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三島由紀夫賞を受賞した宇佐見(うさみ)りんさんの『かか』は、母である「かか」への愛憎に苦しむ娘「うーちゃん」が、かかに対する煩悶(はんもん)から解放されようともがく様を描いた小説です。現役大学生の著者に、デビュー作である本作について伺います。


浮かび上がった母娘のテーマ

――新しい純文学の書き手として注目を浴びていますが、この状況についてご自身はどういった感覚をお持ちですか。

宇佐見さん: 注目を浴びているとおっしゃっていただいて、とてもありがたいことだなと思うと同時に、すごく驚きを持って受け止めているところなんですね。でも、届いているという実感があるので、それによって救われているなと思うことはたくさんあります。

――宇佐見さんのプロフィールを紹介します。
小説家の宇佐見りんさんは1999年、静岡県生まれの神奈川県育ち。現在、大学在学中です。2019年、『かか』で文藝賞を受賞し、作家デビュー。ことし、同作は野間文芸新人賞候補となり、三島由紀夫賞を史上最年少で受賞しました。

『かか』は、主人公である19歳の浪人生・うーちゃんが、離婚して以来、酒を飲んで暴れるようになった母、「かか」に対して抱える煩悶(はんもん)を痛切に語っていく物語です。デビュー作で「母と娘」という題材を取り上げた理由を教えていただけますか。

宇佐見さん: 題材を取り上げたというよりも、自分の中で、あとにテーマを残すことなく全力で全部書こうと決めたときに出てきたもの、浮かび上がってきたものが、母と娘というテーマだったんです。1作に全部つぎ込もうとしたら、自分の根幹にかかわる母と娘というテーマに至ったんだろうなと思いますね。

「うーちゃん」で開いた世界

――この物語は、うーちゃんが弟のみっくんを「おまい」と呼び、語りかける形で描かれています。「うさぎ」が本名の彼女は自分のことを「私は」ではなく「うーちゃんは」と呼んでいますが、そのほかの言葉遣いからも19歳にしては少々幼い部分があると感じました。うーちゃんを描く際に心がけたのはどんなことだったんでしょうか。

宇佐見さん: 『かか』という話は、「うーちゃんは」というある意味での一人称と、「かか弁」という独特な家庭内方言を全編使って書かれている小説です。当初は「私は」という一人称で、文体もごく一般的な言葉を用いて書いていたんですけれども、主人公が少しおとなしくなってしまう、っていうんですかね。人間誰しも社会的な部分と幼い部分を持ち合わせているんじゃないかなって私は考えているんですけど、どうしてもおとなしめの、社会性を忘れられない小説になってしまったんです。

そのときに、「ちゃん」付けで自分を呼んでみたりそれで書いてみたらどうだろうと進めてみたところ、おっしゃっていただいたように幼さも醜さもちゃんと出た文章になって、彼女の行動もまた変わっていった。社会性に覆われている部分を剥ぎ取って、彼女が心の奥底で感じていることや、彼女がいわばだだをこねるような形で、頭ではもっとしっかりしたほうがいいと理解していることでも、心の奥底で「これは違うんじゃないか」とか「これは嫌だ」と考えていることを、小説の上に浮かび上がらせることができたんじゃないかなと思います。「うーちゃん」という一人称を使うことで、いきなり世界が開けた感じがありました。

「おまいにはわからんのよ」

――物語の序盤、読者の胸を突き刺すようなうーちゃんの告白が出てきます。
「……うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も、あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。(略)男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ」。
これが、うーちゃんが呪っていることの核心と考えていいですか。

宇佐見さん: これは書き終えてしばらくしてから、こういうことだったのかな、というふうに考えたことがあって。
この文章を考えると、うーちゃんは「とと」という男性の存在に傷つけられる「かか」を見て、自分も女性としての役割が嫌だなって思うんですけど、よくよくそれをたどっていくと、「自分が生まれたせいなのではないか」とか「自分が生まれなければお母さんはもっと幸せだったんじゃないか」、「ととと結ばれなければかかは壊れずにいられたんじゃないか」というような考えが、彼女の中に渦巻いていて。
女性がいて男性がいて、性交渉して子どもが生まれてくるというシステムそのものに対にする、どうしようもないことではあるんですけど、それがなぜなんだろうと思うという。難しいですけど……。

かかを産んで育ててやりたい

――うーちゃんが、暴れるかかを抱きとめるシーン。ここでうーちゃんは「かかはなんのために生きてたんのよお」といったかかの独白を心の中で聞きながら、「うーちゃんはかかをにくんでます」「かかがずっときれいであってほしかった」「うーちゃんはかかだけを愛していました」と、かかへの愛憎を吐露します。さらにここでうーちゃんは、ある行為によってかかを救おうと思い立ちます。うーちゃんがたどりついた“かかを救う方法”はどんな発想から出てきたんですか。

宇佐見さん: うーちゃんはかかを救う方法として、「かかを妊娠したい」と考えるんですね。かかを産み直したい、というふうに。
いとおしいものがどうしようもなくなってしまったとき、ここで言えば、かかがどうしようもなく悲しんでいるけれども、自分には本当にどうすることもできない。なぜかというと、かかが求めているのは、おばあちゃんであるババ、かかのお母さんからの愛情であったり、ととからの愛情であったりするから、自分が与えられるものじゃないんですよね。それでどうしようもないから、自分が“母”に。「かかが母で、うーちゃんが娘」という関係性を捨てて、「私が産んで育ててやりたい」と思うわけです。
この発想はどこからって言われると結構難しくて、かなり自然と思いついたものなんですよね。自然とそういうものが、不可逆なものに傷ついてしまった人に対してわりと心の底から出てくる感情だったのかなと思って。気付けば出てきていて、それがかなり物語の背骨になったという感じです。

現実のあっけなさ

――物語は、うーちゃんがかかから逃げ出し、横浜から鈍行で和歌山県まで行き、熊野の山をずんずん登っていくシーンで幕を閉じます。ここでひとつ、うーちゃんはかかに対してケリをつけますが、この物語を閉じるうえで心がけたのはどんなことでしょうか。

宇佐見さん: 物語のラストでは、現実のあっけなさというものを意識しましたね。いろいろなものをうーちゃんは受け入れられないんだけれども、最後にお母さんの現実であるとか、いろいろなものがあることを悟ったところで終わらせたいなと考えていました。なので心がけたのは、ハッピーエンドでもなくバッドエンドでもなく現実を現実のままおく、ということでした。物語自体はうねっていくけれども日々はずっと流れ続けるということは、もともと意識して書きました。

そこに痛みがあるならば

――宇佐見さんの大先輩である作家の桐野夏生さんは、「小説は痛みを書くもの」とおっしゃっています。宇佐見さんの『かか』も“痛み”が迫力をもって描かれていますが、宇佐見さんにとって今後もこの痛みは重要なテーマとなっていくのですか。

宇佐見さん: なっていくと思います。他人の傷を見て感じる自分の痛みというものは、結局どこまでも自分自身の痛みでしかないのかもしれないけど、ここに意味はあるのかとか、そういうことを書いていきたくて。
私はある人物の痛みをそのまま書くことによって、そこに他者が「いる」という、その存在に気付くことがあると思っています。そういう小説を書いていきたいなと思っているので、今後もいろいろなものを書く際に、そこに痛みがあるならば、ちゃんと逃げずに書いていこうとは思っています。

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