のせいで眠れていないんじゃないか」、という気持ちが絶対にあると思うんです。
そういうふうに思ってほしくない。
「別に、私たちはあなたのせいで苦労してないよ」と言ったりもしますけれど、そういうふうに思わせないということが1つ。

あとは、ふつうのお子さんもそうですけれど、自立していきますよね。
帆花はずっと家で暮らしていきたいと思っているから、家にはいるかもしれないけれど、親の手を離れて、自分の思うように、自分の思う人と生きていければいいな、と思っています。

――それが理佐さんの願いなんですね。
理佐さんも、そして秀勝さんも、お体に本当に気を付けて、これからもお過ごしください。

西村: はい。ありがとうございます。

――そして、先ほどからピーピーピーという音もしていましたが、すぐ近くにいる帆花さんに、どうぞよろしくお伝えください。

西村: はい。

――どうもありがとうございました。

西村: ありがとうございます。


【放送】
2022/02/11 ラジオ深夜便 人生のみちしるべ 「娘の“いのち”は明るくあたたかい」 西村理佐さん(医療的ケア児・帆花(ほのか)さんの母)


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