安原眞琴さん あなたの知らない吉原文化

21/01/13まで

武内陶子のごごカフェ

放送日:2021/01/06

#インタビュー#ライフスタイル#歴史#江戸

ざっくりいうと

  • 吉原なくして日本文化の発展なし
  • おもてなしのルーツは吉原芸者
  • 2021/01/06 武内陶子のごごカフェ 「カフェトーク」 安原眞琴さん(江戸文化研究家)

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21/01/13まで

【出演者】
武内アナ:武内陶子アナウンサー
安原さん:安原眞琴さん(江戸文化研究家)


<安原眞琴さん プロフィール>
1967年、東京都出身。日本の中世・近世の文学、美術、文化を専門とし、日本の伝統文化の記録と継承を目的に活動。2013年には、吉原文化の最後の継承者、四代目みな子姐さんを5年間密着取材したドキュメンタリー映画を発表。現在は、立教大学、法政大学、青山学院大学などで講師を務める。

安原さん: 江戸時代は、歌舞伎、浮世絵、落語など、日本らしい文化が花開いた時代です。そのどれにも深く関わっているのが、二大悪所と言われた「遊郭(吉原)」と「芝居(歌舞伎)」なんです。この2つは元をただせば、同じ1つの種から芽吹いたものです。その影響は両者に残り、密接に関係しあいながら展開していった歴史があります。歌舞伎は日本を代表する伝統文化としてユネスコの無形文化遺産にもなりましたが、吉原文化は途絶えてしまいました。しかし、私は日本ならではの「おもてなし」のルーツは、吉原文化のことだと思っています。それを体現していた芸者さんのこと、その魅力を少しでも伝えていけたらと日々奮闘中です。

吉原はテーマパーク

安原さん: 1600年代初頭、急速に発展していく江戸の街に作られた幕府公認の遊郭です。元々は人形町のあたりにあった「元吉原」が、明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火(振袖火事)により、浅草方面に移転し「新吉原」と呼ばれるようになりました。吉原は、独自の規制を持った治外法権的な町でした。広さ2万760坪(東京ドーム1.4個分)に、ピーク時の総人口は約9千人(遊女約5千人+遊女屋で働く人々+町で働く人々)。他に娯楽のない時代、全国から多くの人々が集まる日本最大の盛り場でした。今でいうとテーマパークのような場所ですね。吉原草創期の遊客は、経済的にも余裕があり、教養もある大名や旗本や豪商たちでしたが、1700年代半ばを過ぎると、高利貸しなどを営む裕福な町人層へ。その後は一般大衆化していきました。しかし、昭和33年の売春防止法により、遊郭としての吉原は幕を閉じました。

吉原なくして日本文化の発展なし

安原さん: 上流階級の遊客のお相手をしたのは最高位の遊女です。遊女というと、娼婦の側面ばかりが注目されがちですが、江戸文化を支えた、いわば文化の功労者という面にももう少し目を向けられてもよいと思っています。
武内アナ: 文化を支えたというのは。
安原さん: そもそも遊女は、幼少のころから、古典や書道、茶道、和歌、こと、三味線、囲碁といった教養や芸事を仕込まれた才色兼備な女性だったといわれています。中でも、江戸時代前期に三大遊女として知られていたのが、京都の島原遊廓の「吉野」、大阪の新町遊廓の「夕霧」、江戸の吉原遊廓の「高尾」。彼女たちのような太夫は、当時のスーパーアイドルで、その髪形やファッション、行動が常に注目の的でした。似顔絵は浮世絵として出回り、広告に使われ、彼女たちをめぐって巻き起こるセンセーショナルな事件が小説に描かれ、歌舞伎の題材にもなりました。お金も人も集まる吉原は常に時代の最先端を行く「日本文化の発信源」でした。

現代にも続く吉原発の文化

安原さん: 今となっては当たり前といったガイドブックは、江戸時代の版元で、吉原の宣伝プロデューサー的役割を果たした蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が定型を作り、昭和33年の吉原消滅まで続きました。これは「吉原細見」といわれ、吉原遊郭内の遊女屋や遊女の名前、料金、地図などが記され、定期的に発行されていました。また、独自のイベントも多数実施され、人を呼び込むスタイルも、吉原発だと言われています。
武内アナ: 吉原ではどんなイベントがあったの。
安原さん: 他所で育てた桜を、春になると根のついたまま掘り起こして移植し、夜桜見物させました。広い江戸でも夜桜見物できるのは不夜城・吉原だけだったそうです。その後、花が散ったら抜き去るという贅沢なイベントも開催して人を集めていて、これは歌舞伎の舞台や浮世絵にもなっています。また、花魁(おいらん)から禿(かむろ)まで、遊女屋から贈られたお仕着せの衣装を着て、茶屋などを回る年始の「花魁道中」はとても華やかだったそうです。

おもてなしのルーツは吉原芸者

安原さん: 芸者は花魁と同一視されるなど誤解を持たれていますが、本来の役割は、お座敷という劇場で、音楽や歌などの芸術活動を行うエンターテイナーのことです。吉原の草創期には、遊女自身が芸道も担当していましたが、江戸時代中期ごろに、芸道のプロフェッショナルである芸者が登場しました。「芸は売っても身は売らない」という表現通り、吉原において、遊女と芸者は明確に区別されていました。芸者のフィールドは、おもに「引手茶屋」のお座敷。(大見世にいく遊客は、必ず引手茶屋で芸者たちと遊興してから遊女屋に送られる決まり)そうした上客たちをもてなしていたのが芸者でした。
武内アナ: 上客たちに行うおもてなしとは。
安原さん: 引手茶屋にあがった客は、お酒や料理、お座敷遊びを楽しみます。お座敷では、長唄、都都逸、踊り、三味線や鼓といった楽器演奏、ゲーム、手品まで行われていたのだそうです。芸者は、どんな芸でも披露できる芸域の広さと、耳の肥えた客を満足させるだけの芸の奥深さを備えていなければなりませんでした。
武内アナ: なんでもできて、流行にも敏感でなくては務まらなかったのね。
安原さん: 遊客も一流だったので、披露する芸も一流であるのが当たり前だったようです。江戸で、公的に芸者として認められていたのは吉原芸者のみでした。まさに芸者の頂点です。

最後の吉原芸者 四代目みな子姐さん

武内アナ: 吉原芸者の最後の1人を5年にわたって取材されたそうですね。
安原さん: 担当していた高校の授業で、芸を見せていただいたのがきっかけでした。吉原350年の歴史を一身に背負って生きてきた、みな子姐さん。この人を失ったら、吉原文化や吉原芸者について知ることはできないと思い、90歳で亡くなるまでの5年間、毎日のように取材させてもらいました。
武内アナ: 何がそれほど安原さんを夢中にさせたのですか。
安原さん: 江戸っ子気質でシャキシャキしていて、頭が良くて記憶力も抜群。音楽も歌も1度聞いたら覚えてしまう。人生はこうだよとか、私はこう思うなんてことは一言も発しない。言葉で自分を飾ることもしない。磨き抜かれた芸が素晴らしいのはもちろん、美しい立ち居振る舞い、気配り目配り、当意即妙なやりとり、会話の「間」まで、どんなものも敏感にキャッチしますといった感じで、まさに「千手観音的おもてなし力」の持ち主でした。
武内アナ: みな子姐さんというのは、どんな人生を歩んだ方なのですか。
安原さん: 大正8年の北海道生まれ。9歳の時に家族全員で上京し、11歳で吉原の芸者屋に奉公に入りました。寝る間を惜しんで芸を身に着けたと聞いています。戦争や東京大空襲、昭和33年の吉原遊郭の終焉などを経験し、以降は、吉原以外の花街のお座敷でも芸を披露されていました。平成の時代まで吉原芸者としての誇りと意地、プライドを見失わず現役で活躍し続けてきました。
武内アナ: みな子姐さんから安原さんが学んだこととは。
安原さん: 文化は人に宿り、人がいる限り伝承されるものだと教えてもらいました。吉原が消滅しても、その文化はみな子姐さんの心身に宿り、伝えてくれたと思います。しかし、みな子姐さんの死をもって、吉原の文化は本当に終焉を迎えたといえるでしょう。とにかく「ホンモノ」の人でした。あらゆるものに神経がいきわたり、軽やかだけど全てが超一流。私は、ホンモノってなんだろうとこれからも考え続けていくだろうし、ホンモノと思えるものを自分の中にも持ちたい。そういう人に私もなりたいと思っています。

今後の伝統文化に思う

安原さん: 今残る数少ない花街でも、文化を保存しようと様々な工夫が試みられていますが、京都祇園のお茶屋さんでさえも、客離れや廃業などといった問題を抱えています。日本伝統の「おもてなし」の心を守り継いできたお座敷、芸者文化に、少しでも関心をもってもらえればうれしいです。

聴き逃しは1週間です。みな子姐さんの歌声も聴けますよ。

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