本に関わりのある専門家が「今、おすすめの本」を紹介する「マンスリー・ブックレビュー」。元書店員でエッセイストの新井見枝香さんが選んだのは、女性どうしの人間関係や心理を描いた作品が話題を呼んでいる作家・柚木麻子(ゆずき・あさこ)さんの、『オール・ノット』です。
【出演者】
新井:新井見枝香さん(元書店員、エッセイスト)
――『オール・ノット』は、奨学金で大学へ通い、アルバイトで生活費をまかなっている苦学生の真央(まお)が主人公です。アルバイト先のスーパーで、試食販売をしている40代女性、四葉(よつば)と出会い、親しくなったある日、奨学金の返済に役立ててほしいと、宝石が入った箱を渡されます。その後、2人はコロナ禍で疎遠になりますが、それぞれの過去や生きざまを通して、人と人とのつながりが見えてくる……というストーリーですが、新井さんはなぜ、今回この本を選んだのでしょうか。
新井:
これは、若者の貧困、時代の移り変わり、LGBT、シスターフッドと、現代を生きる作家が避けては通れないテーマが詰まっている作品です。「シスターフッド」という言葉が注目される前から、柚木さんは小説にそれを書き続けており、シスターフッドについては柚木さんが一歩先を歩いていると思います。
――シスターフッドとは、女性どうしの連帯や絆を意味しますが、どういうシーンが印象に残りましたか。
新井:
物語の前半、主人公である苦学生の真央が、20歳も年上の四葉と出会い、今まで知らなかったキラキラしたものを知っていき、それを取り入れていくところです。例えば、四葉が真央のためにいれてくれた温かいお茶を飲む場面で、「誰かが無償で淹れてくれた熱い飲み物を口にするのは(中略)人生で初めてかもしれない」と言うせりふであったり、四葉と一緒に懸賞に応募するときに、「真央は痛快な仕返しをしている気分になった」といったように、これまで奨学金の返済のためだけに節約して生きてきた真央の、生活に対する意識が変わっていくところが印象的でした。
――主人公の真央は、とにかく目の前の困難を乗り越えるために一生懸命で同年代と遊ぶ余裕すらなかったのに、自分の知らない世界の扉を開けてくれる四葉が現れて、年の差に関係なく仲よくなっていくんですよね。新井さんは、この本のおもしろさ、どんなところにあると思いますか。
新井:
生まれ育った環境が大きく違うと、たとえ気が合ったとしても、ふとしたことで埋められない溝を感じたり、相手を羨んだり、気を遣ったりしてしまうものです。手を差し伸べることはできても、根本的に相手の境遇を変えることはできない。相手と同じ境遇にはなれないことを了承したうえで、つきあう。真央と四葉をはじめとする登場人物の関係性が、この物語のおもしろさだと思いました。それぞれが自分の世界で生きていることはわかっていても、書き方によっては、さみしく冷たく感じることもあります。しかしこの作品は、だからこそできることがあるし、してもらってうれしいことがあるんだなと、思わせてくれます。
――いろいろなテーマが描かれていますが、特に注目して読んでほしいポイントがあれば教えてください。
新井:
四葉の過去にまつわる話の中に、四葉の祖父母が経営していた店の、お菓子のパッケージのモデルをめぐる性被害が明るみになって、裁判にまで発展していくエピソードがあります。裁判の時代設定は今から10年ほど前で、結果は被害を訴えた側が敗訴してしまうのですが、そのあたりの書き方が、現代であれば人々の意識が変わって結果が変わったかもしれないと感じさせるのですが、実際問題、当事者と部外者の温度差があって、大して変わっていなかったかもしれないと感じさせもします。性被害という、誰もが同じように感じない部分を、読み物としてエンタメ性を失わない柚木さんの筆力がすばらしいと思います。
――作品のタイトル『オール・ノット』に込められた思いを、どう見ていますか。
新井:
物語の中にも出てくるように、「オール・ノット」は、たとえ切れたとしてもバラバラにならない、真珠のネックレスのつなぎ方のことですが、英語の表現ではそれとは別に、「全然ダメ」や「全然ダメというわけでもない」という意味もあり、それらをかけていると思います。人生において、「正解ではなかった」と思うことはあるけれど、はっきりと善悪、正解・不正解があるわけではなく、「全部間違いだったとも言えない」と、読者に考えさせる余地があると感じました。
――新井見枝香さんにご紹介いただいたのは、柚木麻子さんの『オール・ノット』でした。
【放送】
2023/06/22 「NHKジャーナル」