『市川房枝、そこから続く「長い列」』野村浩子著

23/07/10まで

著者からの手紙

放送日:2023/06/11

#著者インタビュー#読書

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『市川房枝、そこから続く「長い列」 参政権からジェンダー平等まで』は、明治時代に生まれ、大正から昭和の長きにわたって、女性の地位向上を目指して活動を続けた市川房枝の生涯を描いた評伝です。著者の野村浩子さんにお話をうかがいます。(聞き手・畠山智之キャスター)

【出演者】
野村:野村浩子さん

「期待は持てるが希望が持てない」

――まずうかがいたいのは、野村さんは、市川房枝のどんなところに魅力を感じていらっしゃいますか。

野村:
思ったことは誰の前でも臆せず口にする方でした。あるとき国際女性年の記念行事で、天皇皇后両陛下を迎えて市川房枝がスピーチをしたんですが、「式典や決議だけでは婦人の地位向上は実現しません。先頃、政府に婦人問題企画推進本部というものが発足して、期待は持てるが、しかし本部長以下全員男性で、将来に希望が持てません」と、天皇皇后両陛下の前ではっきり言ったんですね。

そのとき女性たちが多くいたんですが、会場から大きな拍手が巻き起こったんです。その拍手の意味というのは、女性たちが「よくぞ私たちの代弁をしてくれた!」ということだったと思うんです。市川の功績というのは、女性たちの言葉にできないモヤモヤというのを、公の場で言語化した。志を貫く生き方をしたという、そういう生き方に敬意を抱いております。

――100年前から女性の地位・権利の向上を訴え続けた市川房枝は、生涯を通じてどんな活動をしていたのか。まず市川房枝は、大正7年、25歳のときに、3歳上の活動家・平塚らいてうと出会って新婦人協会を設立。女性参政権の獲得や治安維持法の改正を目指して活動を開始します。当時、市川が立ち向かった壁は高かったと想像するんですけれども、野村さんはこのあたり、どういうふうにお考えになりますか。

野村:
鉄壁のように立ちはだかる壁があって、当時、女性の参政権に反対する男性議員たちがどういうことを言っていたかというと、「女子の本分は家庭にあり、政治活動を許すことはわが国の国体に反する」というふうに言っていました。当時の新聞の投稿を見てみますと、女性からの投稿で、「娘は父親、妻は夫を通して意見を述べればよい。女性に一票など必要ない」という意見を述べているものもありました。つまり男性にも女性にも、そういうジェンダー規範がものすごく強かったわけなんです。

女性は政治活動が一切禁止。政治集会に参加することすら禁じられているという時代だったのですが、(市川は)逮捕されることを覚悟で政治集会に参加してつまみ出されて、翌日警察から呼び出しを受けるようなこともありました。当時は、政治・経済・社会といういわゆる”公の領域”は男の世界で、女性は家事・育児・介護といった”私(わたくし)の領域”という分業がなされたわけですが、「いや、そうではない」と。女性も公の領域に参画すべきだという、今でいう男女共同参画社会を100年前に提唱していたわけです。非常に先進的だったと思います。

参政権、そして均等法成立へ

――その後も市川は女性の大同団結を呼びかけ続けましたが、日本は戦争の時代に突入して、活動は不遇を強いられます。そして昭和20年、市川は終戦から10日後に、戦後対策婦人委員会を結成して、婦人参政権の獲得に向けて活動を始めます。その翌年、GHQによって治安維持法は廃止されて女性の参政権も認められることになるんですけれども、このときの市川の心境はどうだったんでしょう。

野村:
非常に複雑でしたね。戦前から20年以上、女性参政権を求めて闘ってきたにもかかわらず、GHQから“与えられた”ものとして参政権を賦与されたことに対して、非常に複雑な心境でした。新聞記者が、女性参政権が実現するとすぐに市川房枝のもとに駆けつけて「うれしいでしょう」と尋ねたんですが、「うれしい」と答えられずにしばらく黙り込んでしまったんですね。しかし市川はすぐに切り替えて動き始めるわけですけれども、女性参政権がGHQから与えられたジェンダー平等だったということが、これは私の個人的な意見ですけれども、今に至るジェンダー平等社会の遅れの遠因になっているのではないかなと思っております。

――この本で取り上げられているエピソードの中に、こういうのがありましたね。戦後初めて女性議員が誕生したときに、その女性議員がそろってマッカーサーに挨拶に行って参政権を与えてくれたことへのお礼を言ったと聞いて、市川房枝は憤慨した、と。

野村:
そうなんです。憤慨しました。

――そして昭和28年、市川は参議院議員選挙に立候補して初当選。以降、亡くなるまで政治家として過ごします。国連の女性差別撤廃条約の批准に尽力するなど活動を続け、昭和56年に87歳で他界します。その4年後の昭和60年、男女雇用機会均等法が成立します。あと一歩というところで……という感じもするんですけれども、この法律の成立は、市川房枝の尽力によるところが大きいんですよね。

野村:
はい。市川房枝が、「女性差別撤廃条約を批准すべし」という大きなうねりを国内に起こしました。「国際条約、これが世界標準です。もうこれに合わせないと、日本は恥ずかしいでしょう。日本の恥だ」というふうに迫って、国際社会からの“外圧”をもって男女平等な社会に変わらざるをえないという、そういう状況を作ろうとしたんだと思いますね。批准するためには、女性差別を撤廃する国内法が必須だったんです。そこで、男女雇用機会均等法を成立させなければいけないという機運が盛り上がり、市川房枝が亡くなったあとに均等法が成立した。それでようやく条約に批准できた。つまり、条約批准をきっかけに、これを根拠にして、日本の国内の法制度を変えていくことにつなげられると言いました。そうした未来図が、市川房枝にはしっかりと見えていたんだなと思います。

「私は憤慨しとるんですよ」

――市川房枝の人物像を表すネーミングはいくつかあって、参議院議員時代、青島幸男は、仲間内で市川のことを「憤慨ばあさん」と呼んでいたそうです。その理由は、市川の口癖が「私は憤慨しとるんですよ」だったからだと書かれていました。今もし市川房枝が生きていたら、何に憤慨しているというふうに思われますか。

野村:
没後40年以上がたちますが、あまりにも憤慨することが多すぎて、嘆いていらっしゃるのではないかと思っています。(日本は)世界の中で、ジェンダーギャップ指数が146か国中116位という低水準です。衆議院議員も女性の割合はまだ1割程度です。私自身、出席者の中で女性1人という会議が月に何回もあります。そういう状況を見ますと、あまりの変化の遅さに、私自身諦めたくなるときもあります。でもそんなときに、「私は憤慨しとるんですよ」という市川房枝の声が天から聞こえてくるような気がして、いやいや、これは諦めるような状況ではない、と。声を上げて社会を変えていかなければいけないなと思っています。

――野村さんが市川房枝にネーミングをするとしたら、どうなりますか。

野村:
私はですね、「北極星を見つめるリアリスト」というふうに思っています。北極星というのは、いつどこから誰が見ても、あれは北極星だとわかるブレない目印になるわけです。その北極星というのは、市川房枝にとってはジェンダー平等な社会をつくるということで、では理想主義者だったかというと決してそうではなくて、リアリストだったんですね。現実を1ミリでも前に進めるためには、多少の妥協をしながらも少しずつ世の中を変えていかなければいけないというリアリストでした。

――彼女自身が今、北極星になっていますよね。

野村:
そうですね。こういう輝く星があったことを、今を生きる私たちはもう一度見つめ直していいのではないかなと思っています。

――『市川房枝、そこから続く「長い列」』の著者、野村浩子さんにうかがいました。ありがとうございました。

野村:
ありがとうございました。


【放送】
2023/06/11 「マイあさ!」

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