アイヌの心を伝える 古布絵作家・宇梶静江 (前編)

21/03/14まで

ラジオ深夜便

放送日:2021/01/15

#インタビュー#歴史#ライフスタイル

ざっくりいうと

  • 差別に苦しんだ幼少期。23歳、「アイヌ」を封印し東京へ
  • アイヌとして正々堂々と「ウタリたちよ、手をつなごう」
  • 2021/01/15 ラジオ深夜便 人生のみちしるべ「今こそ、アイヌの心を伝えたい」宇梶静江さん(古布絵作家)

アイヌ文化伝承者で古布絵作家の宇梶静江さんは、1933年に北海道浦河町で生まれました。23歳のときに上京し、その後、結婚。二児の母となります。俳優の宇梶剛士さんは息子さんです。
2020年に出版した自伝『大地よ! アイヌの母神、宇梶静江自伝』では、後藤新平賞を受賞。幼少期から差別に苦しんだ姿が描かれています。宇梶さんが、今、アイヌとして伝えたい思いとは。(聞き手・村上里和アンカー)

民族の魂が喜んでくれた 自伝『大地よ!』

――宇梶さんにはずっとお会いしたいと思っておりました。
息子の宇梶剛士さんとは、テレビのインタビュー番組でご一緒したり、<ラジオ深夜便>にもご出演いただいたことがあるんです。お子さんは2人いらっしゃいますが、お孫さんもひ孫さんもいらっしゃるそうですね。

宇梶さん: おかげさまで、孫が4人で、ひ孫は、おなかに入っている子を入れると5人になります。手を広げて走ってきますからね、かわいいです。

――宇梶さんは2021年の3月3日、ひな祭りの日に88歳を迎えられます。お体はお元気でいらっしゃいますか。

宇梶さん: もうボロボロでございます(笑)。今、お医者さんに通っていることはもとよりですけど、ひざが思うようにならなくて、歩行困難ですね。それが大変です、一番。

――宇梶さんは2020年、『大地よ! アイヌの母神、宇梶静江自伝』を出版されました。

『大地よ! アイヌの母神、宇梶静江自伝』 宇梶静江著

宇梶さん: すごい題名ですよね(笑)。

――この本で後藤新平賞を受賞されました。新聞で写真を拝見したんですが、去年(2020年)7月の授賞式では、アイヌ民族の衣装、そしてアイヌ文様が刺しゅうされた鉢巻き、マタンプシですか。それにタマサイという首飾りの正装で出席されていました。とてもすてきでした。民族衣装を着ると、やはり気持ちは変わりますか?

アイヌの民族衣装を着た宇梶静江さん

宇梶さん: やっぱり民族衣装を着させてもらってタマサイっていう首飾りをさげると、先祖のおばあさんが自分に乗り移ってるような、そんな喜びを感じますね。

――この本は442ページ、厚みで言うと3センチもある。本当に大作です。

宇梶さん: 編集の方々の力でこの本ができた。3年かかったわけですね。
見たこともない、聞いたこともないゲラっていうのを持たせてくれるんですけどね。そこに魂が入らないんですよ。それで何回も何回もやって、病気も持ってますしね、頭が揺らいでしまって書けないんです。夜中にね、ちょっと頭が澄むときがあるんです。そのときに字を書いていると、ふと自分の文章が出てきてね。それでまた書きなぐってね。そうすると夜中から書いて、朝6時、7時まで書いているんですね。
3年も見守っていただいて、本というもののすごさ、尊さというものを味わわせていただいて。こんなすごい賞を頂けるなんて、本当に恐れ多いことです。私というより、私を育ててくれた民族の魂が喜んでくれて、これを生かして幸せというものを作っていきましょうねって、そういう賞であったかと思います。ありがたいことです。

――今の北海道浦河町で生まれてから今までのことが語られているんですが、そのあまりの激動の人生に途中でやめられなくなります。この本は、宇梶さんが語りかけてくださっているような文体で書かれていて、私はこの本を読みながら、アイヌの人たちがかつて夜にいろり端で長い物語を語っていたユーカラのようだなと。

宇梶さん: 昔話をするのは季節的に冬なんですよね。冬の夜長に、いろりの所で昔話とかなぞなぞとかいろいろな動物の物語を、シーンとみんな耳を澄まして聞くんです。楽しいから、子どもでもね。
ちょっと遊べるくらい暖かくなると、はだしで畑を駆け回ったり、野原を駆け回ったり。10歳違いの弟とけんかして逃げ回ったり、山を走り回ったり。そういう足の裏の懐かしさを感じますね。

差別に苦しんだ幼少期

――宇梶さんは北海道浦河町の和人(わじん)も一緒に混在する、当時のアイヌの集落で生まれ育ちます。幼少期は大変貧しくて、困窮した生活だったと。

宇梶さん: ずっと貧しいことは(今も)貧しいですね(笑)。

――和人からの差別も子どものころからあったと、本にも描かれています。

宇梶さん: すごいですよ、本当にそれはね。一緒に和人の子どもと交わって成長していくことが全部そがれてというか、ないに等しいほどでした。
日本の社会というのは文字をもってさまざまなことを整理していきますね。私たちは“語る”ということで、文字を持たなかった民族なんですね。その語る民族が一方的に、明治政府によって文化をひっくり返されてしまうわけです。その中で失ったものは生活そのもの。食べ物から仕事から、全部取られてしまった。そういう中で私たちは、この世の中で生きる力というものをそがれていきました。それは毎日、日銭を稼がなきゃならない。それも健康であればです。健康であれば日銭を稼いで家庭を養うことができます。人間は病気をしたり、さまざまなことに陥ってしまうときがありますが、お金や経済で成り立っている和人の社会では、私たちは貧しく落ちていくだけ、命を落としていくだけ。そういうのを見てきているわけ、子どものときに。

――アイヌ民族はもともと狩猟民族で、猟をしてサケを取って自然とともに暮らしていた。それが明治政府によって仕事を奪われ、アイヌ語も奪われました。

宇梶さん: 言葉ですね、大切な。

――言葉を奪われることは文化に直結していますから、そうしたさまざまな歌や踊りもできなくなっていったと。

宇梶さん: ですからね、壊されてしまった。それを大事にしてきた民族がだんだん壊れていく。私はね、7歳上のねえちゃんと4歳上のあんちゃんがいた。私が小学校に行くころは、あんちゃんもねえちゃんも家族の手助けをしてくれる。父も母もそれなりに若かったので、私は幸せだったと思うんです。

16歳の宇梶静江さん、母と(1947年12月)

宇梶さん: だけど、村には何十軒ってアイヌがいますからね。それを見てみると親が亡くなって、お兄ちゃんが出稼ぎに行っている子どももいた。4~5年生くらいの男の子が隙間だらけの家に残されて、冬なんか雪が入ってきたら凍え死んでしまいます。そんな所でまきを燃やして暖炉にあたって、泣きながら独り言を一晩中しゃべっているアイヌの子どもがいたりしました。
それから、病気をしてもお医者さんにかかるお金がなくて、「しかたがない」と言って死んでいった人も。「しかたがない」って諦めの言葉は、嫌っていうほど聞いて育ちました。出稼ぎに行っても食事が貧しかったらしくて、帰ってきて栄養失調から病気になっても医者にかかれないで、若いお兄ちゃん方がろく膜炎(胸膜炎)になって死ぬ。それを聞いて、涙をボロボロこぼしながら生きたもんです。

私たちには仕事があったのに。サケを取ったり、川魚を取ったり、採集したり、野菜を植えたり、川に行けばザリガニがいたり。食べ物はいっぱい神様が与えてくれて、仕事も与えてくれたのに、全部禁止された。アイヌなんか何人死んだっていいみたいな。魚を取ったりするとろう屋に入れられるんです。そういうことで貧しい思いをさせて、「しかたがない」って言葉を出させてしまった。そういう為政者に対して、私は恥じるべきだと思うんですね。
アイヌの80歳のばあさんだから、怒りを言えます。怒りを言わせてください、言えないでいたからね。
じっと我慢して、みんな字も書けない「しかたがない」できたけど。

私はアイヌが嫌いだったの、本当は。どうしてかっていうと、毛深いって差別されるわけ。私もまつげがうっそうとしていました、上まぶたも下まぶたも。なんでいじめられるのかと思ったら、和人の子はまつげが薄いんですね。眉毛も薄いんです。(差別されるのは)それでか! と思って、子どもだからまつげをハサミで切ったんです、鏡を見て。それをねえちゃんが見つけて、「かあちゃん、静江がまつげ切ったわ」って言ってね。かあちゃんは怒るかと思ったら、黙ってた。子どもが傷ついたんだなって思ってた。傷ついたことは何回もありましたね。それを親が耐えて、子どもの痛みを耐えてくれたっていうかね。そういう傷つけられたことはたくさんあります。増水した川に落とされそうになったり、もうめちゃくちゃでした。そうするとね、アイヌ同士で結婚するとまた同じようにいじめられるって、子ども心に思ってしまうの。だから避けあう。勘違いして、アイヌは和人と一緒になったら毛深い子じゃなくなるとかね。私もそう勘違いしてた。その勘違いで、アイヌを嫌いになった。

――「アイヌが嫌い」というのは、自分を否定するようでつらいことですね。

宇梶さん: そりゃそうですよ。アイヌの文様がありますね。あんなのがあるからアイヌが差別されるとかね。アイヌの装束を入れる柳で編んだ大きな行李(こうり)っていうのがあったの。それにいっぱいアイヌの道具がありました。それを全部なくしちゃった、私が。でも母は諦めていたのか、あまり怒らなかったですけど、たくさんの財産をなくしました。それほどアイヌの物があることが、自分の心に刺さっていたんですね。

アイヌを封印、東京へ

――宇梶さんは中学に行かずに、ご両親を助けるためにずっと働いていらっしゃいました。でも、20歳で札幌の中学校に進学されて、3年間かけて23歳で卒業されます。そのあと上京し、東京で仕事をしながら暮らし始めます。

宇梶静江さん 19歳のころ

宇梶さん: 卒業したときには、親も入退院を繰り返しているうちにだんだん貧しくなっていくしね。札幌はね、アイヌを仕事で使ってくれるところが一つもなかった。同級生のご両親たちもすごく面倒をみてくれて探してくれたけど、アイヌを店員にするところも何もなくて。そのうちに同じ学校を出た同胞の上級生が東京に大学受験に行って、東京を行ったり来たりしていた。旧姓が浦川っていうんですけど、「浦川さんも東京にいかない?」って言われて、渡りに船っていうかね。それで父を説得しました。父はまた入院してるにもかかわらず、どこからか当時のお金2万円を借りてきて私に持たせてくれて。それで23歳の3月17日に東京にたどりつきました。

――東京に23歳で行って、そのあと27歳で結婚して、出産してお母さんにもなりますが、その時代というのはまだアイヌを否定して、アイヌを封印していた時代だったんですか。

宇梶さん: それはそうです。東京まで来て「自分がアイヌ」っていうことは言えないというか、そういうものでした、私は。見る人はアイヌだろうと思うでしょうけれども、自分の口から「アイヌ」なんて。苦しいものです、「自分がアイヌ」と言うことは。それほど差別っていうのは恐ろしいものですよ。

『ウタリたちよ、手をつなごう』~「東京ウタリ会」設立

――そうやってアイヌを封印して和人の建築家の男性と結婚して、お子さんも生まれました。そのあと、宇梶さんはある日、自分の中のアイヌを正々堂々と出して生きることを決めて、ある行動をされます。1972年、宇梶さんが38歳のときです。朝日新聞の家庭欄に「ウタリたちよ、手をつなごう」という、アイヌ同胞への呼びかけの文書を投稿した。一部ご紹介します。

『ウタリたちよ、手をつなごう』

 私達は、現在東京に住む北海道出身のアイヌ系の者ですが、たぶん多くの私達のようなアイヌ系の方々が、この東京に散在していらっしゃるのではないかと思います。私達種族は、父母のもと、北海道の大自然のなかにありましたが、他面実にさまざまな差別のもとに苦しんでまいりました。いまだに就職や結婚問題などで、数えればきりがありません。
 差別は、私達アイヌ系に限られるものではないでしょう。形こそ違いますが、身の回りをとりまいている実に多くの差別があります。しかしもう一度、アイヌが種族の違い、つまりアイヌだからだということで独特の差別をされたのは何であったかを見つめられるのなら、その差別されたことによる苦しみの真の原因をとらえられるのではないか、それには同胞との親ぼくを深めあい、共に語りあえるならば、と望みを託して筆をとりました。(中略)
ウタリの皆さん、私達はあなたとの「語り合い」を望みます。どうぞご連絡下さい。

宇梶静江

――こういう文章を新聞に投稿して。どんな思いで、どんな変化があったんですか。

宇梶さん: 心を火にしなければできなかった。心を火だるまにしないとできなかった。そのことで社会も動いてくれましたけれども、身内に対する自分の配慮がものすごく欠如していたということ。あとで反省しても取り戻しがつかない。そういうことの連続ですね。

――この新聞の投稿によって宇梶さんの所にはたくさんの助けを求めるアイヌの方たちがやってきて、仕事を見つけようとしたり、生活保護の手続きを一緒にしてあげようとしたり。それに駆けずり回っていて、ご主人や息子さん、娘さんのことがほっぽり出しになっていたということなんですね。

宇梶さん: (「東京ウタリ会」で)アイヌ問題をやってからは、自分がどこにいて何をしているか分からないような精神状態に陥ってしまってね。一番何がつらいって、あの何十年ものつらさは、もう耐えられないほどつらい…。私の望んでることと同胞に呼び掛けてつながっていることが、なかなかしっくりいかない。それで独りよがりだと思われたりとか、まとまらないというか。そうやってるうちに5年、10年、20年とたっていくんですね、もう大変でした。「あんたがやったんだから」「責任持てないくせにやって」「何にも分からなかったくせにやって」って。分からなかったからやったんですけれども。

――なぜ、火だるまになろうって、決心できたんですか。

宇梶さん: 自分を吹っ切りたかったんじゃないかな。お前は何やってんだって。本当にお前は差別される人なのかって。自分が思い込んでるために、何も踏み込んでいけないじゃないか。でも、中学に行ったのは踏み込んだよね。それは踏み込んだとあとで分かるんだけど、そういう勇気が足りないってことが悔しかった。自分に負けてるっていうことが悔しいし。
それから私は「カムイ」が好き、神様って言葉が大好き。アイヌであろうが和人であろうが。戦争中に神社に神様がいると言われて、神社の前を通ると必ずおじぎして通る。和人の神様でもアイヌの神様でも大好きだったんですね、なんでか分からないけど。神様しか頼れなかったのかもしれませんね。それだから勇気を出したかった。「私はアイヌです。なにが悪いんですか。文化もありますよ」って。そこまで思ったかどうかは分からないですけど、勇気を出したんです。

<後編>へ続く

この記事をシェアする