0歳での出会いに導かれたハンセン病療養所の音楽文化研究というライフワーク

23/06/26まで
眠れない貴女へ
放送日:2023/06/18
#インタビュー#ライフスタイル#音楽#感染症
歌手の沢 知恵さんは、なぜハンセン病療養所の音楽文化研究をライフワークにしたのか? その出会いと、本格的に研究するために岡山に移住した経緯、そして、実際の療養所の状況などについて、興味深いお話を伺いました。
【出演者】
沢:沢 知恵さん(ゲスト)
和田:和田明日香さん(ご案内)
沢 知恵さん
【沢 知恵(さわ・ともえ)さんのプロフィール】
1971年、神奈川県生まれ。日本、韓国、アメリカで育ち、3歳からピアノを弾く。東京藝術大学 音楽学部 楽理科在学中、ジョージ・デュークのプロデュースにより歌手デビュー。ピアノの弾き語りスタイルで、ジャズ、ゴスペル、ポップスなど、ジャンルを超えた歌を歌い続け、これまで30枚近くのアルバムを発表。ライブ活動の一方で、2018年、ハンセン病療養所の音楽文化を本格的に研究するために岡山大学大学院に入学。2022年には、ブックレット「うたに刻まれたハンセン病隔離の歴史」を出版。現在もライフワークとしてハンセン病療養所の音楽文化の調査・研究に力を入れている。
ハンセン病療養所との出会い
和田明日香さん
和田:
まずは、沢さんが2014年に岡山県に移住をされた理由を伺いました。
沢:
一番大きな理由っていうのは、幼いころから関わってきた瀬戸内海のハンセン病療養所、大島青松園(おおしませいしょうえん)というところが、皆さん高齢化で、いよいよ終わりの時を迎えているということで、近くに行って、関わりを深めたいなというふうに思ったんですね。これ一大決心です。まさに人生のバンジージャンプという感じで、私行くぞっていう感じで、移住をしました。瀬戸内海には3つのハンセン病療養所があって、家からその3つに通えるんですね。で、その地の利を生かして、私はこれまで誰もやっていなかったハンセン病療養所の音楽文化を研究してみたいなぁっていうふうに思って、家のすぐ近くに、たまたまあった岡山大学の大学院にトントントンとノックしたらどうぞって言ってくれたので、教育学研究科というところに入学して研究をしました。
和田:
岡山大学の大学院に入学されたのは、沢さんが50歳近い時だそうで、そこからまた新しいことにチャレンジするというのもすばらしいですね。
ハンセン病は、らい菌という「菌」によって皮膚や神経が侵される感染症で、昔はらい病とも呼ばれていました。ほとんど感染力はなく、遺伝する病気ではないにも関わらず、明治から昭和にかけて、らい病に関する法律が制定され、ハンセン病の患者さんは一般社会から隔離され、偏見や差別が拡大してしまうことになりました。沢さんは幼いころからハンセン病療養所に関わってこられたということですが、それは一体どのような経緯だったんでしょうか?
沢:
大島青松園に私が初めて行ったのは、生後6か月の時。1971年です。赤ちゃんの私を、父が抱いて連れて行ったんですね。当時はハンセン病療養所で赤ちゃんを見るっていうことは考えられない時代で、まだ‟らい予防法“っていう隔離の政策がずっと続いていて、社会の差別や偏見も根強いものがあって、そんな中、父は学生時代にひと夏をその大島青松園で学生としてお世話になったんですね。赤ちゃんの私を、その皆さんに見せたいと思って連れて行ったんですね。ハンセン病療養所では、皆さんそこから出られないわけですから、そこで出会って夫婦になった方が大勢いらっしゃいます。でも皆さん、子どもを持つことはできなかったんですよね。手術を受けて子どもが生まれないように、また生まれたとしても、生きることはできなかった。そういう皆さんにとって、生後6か月の赤ちゃんの私の姿っていうのは、ものすごい鮮烈な記憶で刻まれたと思うんですよね。
で、私はその後、大人になって、父が高校時代にがんで亡くなって、その父が大事にしていたものっていうのを追いかけたくて、大島青松園に、およそ20年ぶりに行きました。そしたらね、私は、初めましてのつもりで、港に降り立ったんですけど、療養所入所者の皆さんが、私のところに駆け寄ってきてね、知恵ちゃん、知恵ちゃん、大きくなったね、よく来たねって言って、もう満面の笑顔と大粒の涙で私を迎えてくださったんです。「えー!? 私のこと覚えててくれたの?!」って、まずびっくりしたのと、人が人を覚えているって、すごく大きな愛なんだなって、私は圧倒されて、気がついたら一緒に涙をながしていました。以来、大島青松園というのは、ちょくちょく遊びに行く場所、私を待っていてくれる人がいる場所になって、2001年から、ちょうどあの国家賠償訴訟の判決が出てね、国との和解が成立した年に当たるんですが、その年から私は大島青松園でコンサートを開いていて、今年で21回目、ずっと続いています。
和田:
きっと沢さんご自身でも、もう記憶がないぐらい小さい時、赤ちゃんですもんね、それからずっと関係を持たれていたということでしたが、20年も前に会った赤ちゃんが、もう20年たったら大人になってるわけで、それでもこう覚えててね、よく来たって言ってくれる方、本当にさぞかし、そういう場所に赤ちゃんが来るということが特別な体験であり、沢さんの存在が特別だったんだなということを感じました。
ハンセン病療養所の音楽文化から見えること
和田:
今のお話にもあった‟らい予防法“ですが、ハンセン病に対する偏見や差別をより一層助長したと言われています。これが廃止されたのが1996年なんですが、そのころには入所者はもう既にご高齢で、後遺症による身体障害のある方がいたり、更にいまだに社会における偏見や差別が残っていたりすることもあって、入所者が療養所の外で暮らしていくということは難しいことだったと言います。ハンセン病への正しい理解、療養所の将来構想などが課題として残るなか、沢さんは大島青松園での定期的なコンサートの他、全国のハンセン病療養所を訪れ、そこにある音楽文化を研究することになります。
沢:
ハンセン病療養所って聞くと、医療機関っていうかね、療養所っていう感じでイメージを持つと思うんですけど、こう社会から隔絶された一つの村のような共同体なんですよね。そこから出られないわけですから、娯楽も自分たちで生み出した。テレビなんか無い時代ですから、歌舞伎をやったり、劇団作ったり、楽団作ったり、陶芸をやったり、スポーツしたりね、いろんな楽しみを生み出していったわけですよね。で、そういう娯楽の中の最も重要なものが音楽であって、やっぱり人が声を合わせて歌う、音楽を作り出すというのは、本能的な欲求というかね。つらい時こそ歌を歌うんですよね、人間って。皆さん、カラオケが今もとても盛んで、歌が大好きです。私は、もちろんハンセン病の負の歴史というか、悲しかったこと、間違っていたことっていうのも、伝え続けなければならないけれども、そこで生き生きと生きた人たちの営み、生きざま、そういったものを、音楽研究を通して伝えたいなっていうふうに思って、修士論文を書きました。
ハンセン病療養所の音楽文化がさまざまある中で、園の歌、園歌っていうのがあることを、楽譜を見つけましてね。「これ何?」って言ったら、入居者の皆さんが、こんな歌だよって歌ってくださって。調べていったら、すべての療養所に校歌みたいな感じで、園の歌、園歌っていうのがあったってことがわかったんですね。で、これはね、研究していって、本当ゾッとするようなことも出てきたんですけど、上から権力によって押しつけられた歌だったんです。例えばね、歌詞の中に民族浄化とかね。民族浄化っていうのは、あなたがいなくなることによって、この民族は清められるっていう思想ですよね。だから自分の存在を消すことが国家に奉仕するんだっていうことを、この園の歌の歌詞によって、心に刻みつけられるわけですよね。
だからこう、音楽って何だろうっていうのって、まあ答えは一つじゃないと思うんですけど、音楽の持ってる力を権力が利用したときにどういうことが起きるかっていうのは、ハンセン病療養所に限らず、世界中で起きたことだし、人を癒やすものでもあり、人の気持ちにある思想をね、イデオロギーを刷り込ませる装置でもあるし。なんか怖いなぁっていうか、‟音楽の功罪“っていうんでしょうか。それをまあ私自身、自分が歌うものとしても、改めて認識したのが、このハンセン病療養所の音楽文化研究でした。