震災とラジオ① 生島ヒロシ「リスナーの声に押されて」

21/05/09まで

ラジオ深夜便

放送日:2021/03/12

#東日本大震災#インタビュー#コミュニケーション#SNS

東日本大震災から10年。当時、ラジオの話し手は何を感じたのか。そして10年が経過した現在、ラジオというメディアについてどのように考えているのか。
最初にお話を伺ったのは、フリーアナウンサーの生島ヒロシさんです。10年前、生島さんは仕事で来ていた仙台市で地震に遭いました。そして生島さんのふるさとの宮城県気仙沼市も大きな被害を受けました。生島さんに、震災に遭った当日3月11日の様子から語っていただきました。

肉親と故郷を同時に失う

生島さん: あの日は午後2時から講演が近くのホテルでありまして、佳境に入った2時46分に揺れに揺れた。
会場にいらっしゃった地元の皆さんは全員セミナーテーブルの下に隠れて、私は「アナウンサーは死ぬまでマイクを離しません!」と言ってしゃべり続けていたんですが、後ろから鉄の黒いオブジェが倒れてきて、危うく頭にぶつかりそうになった。それで「皆さん、隠れてください! 私はしゃべり続けます」と言ったんですが、そのうち停電になってしまって、マイクは全然使えなくなりましたし、会場も真っ暗になりました。
そのまま「きょうはいったん終わりにして、お帰りいただいて…」ということに。「お帰りいただいて…」って、「そのまま自分たちでどうぞ」という状況だったものですから、皆さん右往左往していらっしゃったんです。
僕とマネージャーが仙台駅まで行ったら、いつもタクシーがたくさん待っているところが人・人・人で埋まっている。駅の構内から全員出されていた。

僕らは翌日の土曜日にまた仕事があったので、1時間か1時間半ぐらいかけて、なんとかやっとタクシーに乗れました。ガソリンがもたない、燃料がもたないということで5台乗り継いで戻ったんです。
途中郡山に着いて乗り換えたタクシーで映像を見せてもらったら、ちょうど気仙沼が…NHKのテレビに気仙沼が映りました。魚市場の辺りからすごい火事。煙も出るわ、火の粉がすごいわで、「うわあ…」と。

うちの妹の家はそこからそんなに離れていないところだったので、「これはどうかな…」というあのときのショック、いまだにそのときの映像は覚えています。
実は、うちの母親が2011年2月2日に85歳で他界しました。その遺骨を妹夫婦の家に預けていたんです。「それを持って、お兄ちゃんの家に土曜日のお昼過ぎに行きますからね」というのが、うちのカミさんに連絡が入った。僕にもメールがあって、今もそのメールは残しているんです。
すごく心配で何回も電話したんですが、連絡が取れず。そのうち携帯電話もつながらなくなってしまった。

僕は超ポジティブですから、楽観主義なので「大丈夫だ」と思いながらも、「さすがに今回は難しいかな」と思いつつも連絡し続けた。友達も何人もいるんですが、そちらも連絡が取れずに、不安な思いを抱きながら東京に15~16時間かけて戻りました。
テレビをつけたら、それがまた…「こんなになっていたのか!」というぐらいどんどん状況がわかってきまして。それから僕は生きた心地がしなかった。
土曜日の朝に(東京に)着いて、その日の仕事がキャンセルになって、土曜・日曜はほとんどテレビを見ていましたかね。

月曜日の朝5時から生放送があるんです。スタッフや先輩アナウンサーが「しばらくは休んだほうがいいんじゃないか?」「妹さんたちの消息がわかるまで、休んだらどうだ?」と声をかけてくださったんですけれど、僕は…今もそうですけれど、休みがゼロ。朝のラジオは、遅刻は2回ありますけれど。
それで、「とにかく休むことはできません」ということで、頑張って生放送に向かったんですが…さすがに、あとから聞いてみると、お通夜のような声。

自分の妹夫婦、しかもおふくろの遺骨も持ってくる予定でしたから。土曜日の夜も日曜日の夜もあまり眠れず、ほとんど寝てない状態で朝の番組に臨みました。
そのときにリスナーからのメールが、今まで来たことがないぐらいすごい数に及びました。「きょうのつらい気持ちはわかるけれど、またなんとか声を振り絞って、こういう状況だから、日本を元気にしてほしい」と。これは感動しましたね。メールを紹介する中で涙が出てきた。
と同時に、放送が終わってから1枚1枚メールを読む中で――時には僕、眠そうな声で放送しているときもあったんですが――「(生島さんの声で)皆さんが朝一番の元気をもらって、つらいことがあっても生島さんの元気な声に励まされて乗り切っているんだから、つらいでしょうけれど、妹さん夫婦も見つかりますように。生島さんも元気になりますように」というようなのを多数いただきました。その声に押されたといいますか。
改めてそのときに…リスナーの皆さんは、時には厳しいですが、非常に温かい。姿は見えませんけれど、皆様の声に支えられた。

結局6か月後に正式に遺体が発見されて、DNA鑑定を行って妹のものだとわかったんです。でも、その間リスナーの皆さんの温かいサポートがあったから頑張れた。
ラジオを通じて発信するパーソナリティと、そしてリスナーの熱い、人間味あふれる関係が続いているんだな、ということをまさに実感・体感しましたね。

ラジオは「生活メディア」

生島さん: 僕も、なんだかんだで七転八倒しながら古希を迎えました。
どんな人にも、口に出せること・出せないこと、いろいろと両方あるでしょうけれど、まさかまさかのいろんな経験・体験がたくさんおありになって、糸を織るように、人生のいろんな面を経験されながら皆さん生きていらっしゃるんじゃないかな。
人生の喜びというのは、喜怒哀楽の数だけ、楽しみや人生の豊かさが重なっていくと思うんですよ。多くの方が喜怒哀楽、全部が順風満帆に右肩上がり、というのはありえません。つらいときや、落ち込んでどん底になったときに、支えてくださるご家族だったり仲間がいる。
僕の場合は、全国のリスナーの皆さんが背中を押してくださった。そういう部分でありがたいなと思います。

長く生きていれば、みんな、つらいことが山ほどありますよ。うちの妹は、当たり前のように朝が来て、その日は久しぶりに娘や息子にも会いに、「お兄ちゃんたちにも会いに行くよ」と東京に来るのを楽しみにしていたのが一転、震災みたいな形で、とんでもない別の世界に行ってしまったわけですよね。
ですから、当たり前のように「あしたが来る」ということは、もう1回考え直そうと思っています。
震災以降は、改めて生きていることの大切さ、そして1日1日を大切にする、しっかり生きていくことを今一番願って暮らしていますね。

――生島さんは、去年地元からいつもの<おはよう一直線>を生放送されて、また1年たったわけです。この時代に、ラジオで話す、語るという役割をどんなふうに感じていらっしゃいますか?

生島さん: 僕は、アナウンサーのスタートはラジオだったので、今もこうやってラジオの現場にいられるのは本当にありがたいと思っております。
そして、ラジオメディア。最近はそれこそクラブハウスとか、新しい声のツイッターみたいなのが出てきたり、SNS全盛時代です。

いろんな媒体があるんですけれど、例えばメールやLINEなど便利なツールはありますが、文字だけだと冷たい感じにとられることもありますけれど、声を聞くことによって…クラブハウスという新しいツールも、コロナで誰とも話せないような状況の中で、「誰かと話したい」という思いが強くなって、今何百万人と世界でも広がっているようです。
声や音だけでコミュニケーションをとる。人間の感情、体調なんかも声で結構わかりますよね。ホットメディアというのは、こういう時代だからこそ僕は大切にしたい。

テレビだと、バラエティーのお笑いの方が元気で頑張っていますので、テレビは「ハレ」の部分で元気だけど、ラジオは「生活メディア」というか。自分の悲しみも苦しみも悩みも喜びも全部、メールそして声で話し合えたり、お互いの痛みを癒やし合える部分もあるような気がするんですよね。
だからこそ、今なおのこと、コロナ禍でなかなか思うような生活ができない中で、ラジオの仕事に就かせていただいているのは、ホッとできる、「みんな、肩の力を抜いていこうよ」という「みんなのリビングルーム」といいますか。時には台所のところで立ちながら、食べながら、飲みながら…そういう生活感覚いっぱいのメディアだと思いますので、ぜひともこの媒体を皆さんにもっともっと活用していただきたい。
僕はラジオを通じて…せっかく朝の早い時間をいただいていますので、これから始まる1日の元気の源、そして「きょう1日、この情報だけ押さえておけば安心だよ」という情報をできるだけお伝えする。それが自分の役割かなと思っています。

【放送】
2021/03/12 震災10年 東北発ラジオ深夜便 「ラジオのことば ~ラジオの話し手が語る10年」


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