村井邦彦×細野晴臣 時代を変えた男たち(音楽編2)

23/12/25まで

ごごカフェ

放送日:2023/12/18

#音楽#うた♪

午後3時台を聴く
23/12/25まで

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23/12/25まで

作曲家でプロデューサーの村井邦彦さんと、ミュージシャンの細野晴臣さんに、ユーミンのデビューアルバム『ひこうき雲』の制作秘話やYMO結成のエピソードなど、二人だけが知っているとっておきのエピソードをたっぷり語っていただきました。

【出演者】
村井邦彦さん
1945年、東京都出身。67年「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。翌年、ザ・テンプターズに提供した「エメラルドの伝説」が大ヒット。その後、数々のヒット曲を発表。音楽プロデューサーとして、赤い鳥、荒井由実、イエロー・マジック・オーケストラ、シーナ&ロケッツなどを手掛ける。現在も作曲家、音楽プロデューサーとして活動。

細野晴臣さん
1947年、東京都出身。69年エイプリル・フールでデビュー。70年はっぴいえんどを結成。73年ソロ活動を開始、同時にティン・パン・アレーとしても活動。78年にイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成。YMO散開後は、ワールドミュージック、アンビエント、エレクトロニカを探求。作曲・プロデュース・映画音楽など、多岐にわたり活動。

I can do anything for you

村井:
半年ぐらい前に、細野君のスタジオで話をしたときに、細野君と僕の出会いは、70年説というのと、73年説っていうのがあったんだよね。

細野:
その時代の3年って大きいよ。

村井:
いろんなことが起きてるんだよ。僕の方でいうと、作曲を始めたのは67年。そのころ、もう細野君はやり出しているんだよね。それで、アルファミュージックを作ったのが69年です。

細野:
60年代だったんだね。

村井:
そうそう、赤い鳥と契約して始めたのが69年ぐらいで、そのときすでに、細野君はベースを弾いてくれているんだよね。

細野:
そうですね。なんかスタジオミュージシャンやってましたね。

村井:
出会った場所は、キャンティの創業者の川添浩史さんのご自宅で、息子の川添象郎さんが『ヘアー』というミュージカルのプロデューサーをやっていて、小坂忠がその『ヘアー』に出ていて、小坂忠と細野君が大親友だからね。二人で川添さんの家に来たんだよ。

細野:
そこが誰の家だか全然知らないで行ったんですけどね(笑)。

村井:
70年に川添浩史さんが亡くなって、71年にはその家を引っ越しているんですよ。これで歴史が確定!

細野:
意外だな、そんなに早くから村井さんにお会いしてるとはね!

村井:
川添さんの家で、細野君が象郎さんのフラメンコギターを弾いているのを見て、この人はすごい! と思ったんですよ。

細野:
あのギターはすばらしい! アルカンヘルっていうんですけど、いま僕の手元にあるんですよ。

村井:
何年ぐらい前のものなんですか?

細野:
50年代だと思うんです。川添さんがマドリードで購入したという伝説的なギターなんです。

村井:
ともかく僕は細野君のギターにすごく感動したんです。スタジオミュージシャンとしていろいろ手伝ってもらってはいたけれど、この細野晴臣って人はすごい才能があるから、もっといろいろなことをやってもらおうと思ったんです。最初に頼んだのがユーミンのデビューアルバム『ひこうき雲』の音楽監督だよね。

細野:
そうなんですよ。村井さんから電話をいただいたときは、ユーミンのシングル「返事はいらない」を作っていたんですよ。

村井:
かまやつひろしさんがプロデュースしてたやつだ。そのときも参加してたの?

細野:
そうですよ。

村井:
このシングルは不発だったけど、僕はあきらめずにアルバムにしようと思い、プロデューサーとして先頭に立ったんです。ユーミンは自分のバンドで録音したいと言ったけど、ダメッ! って言って、一流のミュージシャンじゃないと困る! とあなたに頼んだんです。

細野:
そういうことなんだ。

村井:
それで、マンタ(松任谷正隆)と鈴木茂が来て、ティン・パン・アレーが演奏して、すごくいいアルバムができたんですよ。

細野:
楽しかったですね。

村井:
引き続き名盤が出てるよ。『ひこうき雲』が73年に発売されて、74年に雪村いづみさんのアルバムを発売しました。

細野:
最近そのことをすごく思い出すんです。テレビで『ブギウギ』をやっていますよね。そこにちょっと引っ掛かってくるんです。服部良一さんですからね。

村井:
服部良一って“日本のポピュラー音楽の父”みたいな人ですよね。いわゆる芸大とかに行った人じゃなくて、ストリートミュージシャンみたいなところから始めて、日本のポピュラー音楽の基礎を作った人ですよ。その服部さんに対するリスペクトみたいなものを僕も細野君も持っていて、当然、雪村いづみさんもリスペクトしていましたね。

細野:
若いころからすばらしい人でしたね。

村井:
それで、戦前の服部さんと、戦後すぐの大スターの雪村いづみさんと、その次の世代の僕たちの3つのジェネレーションがいっしょに作った雪村いづみさんの『スーパー・ジェネレーション』。これが74年です。

細野:
毎年、何かやってる(笑)。

村井:
毎年、名盤作ってるわけよ。75年は小坂忠の『ほうろう』ですよ。

細野:
これも忘れられないアルバムですね。

村井:
これの経緯は細野君のほうがよく知ってるでしょ?

細野:
小坂忠とは親友で、埼玉県狭山のアメリカ村というハウスに住んでいたんですよ。家賃が安かったんですよ。

村井:
どれくらいだったの?

細野:
3万円前後ですよ。だから僕でも借りることができたんです。それで、隣が小坂忠一家なんですよ。お隣同士なので子どもみたいに毎日遊んでいたんです。そんなところに、ミッキー・カーチスさんか内田裕也さん経由で、小坂忠にアルバムの依頼があったんじゃないですかね。彼から「手伝ってくれ!」と相談があって、「もちろん!」と、曲まで作っちゃったんです。『ほうろう』の前に『ありがとう』というアルバムがあって、いま話していたのは、この『ありがとう』の話だ。

村井:
というように、アルファの名盤には、必ず細野晴臣がからんでいるんだよね。

細野:
村井さんのもとでやっているだけですから。

村井:
本当にすばらしい人と仕事ができて、いいレコード盤がたくさん残ったと思って、すごく感謝をしています。

細野:
こちらこそです。

村井:
そうやって成功しても、不思議とアルファのアーティストではなかったんだよね?

細野:
僕は自由でした。ソロアルバムを2枚作ったんですよ。

村井:
『トロピカル・ダンディ』は2枚目?

細野:
1枚目です。75年だったかな?

村井:
『トロピカル・ダンディ』の次は何だっけ?

細野:
『泰安洋行』ですね。

村井:
僕は両方大好きで、アーティスト契約をアルファとしてくれと言ったら、クラウンとしているから、今はできないって言われたんです。じゃあプロデューサー契約をしてくれとお願いしたんですよ。

細野:
それはよく覚えてますよ。『泰安洋行』が終わって、ティン・パン・アレーで何か作っている頃に、村井さんから「ちょっと来てくれ」と電話があって、伺ったら「プロデューサー契約をしませんか?」と言われたんです。自由にいき過ぎていて、少しくらい定職につきたいと思っていたからありがたかったですね。“I can do anything for you”という英語に僕は参りましたね。

村井:
「私はあなたのためになんでもできるからね!」って言ったんだね。

細野:
日本じゃないなって思いましたね(笑)。そこからぼちぼちやったんですけど、何していいのか分からなくてね。そしたら村井さんから「アメリカでオーディションして歌手をピックアップしないか」と言われ、すごい話だなと思いました。生意気にも僕は「クレオール系の女性がいい」と条件を言ったんです。それでロサンゼルスでオーディションをやったんですよね。
でも、その場面を覚えてないんですよ。

村井:
僕も覚えてないの。オーディションに受かった女性と3人で写っている写真があるだけ。実は、その前に、アルファレコードの発足と同時にA&Mレコードと提携するという話が水面下で進んでいたんです。僕がどうしてもA&Mレコードと提携したかったのは、A&Mレコードのハーブ・アルパートとかのレコードを日本で売るだけじゃなくて、日本のアーティストを外国で売ってほしいと考えていたんです。

細野:
そこまで考えていたんですね。

村井:
だから76年の段階で、A&Mの幹部を呼んでプレゼンテーションをしたわけですよ。そのときに『トロピカル・ダンディ』の中の「CHATTANOOGA CHOO CHOO」を聴かせたの。

細野:
冷や汗だね(笑)。

村井:
「CHATTANOOGA CHOO CHOO」は、1941年、グレン・ミラー・オーケストラの大ヒット曲。それを日本の若者、細野晴臣が30数年経って全然違うスタイルにしたんです。それで、みんなすごく気に入ったの。

細野:
あれは、元が、その「CHATTANOOGA CHOO CHOO」をカバーしたブラジルのサンバの女王、カルメン・ミランダがいるんです。彼女はアメリカに渡っちゃったんで、とてもアメリカナイズされてるんですけど、ポルトガル語で歌っているんですよね。

村井:
あの曲は途中で日本語になったり英語になったりするけど、ポルトガル語も入っているの?

細野:
少しだけ入ってますよ。

村井:
使っているリズムは、ニューオーリンズっぽい、ドクター・ジョンのようなピアノが入っているよね。

細野:
当時はロックばっかりやっていたので、サンバなんかできないんですよ。

村井:
こんな新しいアレンジができるアーティストがいるって、A&Mの上層部の人たちも、“ハリー細野”ってすぐに覚えてくれたよ。

細野:
それは知らなかったな。

村井:
それで無事A&Mと契約して、単にA&Mのレコードを日本で売るだけじゃなく、我々のものをA&Mが全世界で売るという路線をそこでひくことになったんだよ。その伏線があとで生きてくるんだけど、一方で、僕は、細野晴臣の才能は絶対世界に通用すると信じていたんだ。だからふたりで「世界で売れるものを作ろうよ!」ということから始まったんだよね。

細野:
なんかね、箱根の温泉に招かれて、古い旅館で温泉につかりながらその話をされたことがありますね。

YMO誕生前夜

村井:
イエロー・マジック・バンドの起源というのはブラックマジックのもじりですよね?

細野:
そうですね。ブラックマジックとホワイトマジックがあって、日本人なんだからイエローマジックでいいんじゃないかって。東洋は魔術的なとこもいっぱいあるしね。

村井:
そのイエロー・マジック・バンドのレコードを出して何か月も経たないうちに、シンセサイザーを使った、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の録音に入るんだね。その経緯を説明してくれる?

細野:
『はらいそ』というソロアルバムを作ったときに、名義にイエロー・マジック・バンドと表記しちゃったんですよね。

村井:
実際の制作はどういう過程で行われたの? 最初に高橋幸宏に話したんでしょ?

細野:
事務所というかマネージメント同士がわりと近いところにいたので、すぐに伝わって、幸宏が目を輝かせて飛んできたんですよ。まだ構想しかなかったけど、これはうれしかったですね。それで、2人で、もう1人はどうしようと。もともとは違うメンバーで僕は考えていたんですよ。でも、みんなに断られて、幸宏の提案だったか、マネージメントの提案だったか、坂本龍一君の名前が出てきて会うことにしたんです。当時、彼はスタジオでアレンジメントばっかりやってたんですよ。バンドの経験がないからおびえていたんですね。

村井:
そうなの。

細野:
ちょっと引き気味だったんだけど、なんとか説得して3人でやり始めたんです。

村井:
録音の最初の1曲目って覚えてる?

細野:
「ファイヤークラッカー」です。

村井:
マーティン・デニーのあれか!

細野:
最初、念のためにコンピューターを使わずに生演奏で録音してみたんです。そしたら全然おもしろくないんですね。やっぱりこれからはコンピューターでやるべきだと確信を持って「ファイヤークラッカー」を作り始めたんです。

村井:
シンセサイザーの導入という点では、どういうことがアイデアになったの?

細野:
当時、冨田勲さんがドビュッシーの『月の光』というすばらしいアルバムをリリースしたんです。

村井:
アメリカのチャートにも上がったよね?

細野:
抑揚があって緩急がある。コンピューターでこんなことができるんだ。これはスゴイ! と思って、ジャケットに名前のあったコンピューターを操るマニピュレーターの松武秀樹さんを訪ねたんです。そうしたら同じ時期に坂本君も興味があったみたいで、松武さんを訪ねていたんですね。そこから、コンピューターと接する機会がいっぱい出てきて、「ファイヤークラッカー」のときに松武さんに来てもらったんです。それであのような音源ができたわけです。

村井:
時々スタジオに行くと、ピーッ、ピーッって、あれは音を作っていたんだね。YMOの初期は手作りの音だったんだ。

細野:
それが楽しかったんですよ。今は複雑で作りにくいから全然楽しくないんですよ(笑)。

村井:
そうやってできあがったイエロー・マジック・オーケストラのアルバムをA&Mに駐在してる若い駐在員がマーケティング会議にかけたんですよ。そうしたら、頼んでもいないのに若手がこのレコードを出す方向にどんどん動いて、ジャケットに髪の毛が電線になっている芸者の絵を用意するくらい現場がノッちゃって。それから、新宿の紀伊國屋ホールで【アルファ・フュージョン・フェスティバル】というのをやったわけですよ。YMOはカテゴリーのない音楽で、全然フュージョンじゃないのに、持っていく場所がないから無理やり突っ込んだんだよ。そこにアメリカからニール・ラーセンというキーボードプレイヤーが参加することになったので、トミー・リピューマがロサンゼルスからコンサートに来た。そして、YMOを見たんですよ。それで彼が「これをやろう!」って言ったから、下の方も上の方も全部合意ができて、YMOをアメリカ、ヨーロッパで売ろうということになったんです。

細野:
すごいですね。こんなことめったに起こらないですよ。

村井:
やっぱり現場の人が頑張ってくれないと、レコードなんて売れないんですよ。だからYMOの最初のヒットって、フロリダ州のとんでもない田舎のディスコティックとか放送局だったよね。

細野:
R&B部門だったよね(笑)。

村井:
ジャズでもないし、部門って困っちゃうよね。

細野:
ジャンル難しいですよね。テクノという言葉もまだなかったですからね。

村井:
だから新しいジャンルを作ったんだね。そうやって現場の人の努力でレコードが売れ出して、1979年の夏、(ロサンゼルスの)グリークシアターでみんなが熱狂したんだよね。

細野:
それもすごかった。テレビ中継もやったんでしょ?

村井:
やった。

細野:
反応が非常によかったので「何が起こったんだろう?」という気持ちでしたね。

村井:
それがきっかけでYMOは世界に出て行ったんです。

細野:
いろいろなきっかけがあったんですね。

村井:
何層にもいろいろなことが重なって、いま僕たちが話していないこと、知らないこともたくさんあると思うんだけど、実に多くの人たちの努力によって、世界的な成功につながったんだね。

細野:
予測していなかったことがどんどん起こりましたね。

村井:
YMOが成功したあと、何か変化を感じたことはありましたか?

細野:
それは、ありますよ。日本に帰ってきたら様子が違うんですよ。なんか人気が出てるなと。そのうちパチンコ屋さんから「ライディーン」が聴こえてきたり、小学生にあとをつけられたり、クルマを運転していると外から指をさされたり、これじゃ街を歩けないなって、大きな変化にびっくりしました。それも全部村井さんのせいですよ(笑)。

村井:
それは申し訳ないけど、売れるってそういうことなんだろうね。どうして自分は日本の音楽を世界に出したかったのか? 自分でも分析できないけど、一つは小さい頃からジャズとかの外来音楽を聴いて育ってきた日本人が作った音楽をさらにポリッシュアップして、海外の人に聴かせて「どうだ!」って言いたかったの。

細野:
わかる。すごくわかるなあ。

村井:
もう一つは、僕は東京大空襲の6日前に生まれたんだけど、食糧難も覚えているし、疎開したことも聞いてるし、日本はまだ独立してないからね。なんとなく愛国心みたいなものがあるわけ、「日本がんばれ!」みたいな反発心があるわけよ。

細野:
そういう気持ち、日本人ならみんな持ってますよ。

村井:
そんなことを考えながら日本の音楽を海外に持っていきたいと思ったんだ。細野君もアメリカ音楽にずっぽりハマっていたわけだけど、沖縄やインドに行きだした心境って?

細野:
はっぴいえんどのときに、日本語でやることを計画して、松本隆君に歌詞を書いてもらうようになって、そういうときって日本の詩の歴史とか、優れた詩人を研究して、自分たちが立っている足元を見ることになるわけです。はっぴいえんどはロックをやっていましたが、そういうことも内心秘めていたんですね。それがゆくゆく沖縄に目を向けることになったんです。

村井:
実際にインドの音楽の影響を受けました?

細野:
受けました。影響を受けたのは、実は、ポップミュージックなんですよ。ラター・マンゲーシュカルという歌手がいたんですけど、その歌がすごくユニークで、(僕にとっては)テクノでした。

村井:
ロサンゼルスでの演奏会を僕が見に行ったのは、コロナのちょっと前だから2019年かな。楽屋には幸宏も小坂忠もいたね。

細野:
みんなそろっていましたね。

村井:
そのときに感じたんだけど、細野晴臣のアメリカ音楽に対する理解ってすごいなと思ったの。ロックだけじゃなく、ジャズの古い曲やいわゆるスタンダードソングなど、あれだけ20世紀のアメリカ音楽をよく知ってる人は、アメリカにもいないんじゃないかと思いますね。

細野:
確かに、一部分だけですけど、アメリカ人よりアメリカを知ってるかもしれないですね。

村井:
僕なんてロックのことはあんまり知らなくて、30年代、40年代の音楽が専門なんで、細野晴臣がこんなことやってる! ってすごくうれしかったんだよ。

細野:
僕も村井さんの中の30年代、40年代にすごい興味があります。

村井:
何かレコード作ろうか?

細野:
やりましょうよ、一緒に。現役なんですから。

村井:
やりましょう!


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