池内了著『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』

23/10/17まで

著者からの手紙

放送日:2023/09/17

#著者インタビュー#読書#サイエンス

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『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』は、宇宙物理学者の池内了(いけうち・さとる)さんが、江戸時代に花開いた“役に立たない科学”を、現代の科学と対比させて解説したサイエンス・エッセーです。池内さんにお話をうかがいます。(聞き手・畠山智之キャスター)

【出演者】
池内:池内了さん

役に立たない、夢のある科学

――池内さんはこの本の冒頭で、現代の科学を「軽薄/役に立つことばかりが求められる/しかめっ面の科学」と評しています。科学に関して、どんな危機感を持っていらっしゃるんですか。

池内:
科学者に対して、「何の役に立ちますか」という質問が記者から出るわけですよね。あるいは「金もうけ」、そう露骨には言わなくても、「イノベーションにつながりますか」というわけです。というふうに、実利的なものばかりが求められている。科学者もそれに応じなければならないというような強迫観念を持っていて、夢のある仕事ではなくて結果が出やすい仕事というふうになっていっているということです。
人々にとっても、科学は縁遠くなってくるわけです。といって人々は科学の成果は利用したいわけです。科学は専門家に任せて私たちはそれを使うだけでいいんだというような、「分離の関係」とでも言うのかな。「あなた、研究する人・作る人。私、使う人」という、そんな感じがどんどんせまっていることに、私は危機感を持っているんです。

――そうした現代の科学とは対照的な科学が江戸時代には存在していて、それは「役に立たない、好奇心に満ちた、夢のある科学」と書かれています。こうした科学を取り戻そうというのが、この本のねらいですよね。

池内:
江戸時代はむしろ役に立つことは二の次であって、おもしろい、楽しい、不思議だ、つまり好奇心ですね。そういうものを追求することだけが目標だったんです。だから自由に打ち込んだ。江戸の世の人々は、科学を楽しんだり探求したということなんです。

政治よりも好奇心の博物大名

――江戸の人たちはどんな好奇心を持って科学的な試みをしていたのか、うかがいます。まず、“不要不急の趣味の学問”と称される博物誌。江戸時代の人たちは、多様な植物や虫・貝・鳥・魚などの動物を採集して、それらの生態系に踏み込んだ観察図を競うように描いていたそうです。その中で、「博物大名」と称される藩主が多くいたそうですが、彼らは政治よりも、まさに好奇心に従っていたようですね。

池内:
ええ。西洋はどんどん近代的な科学に乗り換えていきましたけれども、日本では、博物学ではなくて博物誌、楽しむということを江戸時代は続けてきたということです。実は、藩としても財政難で困っているのに博物誌に打ち込んだ人もいるわけです。例えば熊本藩主の細川重賢(ほそかわ・しげかた)という人は、チョウやガなどの昆虫の非常に丁寧な飼育記録を残しているわけです。あるいは薩摩藩主の島津重豪(しまづ・しげひで)という人は、南のほうだからちょっと変わった鳥がやってくるでしょう? そういう鳥をいちいち全部取り上げて、きれいな絵を描いて便覧を作っているんです。そういうふうに自分の生活に密着しながら、自然をそのまま受け入れて表現してみる、残してみるという楽しみを、特に博物大名というのはやったんです。

奇品珍重も科学の重要な出発点

――江戸時代には植物を育てる園芸ブームもあって、「奇品」、変わった園芸植物が珍重されたようですね。奇品だけに限った図録や観察図も多く世に出回ったということですが、奇品に寄せられる好奇心については、池内さんはどう感じているでしょうか。

池内:
奇品というのは、植物の葉っぱや花がちょっと変わっていたり絞りが入っていたり奇妙な形をしていたりして、「あれ? おかしいな」と思ってその変わったものを、自分のところの庭でこんなのができたんだよと見せて得意がるわけです。そしてそういう人たちがたくさんいるから、「連」という組織ができる。組織というよりは同好会みたいなものですよ。そこでは貧富は関係ない、身分も関係ない。同等の人たちが自分の持っている珍しいものを見せ合うわけです。情報交換しながら、新しいもの、変わったもの、誰もが持っていないもの、自分だけの作品を見せたいというような素朴なものですけれど、それは科学にとっての、非常に重要な出発点なんですよね。

――「重要な出発点」と言いますと?

池内:
なぜそうなのかを考えていくのが科学なんですけど、そう考えるきっかけとして、当たり前のものではない、どこにでもあるものでもない、そう簡単には作り出せないものを手に入れて、毎年毎年、作り出そうと努力をするという、そういう意味で、科学の出発点みたいなものになっていると思います。

――なぜそうなったかを考えながら、ということが大切だということですね。

池内:
ただね、なぜそうなったかは難しいから、そこにはあまり深入りしない。変わったものをたくさん集める。それから、ちょっとでも変わった色のものを作り出すとか、そういう楽しみがあったんです。

――そのままずっと置いておくと自然というのはまれにおもしろいものを作り出す。その自然のおもしろさにも興味がひかれる。そのあたりも科学なんでしょうね。

池内:
そのおもしろさを、発見した喜びね。それから自分だけが知っているんだという喜び。しかし自分だけ知っていてもしょうがないから、人にも見せたくなるでしょう? そういう楽しみを人々がともに持ち合ったのではないかと思うんです。

――江戸時代は金魚、鳥、虫といった動物の飼育もはやったそうですが、その中にネズミもいたそうですね。単に育てるだけではなくて掛け合わせ実験が盛んに行われていて、池内さんは、「江戸時代において、ネズミの育種の最大の興味は奇品を作リ出すことであった」というふうに書いていらっしゃいます。つまり動物の分野でも、奇品競争が勃発していたわけですね。

池内:
ええ。ネズミも灰色のようなものだけじゃなくて、ぶちがあったり「つましろ」といって真っ黒になったり、筋ができたりちょっと赤みがかったり、いろいろな模様ができてくるわけです。そしてそれを作るための丁寧な手引書まで作られて、それを見て、どんな餌がいいとか、どんな病気があってどんな手当をしたらいいかとか、多くの人々が、特にネズミを育てるのに熱中しました。動物を虐待している側面があるんじゃないかと言う人もいるかもしれませんけれども、大事なのは、江戸の人々は、人間は万物の霊長だなんて考えたわけじゃないんです。動物も人間の仲間なんですよ。だからさまざまなことを一緒に経験してみようというような、そういう気持ちもあったと僕は思っています。

――人間が動物などをコントロールするということではなくて、ともに生きるということですね。

池内:
ええ。ともに生きる生き物で、同じようなもんだ、というようなことですよ。

好奇心、切り捨てたら「貧しくなるよ」

――最後にうかがいます。改めて今、科学が持つべきなのはどんな視点なのか、池内さんはどうお考えでしょうか。

池内:
科学の出発点、原点は好奇心ですよね。役に立つという目的が先にあるのではなくて、「なぜだろう。不思議だね」ということを思う好奇心でしょう。それが出発点で、好奇心を満足させるためにいろいろ手間暇をかける。とにかく遊び好きで、凝ったら損得を忘れて夢中になる。「別にもうからなくていいんじゃないの、おもしろければ」という、近代の合理主義の論理とは異なった考え方・見方というのを江戸の人々は持っていて、私たちはそれを回復するというのかな。それが必要なのではないかと思うんですよ。ところがそれを役に立たないとか古くさいというので切り捨ててしまうと、ずいぶん貧しくなるよ、というふうに言いたいですね。

――貧しくなってしまう……もっと豊かな生活ができるということですね。

池内:
はい。

――『江戸の好奇心 花ひらく「科学」』の著者、池内了さんにうかがいました。池内さん、ありがとうございました。

池内:
こちらこそ、どうもありがとうございました。


【放送】
2023/09/17 「マイあさ!」

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