時空を超えて世界的にリバイバルヒットした『真夜中のドア』の作曲秘話

23/06/12まで
眠れない貴女へ
放送日:2023/06/04
#インタビュー#音楽#うた♪
およそ40年の時を経て世界的なシティポップ・ブームを巻き起こすまでにリバイバルヒットした松原みきさんの『真夜中のドア~stay with me』。作曲を手がけた林哲司さんに、作曲の依頼を受けた際に求められたこと、また当時の音楽界の状況、そしてリリース時の反響やその後についてなど、興味深いお話を伺いました。
【出演者】
林:林 哲司さん(ゲスト)
和田:和田明日香さん(ご案内)
林哲司さん
【林哲司(はやしてつじ)さんのプロフィール】
1949年生まれ。静岡県出身。1973年シンガーソングライターとしてデビュー。以後、作曲家としての活動を中心に作品を発表。竹内まりや「SEPTEMBER」、上田正樹「悲しい色やね」、中森明菜「北ウイング」、杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語-NEVER ENDING SUMMER-」など、1500曲を超える楽曲を制作。近年のシティポップ・ブームの原点的作品も数多く手がけている。
洋楽っぽいメロディーを求められて
和田明日香さん
和田:
林さんの作品の中から今回ご紹介するのは、シティポップ・ブームの中心として海外発でリバイバルヒットしている、松原みきさんのデビュー曲「真夜中のドア~stay with me」です。作詞は三浦徳子さん、作曲を林さんが担当されました。まずは1979年、楽曲を制作された当時のお話から伺いました。
林:
松原みきさんがデビューする時にレコード会社のディレクターからオファーがありまして、新曲を書いてほしいと。まだこれからデビューの新人なんで、こういう感じで書いてほしいと言われたのがですね、まるっきり洋楽っぽくてかまわないからっていうことだったんですね。通常僕たちが作曲家として頼まれるのは、特にシングルとして頼まれるのは、インパクトのある、誰にもなじむような形で書いてくれっていうのが、ありきたりのオファーのされ方なんですけど。この時はですね、本当にもうそのまま英語がはまってもいいような洋楽を書いちゃってくれない? みたいなことだったんですね。
というのは彼女のベースになってるのがジャズでして。それまではジャズシンガーとしての活動っていうのが彼女のキャリアの中にあったみたいで。アイドルとしてデビューするということよりも、本格的なポップスを歌えるような歌い手としてデビューさせることを考えていたみたいなんですね。で、僕自身も松原みきさんの声はまだ聞いたことなかったんじゃないですかね、写真は見たような気がしますけど。そのイメージに沿って洋楽っぽいメロディーを書いたっていうのが、この曲が一番最初に生まれるきっかけだったんですけど。
僕の場合は、ほとんどがメロディーが先なんですね。あとから詞をつけていただくっていう形なんです。サビのメロディーが一番先にできたんですけど、意外と早くできて、そんなに難産じゃなかったんですね。ただ、その松原さんの声に合うかどうかっていうことよりも、まずとにかく楽曲として洋楽っぽいナンバーを、日本で出してもいいような洋楽のナンバーを書くっていうことが使命だったような気がするんですね。ですから本当に「stay with me」じゃないんですけど、英語が入るような感じでメロディーを紡いだって感じですね。
それではお聞きください。松原みきで「真夜中のドア~stay with me」。
♪ 真夜中のドア~stay with me / 松原みき
和田:
林さんが作曲した時には、まだ松原みきさんの声を聞いていなかったっていうことが信じられないぐらい、曲と声がこんなにぴったりハマりますかっていうぐらいぴったりですよね。しかも、この曲をレコーディングした当時、松原さんまだ19歳。19歳の歌声というのも信じられないくらいですけれども。でも、この曲が松原みきさんの大人の部分を引き出したのかなと思いながら、なんておしゃれでかっこいい曲でしょうと思いました。
シティポップにつながる新しい音楽の夜明け
和田:
そうしてリリースされた「真夜中のドア~stay with me」ですが、当時の反響を伺いました。
林:
作品的にはすごく洋楽的な作品ではあるけど、日本語がはまって、やっぱり日本の新しいポップスって感覚は受けましたね。で、ちょうどこの半年前に竹内まりやさんの「SEPTEMBER」を書いて、両曲ともとりあえずは、我ここにありじゃないですけど、作品的にはチャートに入ってスマッシュヒットになりましたから。
とはいえ、まだまだ歌謡曲がメインストリームで、なんか新しい作品が出てきたなっていうイメージで皆さん捉えているような感じを受けました。ですからリスナーの方たちも当時としてはですね、若い人たちというのはこの曲に対しても反応してくれて。自分もそうだったんですけど、洋楽は聴くけど邦楽はあんまり聴かないっていう、その偏った嗜好(しこう)のタイプの人間だったんで。そういう人たちがこの曲は聞きましたっていう意見は後で多々聞きましたね。
いつの時代もそうだと思うんですけど、新しいタイプの曲って相対的に、こうダダダダって全体的に流れていくっていうよりは、一部にウケるじゃないですか。だからそういう意味でいうと、この曲に対して反応してくれた人たちっていうのが、その後もずっとこの曲を温めていてくれて、ことあるごとに自分の好きなナンバーとして青春時代を懐古すると同時にですね、この曲を思い出すとかっていうことはよく言われましたね。ですからそこでこの曲を好んで聴いてくれた方たちの中にDJなんかがいてですね、何年かたってもこの曲をディスコでかけたりとかクラブでかけたりとかして。それがなんかベースにずっとあって、のちのシティポップにつながってたんじゃないかなっていう、特に日本ではそういう背景があったんじゃないかなって気はしますけどね。