午後2時台を聴く
23/06/22まで
メジャーデビュー35周年を迎えた「筋肉少女帯」のボーカリスト大槻ケンヂさん。独特の世界観で多くのファンを獲得し、日本のサブカル界にも大きな影響を与えている大槻ケンヂさんにいろいろうかがいました。(聞き手:吾妻謙パーソナリティー)
【出演者】
大槻ケンヂさん(ロック・ミュージシャン/作家)
<プロフィール>
1966年、東京都出身。1980年、ロックバンド「筋肉少女帯」を結成。1988年、メジャーデビュー。バンド「特撮」やソロでも精力的に音楽活動を行う。小説家やエッセイストとしても活躍。
――テレビで拝見していたときから、大槻さんって、どういう人なんだろう? こわい方なのかな? と思っていました。そして、サブカルなどの話もされていたので、自分の薄っぺらさを見抜かれている印象があったので、きょうはドキドキしています。
大槻:
いや~薄っぺらいですよ(笑)。
――印象のヒビ割れメイクを見慣れていますが、きょうはされていないんですね。
大槻:
最近は筋肉少女帯のライブのときしか入れてないです。
――筋肉少女帯、デビュー35周年なんですね。
大槻:
1988年、昭和63年ですね。当時22歳でした。同期が「JUN SKY WALKER(S)」、「B'z」もそうかな? あと「エレファントカシマシ」らしいですよ。
――登場されて35年、その変化にご自身もいろいろ感じていますか?
大槻:
僕はミュージシャンになろうとしてミュージシャンになったわけではないので、今だったら動画サイトで、“やらかし系”になっていたかもしれないですね。なんか自分を表現したくて、当時、東京にいるとバンドが手っ取り早かったんですよ。それで、たまさかデビューしちゃったんですよ。
――デビューしちゃったのは、やはり筋肉少女帯のベーシストの内田さんとの出会いが大きかったんですか?
大槻:
彼とは中学1年で出会って「ちょっとバンドやろうよ!」って話になったんですが、二人とも楽器も持ってなかったんですよ。
――でも興味はあったんですよね?
大槻:
自分を表現したい中学生の活躍の場は、深夜放送に投稿するとか雑誌に何か書くくらいで、あまりなかったんですよ。ネットもなかったし。それで、東京にはライブハウスがいっぱいあって、そこに出れるんじゃないかと思ったんです。そのためにはバンドを組まなきゃ! そんな感じで始めたんですよ。
――私も中学生のときにちょっとバンドをかじったんです。
大槻:
何をやってたんですか?
――私も楽器ができなかったので歌をやりました。「RCサクセション」や「ハウンドドッグ」のコピーをやりましたね。あと「44マグナム」とか「アクション」とか「アースシェイカー」とかですね。
大槻:
けっこう熱唱されていたんですね。僕も「ハウンドドッグ」さんとかカバーしましたよ。
――でも、私は受験を理由にやめてしまいましたが、大槻さんのようにデビューできたのはすごいなと思います。
大槻:
16歳で「筋肉少女帯」を組んで、22歳のデビューなので6年しかかかっていないんですよ。若さってすごいですね。
――「筋肉少女帯」の歌詞の世界感って独特じゃないですか。
大槻:
インディーズ時代は本当に適当で、即興で歌っていましたね。デビューして、レコードにするからちゃんと歌詞を書くようになったんです。
――どこかで歌詞を学んだり、書きためていたりしたんですか?
大槻:
本を読むのは好きだし、ポエムや小説のまねごとはしてましたね。
――でも、あれよあれよのデビューでしたね。
大槻:
プロ意識のかけらもなかったな。デビュー2年で日本武道館のライブもやっているんですよ。本当に若さと勢いってすごいですよね。ちょうどバンドブームにもうまく乗っちゃったんですよ。それによって、いい目にも悪い目にもあったんだけど、人生でブームに乗るなんて人間そうはないじゃないですか。今にして思うと、若い頃にバンドブームに出会えてよかったと思いますね。
――『日本印度化計画』はどんなふうに生まれた曲ですか?
大槻:
僕は大学中退してるんです。大学に入ったはいいけど授業にもついていけないし、なにしろやる気がなかったんです。いわゆるモラトリアム学生ですね。で、大学に新学食と旧学食があって、やる気のない学生が旧学食に集まってくるんです。遊びに行くところもないので、そこで1日4食くらい安いカレーを食べていたんです。「いつも俺、カレーばかりたべてるな」と思い、渋谷から池尻大橋の地下鉄の中、2分くらいで書きました。
――俺にカレーを食わせろ! はすごいインパクトでした。
大槻:
今でも弾き語り(コンサート)でこの曲をやっています。古い曲をやるとお客さんは喜んでくれるんですよ。
――その後、大槻さんのエッセーには、この『日本印度化計画』は革命の歌である! と書いてありました。
大槻:
当時はそんなこと言いたかったんですね。でも、ただカレーが食べたいという曲なんですけどね。当時はインドにあこがれていたんです。
――インドに行くと人生観が変わるとかよくいわれていましたよね。
大槻:
沢木耕太郎さんの『深夜特急』とか読んであこがれた世代なんです。
――35周年を迎えても、音楽家じゃないという自覚があるそうですね?
大槻:
35年たってなおさらっていうか、もともと本当に僕は音楽をやろうとしてバンドを始めたわけじゃなくて、何か自分というものを表現したいって気持ちでバンドを始めたんですね。モテたいという気持ちもなかったですね。小説でも演劇でもよかったんだと思うんだけど、バンドか手っとり早かったんです。で、楽器ができなかったからボーカルになっちゃったんです。なので、いまだに自分が音楽家という気持ちがないんです。35年もやって、音楽の天才みたいな人たちをたくさん見てくると、自分は表現者ではあるけれど、とても音楽家なんて名乗れないですね。
サブカルとオーケン
――小説もたくさん書かれていますよね。
大槻:
ひところいっぱい小説書きましたね。自分が音楽家じゃないっていう変なコンプレックスがあるんで、その分いろんな仕事にトライしてみたんですけど、小説書くのが一番きつかったな。やっぱりゼロから生み出すんで、ちょっとクラクラするくらい。体力も使いますからね。
――自分を表現するのに、つらい小説を選んだのは?
大槻:
子どもの頃から本を読むのが好きで、小学生時代はお金がないんで、ずっと本屋さんの店の棚の前にいたんですよ。そのころの文庫本の背表紙の並びとか全部覚えてるもんな。
――どんな本に興味を持って読んだんですか?
大槻:
文庫本でいえば、星新一、横溝正史、江戸川乱歩、SF文庫の水色の背表紙とかずっと眺めていました。でもお金がないから買えないんですよ。
――でもどこかで読まないと、文章をつくるチカラはつきませんよね。たくさんお読みになった?
大槻:
そのころの本を読む少年は、まず、星新一先生を読むんです。そのあと、筒井康隆先生を読んで、そこから別れて行くんですよ。僕はSF文庫の、ロバート・A・ハインラインとかカート・ヴォネガット・ジュニアとか、アーサー・C・クラークとか、レイ・ブラッドベリとか、わからないなりに、そういうのを読んでいました。80年代ぐらいは、話しことばみたいに文章を書く「昭和軽薄体」なんていわれた、椎名誠さんとか嵐山光三郎さんとか南伸坊さんとか、その流れで中島らもさんも入ってくるんだけど、そういうライトエッセイ的なものを読んで、自分もこういうものを書きたいなと思ったのは、よく覚えてますよね。
――ご自身の何を表現しようと思ったんですか?
大槻:
小説を書くきっかけは、90年代の初めに“ミュージシャンに本を書かせよう!”ブームというのがあったんですよ。そこで『新興宗教オモイデ教』という短編を書いたんです。これは暗い屈折した高校生のSF小説で、当時の僕の思っていたこと、読んでいたことが文字になって書きおこされたんだと思うんですね。そうしたら編集者から「おもしろいから続きを書いてくれ」っ言われて、これは短編なんだけど・・・と思ったけど書いちゃったんですよ。で、そのまま、長編小説として出版されたら、また書いてほしいという感じになっちゃって。自分の中にたまっていた思いみたいなものが、文章として出るようになってきたんじゃないですかね。でも、そういうのって最初の頃だけで、だんだんそういうのが尽きてくると、本当にゼロからの妄想・空想で書いていかなきゃいけないんですよ。これはきつかったですね。
――『くるぐる使い』で、SF小説の賞「星雲賞」も受賞されましたよね。
大槻:
この小説は、吉川英治文学新人賞の候補にもなったんです。もちろん落ちたんですけど、本当に落ちてよかったと思っています。あの時に、まかり間違って吉川英治文学新人賞なんか受賞しちゃったら、次は直木賞だ! みたいに自分のキャパを超えて、全然ダメになっていたと思いますね。
――さらに飛躍の可能性もあるじゃないですか?
大槻:
まあ、考え方ですけど、そういうんじゃないなと思いますよね。20代は、自分がミュージシャンじゃないと思っていたので、テレビタレントさんをさせていただいたり、よせばいいのに、俳優で映画に出たりとか、ラジオのパーソナリティーなど、いろいろなことをやらせていただいたんですけれど、ライブをやるほうが向いているのかな? みたいな感じで、今は音楽のライブが中心ですかね。
――音楽家じゃないからこそ、いろいろと活躍の場が広がっていったということですか?
大槻:
自分はミュージシャンじゃないので、何かほかに向いてることがあるんじゃないかな? という気持ちは今でもありますよ。
――そうした中で、オーケンさんといえば、サブカル(サブカルチャー)のイメージです。
大槻:
僕が青春時代を過ごした80年代に、サブカルチャーっていうのは、その前のビートニクとかカウンターカルチャーとかの流れがあって、もっと学術的な難しいものだったんですよ。その敷居を下げて“サブカル”って呼ぶようになって、僕はその「サブカルの辺り」なんですよ。だからビートニクとかカウンターカルチャーになりきれなかったというコンプレックスがあります。やっぱり僕より上の世代のカウンターカルチャーやヒッピーカルチャーとか、そういう方々は本当に勉強されてますよね。あと「オタク」になりきれなかったという思いがあるんです。オタクの人って本当にすごいじゃないですか。突き詰めて研究してるじゃないですか。僕は突き詰めないんですよ。だからサブカルっていう軽いぐらいのあんばいが自分にちょうどいいのかなって思っているんです。
――そうなんですか。大槻さんがサブカルを語ってる時は、自分が知らないことを教えてくれることもあるし、広く話を展開していくこともあったから、何でも知っていてすごいな! って感じていました。
大槻:
突き詰めている方にはまったくかないませんよ。ただ、メインカルチャーじゃないところに常にアンテナを張ってるっていうのはありますね。80年代は、メインカルチャーがデーンとあって、みんなそこに集中してたから、テレビが発信源だったと思うんだけど、そういうところじゃない、映画にしろロックにしろ、ちょっとクラスの中心の人たちが目を向けないものに目を向けてるってことがせめてものアイデンティティーっていうか。自己存在証明だったというのがありましたね。でも今はネットがあるから、みんなすぐ1発で検索しちゃうから本当に難しいですよね。
50を過ぎたらバンドはアイドル?
――ミュージシャンじゃないとおっしゃっていても、「筋肉少女帯」が35周年で、ベストアルバムもリリースされるわけですよね。
大槻:
メンバーがちゃんとやってくれてたんですよ。僕は本当に神輿(みこし)みたいなもので担がれているだけですから(笑)。
――このアルバムの中の『50を過ぎたらバンドはアイドル』はすごいタイトルの曲ですね。
大槻:
真理をついていると思うんです。ロックって60、70年代に誕生して、若い人の主義主張のメッセージを叫ぶ曲だったじゃないですか。でも、そういう人たちって50歳を過ぎてるじゃないですか? すると、若き日の思いを叫ぶおじさん達の存在は「幻想」に近いと思ったんですよ。いま60歳くらいの英米のバンドを見に行くときに、その主義主張をシェアするために行くわけじゃないでしょ? 若いころのあこがれの人に会いに行きますよね。これって完全にアイドルなんですよ。
――じゃあオーケンさんを前にしてちょっと舞い上がってる私は、アイドルに会っている感覚なのかな?
大槻:
僕もそういう人に会うとそういう気持ちになりますよ。
――「JUN SKY WALKER(S)」の宮田(和弥)さんとの対談を読ませていただいたのですが、今のJ-POPの歌詞が、当時の「筋肉少女帯」の大槻さんのイメージと重なって、やっと時代が追いついてきたみたいなことをおっしゃっていましたね。
大槻:
ボカロなどの動画サイトを見るんですけど、みんな「自分vsこの世界」みたいな感じで、さらにうっ屈していて、若い頃の僕が書いていたような詞を、いまの若い人たちが書いてるんだよな。あれって何だろう?
――時代がオーケンさんに追いついたんじゃないですか。
大槻:
ロックっぽい歌詞をみんなが書かなくなったからだと思うんですよ。もっと、自己を見つめた自分の影の部分を表に出すという行為を始めたら、おのずと大槻ケンヂが書くような歌詞になってきたんじゃないかなという分析をしてるんですけどね。僕はそれを昔からやってたから。
――最後に、リスナーの皆さんにメッセージをお願いします。
大槻:
6月21日は「筋肉少女帯」が35年前にデビューした日なんですよ。その日にNHKの近くでライブをやります。ぜひ来ていただけたらなと思いますね。ベストアルバムも出ています。
――ますますアイドルとしてご活躍が続くということでよろしいですか?
大槻:
そういうことですね(笑)。はい、がんばりますよ!
【放送】
2023/06/15 「ごごカフェ」
午後2時台を聴く
23/06/22まで