今回の「サイコロ回顧録」は、しのぶさんが本格的にお仕事に復帰した「1991年」。
ちっちゃい子どもがいて、働きに出ることに後ろめたさを感じてしまう……。このころ、しのぶさんは悩みながら、女優の仕事と子育ての両立をしていたそうです。
大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”
毎週水曜日 R1・ラジオ第1 午後9時05分~9時55分
今回の「サイコロ回顧録」は、しのぶさんが本格的にお仕事に復帰した「1991年」。
ちっちゃい子どもがいて、働きに出ることに後ろめたさを感じてしまう……。このころ、しのぶさんは悩みながら、女優の仕事と子育ての両立をしていたそうです。
大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”
毎週水曜日 R1・ラジオ第1 午後9時05分~9時55分
2023年は、私のデビュー作のドラマ『ボクは女学生』の放送開始から50年という節目の年。その節目を迎えるにあたって、これまでの活動を振り返りつつ、お世話になったみなさんに感謝を伝えていこうというのがこのコーナー。今、スタジオには年代別に私の出演作などをまとめたリストと、サイコロが2つ用意されています。
サイコロは、1つが、私がデビューした1970年代の“197”から2020年代の“202”までの数字が書かれた六面体、もう1つが、0から9までの数字が書かれた十面体。この2つのサイコロを振って、出た目の年代の作品について振り返っていきます。
前回はドラマ『霧の旗』が放送された1983年と、産休していた1989年でした。
それに続く今回は何年が出るのか、早速サイコロを振って、その年について振り返っていきたいと思います。
では、サイコロを振ります♪
うふふ(笑)。2025年。
2025年、何やってるかなあ。舞台は何本かはやってるだろうけど、そんな先のことはわからないさ。
どうなっていたいかなあ。しわが増えていませんように。あはははは(笑)! これ以上もう……止まれぇー!
じゃあ、サイコロを振ります。タララララーン♫ ……えっ?
……1991年。
1991年って何してたんだろう。1991年、34歳、平成3年。えーっ?
はぁ、芸歴19年目、えーっと、ドラマを1、2、3、4、5、6本やって、舞台は『人形の家』と『LOVE LETTERS』をやりました。
ああ。ということは、離婚する1年前ですね。えーっとぉ(笑)! 確かね、結婚して2年ぐらい子育て、っていうか、娘が生まれるんで1989年は休んでたわけですよ。で、本格的に仕事を再開した? 年だったんですね。もうね、1個ずつ全部思い出がありますよ。ほんとに。もう。
テレビドラマは『イカれた主婦の反乱』、『別れてのちの恋歌』、『母性が裁かれる時』、『(松本清張作家活動40年記念)張込み』、『世にも奇妙な物語(秋の特別編『ニュースおじさん』)』、『(木曜ゴールデンドラマ 秋色の女シリーズ2)東京ららばい』っていう……これ、なんか賞取ったんじゃないかなこの作品が(※第29回ギャラクシー賞 奨励賞受賞)。そして、舞台は『人形の家』、『LOVE LETTERS』。
じゃあ、まあ『LOVE LETTERS』について話しますかね。
これは朗読劇で、今でこそ「LOVE LETTERSってああ、あの朗読劇ね」ってみなさん思うんでしょうけど、もう30年以上続いていて、私は30周年記念に出たし、あと20周年記念……つまり、私が一番最初(の出演者)だったんです。一組の男女が幼い頃から手紙を交換して、最後、亡くなるまでの何十年間かを描いた作品で、1990年の第1回が私と役所広司さんだったんですね。で、1991年は役所さんと再演をしました。
私はずっと子育てをしていて、さんまさんとの結婚生活をしていて、だから、そのLOVE LETTERSのリハーサルがほとんどできなくて、ほんとに台本をその場でパーッて読むみたいな感じのスタイルで。
青井陽治さんが演出なさったんですけれども、久しぶりの舞台でドキドキしながら、でもすごい楽しいなやっぱり、お芝居するって楽しいな、って思いながら、母に家に来てもらってですね、息子と娘を預けて、私は出かけて。
で、終わった、よかった大成功で、じゃあみんなでちょっとお茶でも飲みましょうっていうことになって、役所広司さんとご夫人がいらしてて、もちろん演出家さんやスタッフさんもいて、「カンパーイ!」とかして、でも私はひとりじゃないですか。
で、いいな~、夫婦で来てて、って思って。私結婚してるんだけど、子どもたちを預けてるし、早く帰らなくちゃいけないから乾杯だけして、すごい大きな大きな花束を抱えて帰って。
すっごい今でも覚えてる。久しぶりに舞台に出て、「女優さん」っていう仕事をして、ほんとにきれいな花束をもらって。
私は1年半ぐらい「お母さん」を主にやってきて、で、マンションに住んでたんですけども、そのドアの前で、家に帰る、つまりお母さんに戻る瞬間というのが自分の中にあって、あと、プラスさんまさんに対して……なんて言うのかなあ、後ろめたさっていうのかなあ、すごい嫌な言い方なんですけど、後ろめたさだね。
そんなの感じることも今だったらこれっぽっちもないのに、ああ、子どもを置いて働きに行ってしまった、自分の好きな女優の仕事をしてしまった私。ごめんなさい……みたいなのはこれっぽっちも今はないんですけども(笑)。華やかな、ちょっときれいなお洋服を着ている自分を見せないようにオーラを消し、大きな花束を後ろに隠し、ただいまってドアを開けた自分を、今でもはっきりと思い出すことができるんでござんすよ!
で、ただいまぁって言って、ごめんなさい今すぐ着替えます、って手を洗って、花束を置いて、着替えてすぐ母の所に行って「ほんと、ありがとうございました。ごめんなさい」って言ったのがすごい寂しかったの。母は“はい、ほらお母さん帰ってきたわよ”とか、“おめでとう。どうだった?”とか“きょうのテレビよかったよね”とかそういう母ではなかったんですよね。あと、もちろんさんまさんからも“どうだった?”もなかったし。だから働く女、女優っていうところにいる自分と、お母さんでいなければいけないっていう自分といっつも行ったり来たりして、その行ったり来たりが始まった1991年でございました。
そこから少しずつ、私は女優っていう仕事をするんだ、女優っていう仕事が自分の生きる喜びでもあるんだ、っていう確信を持てたんで、子育てと両立しながらやってきていましたけれども、ちっちゃい子どもがいて仕事をするっていうことに後ろめたさを感じ始めたのが1991年でしたね。
『人形の家』っていう、久しぶりの舞台をやったときもすごい稽古で、でも子どもが熱出したりするじゃないですか。娘かな、熱出して2日ぐらい入院しちゃったときがあって、でも私は稽古に行かなくちゃいけなくて、それがすっごいつらかったですね。どうして入院してるときでさえそばにいられないのか、みたいな雰囲気がその2人から来て(笑)、私自身もそばにいたいしっていうのはあって、でも、ね、働くっていうことはそういうことだし、仕事を持つってことはそういうことだしって、そういう両立がスタートした1991年でした。
でもまあ、そこで彼もだんだん……彼ってさんまさんもだんだん仕事をする私を理解してくれて、行ってらっしゃいとか言って、もちろん作品も見に来てくれるようにはなったんですけども、でもやっぱり離婚しましたね。あっははははは(笑)。
という1991年で~ございましたぁ~。あはは(笑)……はあぁ。
【放送】
2023/08/23 「大竹しのぶの“スピーカーズコーナー”」
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