『日本宗教のクセ』は、宗教学者で僧侶の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんが、思想家の内田樹(うちだ・たつる)さんと、「いま、日本人が持つべき宗教観」を語り合った対談集です。釈さんにお話をうかがいます。(聞き手・畠山智之キャスター)
【出演者】
釈:釈徹宗さん
『日本宗教のクセ』は、宗教学者で僧侶の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんが、思想家の内田樹(うちだ・たつる)さんと、「いま、日本人が持つべき宗教観」を語り合った対談集です。釈さんにお話をうかがいます。(聞き手・畠山智之キャスター)
【出演者】
釈:釈徹宗さん
――宗教と言いますと、去年、安倍元総理大臣が演説中に銃撃された事件で注目された旧統一教会の問題がありますが、釈さんは日本の宗教を取り巻く現状を見て、どのようなことを感じていらっしゃいますか。
釈:
宗教が本来持っている機能として、社会とは別の価値体系を持っているというのが、果たすべき大きな役割としてあると思います。社会と同じ価値しか持っていないんだったら、宗教の存在意義はほとんどないと思うんですよね。例えばイエス・キリストという人は、「いま苦しんでいる者、いま泣いている者、あなたこそが幸せなんだ。なぜなら神はあなたのためにいるからだ」と言うわけです。これは、社会とは全然別の価値でしょう? 社会の価値は、「いま笑っている人、いま富める者こそが幸せだ」と考えるんです。親鸞という人も、「悪人こそが救われる」と言うわけです。社会と全然別の価値観ですよね。
社会の価値では救われない人が宗教で救われるということが起こるわけですが、昨今のカルト宗教問題を見ていますと、社会の価値に“どっぷり”と言いますか、権力とか財力とかを求めるために宗教を利用しようとしている。そういう意味では、宗教の本来のあり方として大きく外れてしまっていると思います。
――そういった組織が生まれてしまう土壌が、いまの日本にあるということですね。
釈:
そうですね。
――本の冒頭に、「宗教をなめるな」というような刺激的なフレーズが登場します。いま日本人は、どのように宗教を“なめている”と感じますか。
釈:
先ほども少しお話ししたように、例えば選挙のときの票田になるとか、自分たちが権力や財力を手に入れるために宗教を利用しようとしている人たちがいるわけです。いずれも宗教を軽く見ていると言いますか、宗教というのは、人間の暮らしの中から出たにもかかわらず、人間を超えて社会よりも大きいんです。社会の範ちゅうに入らないような、例えば死後の世界とか神様とか、いわゆる日常を超えるような領域を持っています。宗教をコントロールすると言いますか、宗教を甘く見て自分で利用できる気になっていると、必ずしっぺ返しを食うと言いますか、痛い目に遭う。そういうところの宗教への畏敬の念と言いましょうか畏れ敬う念というのは、宗教体系に関わる場合、とても大切だと思うんです。
――では、その“なめている状態”を解きほぐすヒントとして、日本宗教のクセについてうかがっていきます。まず、神仏習合の習合、これは「集まる」集合ではなくて「習い合う」習合ですが、釈さんは、「日本の宗教文化は、習合を1つの得意技、スタイルとしている」というふうに指摘されています。このクセについて、解説していただけますか。
釈:
キリスト教神学者の門脇佳吉(かどわき・かきち)さんや心理学者の河合隼雄先生もおっしゃっていましたけれども、「日本の精神構造は中空だ」と。中空構造説みたいなものがあって、真ん中が空いていて、ちょうど円形のテーブルにみんなが着席するような構造になっていると。この構造だと、異質なものが着席できるというわけです。
異質の宗教どうしも同じテーブルについて共存できるという、いい面もあるとは思いますが、それはすごくいいというだけではなくて、日本の場合は、合うところは取り入れるんだけれども合わないところは取り入れないんです。例えば仏教がやってきても日本型仏教になっちゃうし、儒教がやってきても日本型儒教に、キリスト教がやってきても日本型キリスト教に……というふうに、アレンジして変質させて、円形のテーブルに着席させて共存共生するというかたちになっている。そういう意味では、同質化に近いですよね。「日本の宗教のあり方は、いろんなものが共存して集合してすばらしい」みたいに言う人がいるんですけれども、結構、排他的でもあるわけです。
――もう1つ、日本宗教のクセとして、「強い原理原則を避ける傾向がある」と書いてありました。釈さんは日本宗教を、キリスト教のプロテスタントのような内面重視傾向が強い宗教と比較すれば、「とても茫洋(ぼうよう)とした宗教性」と指摘されています。茫洋とした宗教性というのは、どういうことなんですか。
釈:
“茫洋とした”というのは、無自覚というような意味もあって使っています。日本の皆さんは、たくさんの宗教的な営みをされているのに、無自覚でされています。それが宗教的行為だという意識もなく、されているようなところがあります。例えば、われわれはいろいろな宗教意識調査をするんですけれども、初詣に来ている人にもアンケートをとるんです。すると「あなたはふだん宗教的行為を何かしていますか」とか「宗教的営みを営んでいますか」というような項目に、「一切ない」と、初詣に来ている人が平気で丸をつけるんです。宗教的行為だと全然思っていないんですよね。お守りを持っている人もいるし、それは明らかに宗教的行為なんです。
宗教というと、何々教とか何々宗の信者、あるいは特定の信仰を持っている人というイメージですけれども、宗教はもっと幅広いものです。ふだんは全然宗教に縁のない人でも死者を悼むとか、お寺の縁側に座っていたら何とも言えない穏やかな気持ちになったり、キリスト教の教会で美しい賛美歌を聴いたら何とも言えない聖なる気持ちになったり、そういうことが起こりますよね。宗教的な営みに無自覚、でもすごくたくさんしているというのが、大きな特徴だと思います。
――それが、“芒洋とした”ということなんですね。
――本の後半で釈さんは、日本の問題として、宗教について語り合ったり学んだりする機会が少ないと指摘されています。私たち、日常、どんなかたちで宗教を語り合えばいいんでしょう。
釈:
先ほどお話しした初詣もそうかもしれませんが、宗教行事だけじゃなくて、例えばわれわれ、土足で畳の上を歩けないでしょう? やったことがあるんですけど、ものすごく気持ち悪いです。こういう何か合理的にうまく説明できないものがあったりしますが、それもまぁ、宗教的なことだと思います。暮らしの中の不合理なものについて語り合うのも宗教的なお話だと思いますし、怪談もそうです。怖い話をするのも、ある種の宗教心へと結び付いていますので、子どものときに怖い話を聞いたりするのは、宗教教育じゃないかと思うぐらいなんですよね。何か見えない世界のことを語り合ったりするのも、宗教的な対話でしょう。
近年は、同じ会社に外国から来ている人がいて、時間になったらお祈りをするのを守っている人がいるかもしれません。そういう人とは、いろいろ教えてくださいとか聞かせてくださいとか、胸襟を開いてお話しするのもいいと思います。また日本各地に、日本にはあまりなじみのなかったさまざまな宗教がやってきています。南米系のキリスト教の教会もたくさんできていますし、中国系のお寺もたくさんできています。われわれは、これからそういう人たちと一緒に社会をつくっていかなければなりません。ちょっとした知識がないと偏見や差別が起きてしまうので、当事者意識を持っていただく。違う信仰がどうやって折り合っていけばいいのか、いまの日本社会には、考えなければならないことが本当にたくさんあるんです。
――そこを学んで、ともに暮らしていく。まさに日本の宗教のクセの“習合”ですね。
釈:
そうです、そうです。そういうことですね。そういう意味では、先ほど言いましたように、なかなか同質化しないタイプの宗教が、日本の社会の中で共存共栄していく道を考えていかなきゃいけない。なんとか異質を認め合いながらお互いに折り合っていくという、そういう態度が必要だと思います。
――『日本宗教のクセ』の共著者のおひとり、釈徹宗さんにお話をうかがいました。釈さん、ありがとうございました。
釈:
お疲れさまでした。ありがとうございます。
【放送】
2023/09/10 「マイあさ!」
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