13時台を聴く
21/09/10まで
14時台を聴く
21/09/10まで
ガールズメタルの文化を日本に根づかせたSHOW-YAが、昨年デビュー35周年を迎えました。今回は、ボーカルの寺田恵子さんにバンドの歴史とこれからの夢についてうかがいました。(聴き手:武内陶子アンカー)
【出演者】
寺田恵子さん(ボーカリスト)
<プロフィール>
1963年、千葉県出身。
1982年、バンドコンテストのレディース部門で優勝。
1985年、SHOW-YAとしてデビュー。
現在も、ガールズロックバンドのトップランナーとして活躍中。
――恵子さんがロックに目覚めたのは。
寺田: |
小学生の時、カルメン・マキ&OZの曲を聴いて自分と声が似ていることに感動し、マキさんの歌声に憧れ、この人のあとを継ぐと思いました。高校の文化祭で男子のバンドにボーカルで誘われた時もカルメン・マキなら歌うと参加しました。もともときれいなソプラノボイスで、合唱部に誘われたほどでしたが、自らのどを潰してハスキーボイスにしました。 |
SHOW-YAの歴史
寺田: |
高校の時、女性だけのバンドに誘われました。女性だけというのにかなり抵抗があり、3回断りましたが、そのバンドに今のメンバーがいて断りきれず参加しました。メンバーたちは、もうバリバリのロック少女でしたが、私はロックをあまり知らなかったので、みんなについていけるよう、必死にロックを聴きまくりました。 |
――もし、そうだったら、今の恵子さんじゃなかったですね。
寺田: |
1985年に「素敵にダンシング」という曲でデビューしましたが、売るためのメイクと衣装で、ちょっとアイドルみたいでした。 |
――そのころ、ロックバンドって男性でも難しい時代でしたよね。
寺田: |
1989年に「限界LOVERS」がヒットしました。当時は音楽番組もたくさんあったので、たくさんの人にロックを好きになって欲しくて、メディアにはたくさん出ました。でも、ロックバンドの人からは「テレビなんか出て」とばかにされたり「ロックじゃない」と言われたりもしました。同じ時期に活躍していたプリンセスプリンセスのライバルと言われ、仲が悪いと言われていましたが、あのころからずっと仲よしですよ。 |
脱退~そして再結成
――1991年にSHOW-YAを脱退されたのはなぜですか。
寺田: |
当時、すごく忙しく疲れてしまって辞めたいと思いつめていました。そして、メンバーにも相談せず脱退してしました。まさに寝耳に水ですよね。完全に歌を辞めて、実家の手伝いをして、就職も考えていました。SHOW-YAは、新しいボーカルを入れて、活動を続けましたが1998年に解散しました。 |
――再結成のきっかけは。
寺田: |
私はソロとして活動をしていましたが、やっぱりSHOW-YAがやりたくなって、メンバーに再結成を呼びかけました。でも、誰も信用してくれず、会ってもくれず、5年かけて説得しました。再結成で音を出した時、不思議なくらい空白を感じず笑ってしまいました。 |
新たな挑戦、世界進出へ
――新しいアルバム「SHOWDOWN」は、かなり世界を意識して作られたのですね。
寺田: |
全曲英語で歌っている超ヘビメタなアルバムです。特にヨーロッパを意識して、これまでよりもキーボードの音をメインに考えました。日本のメタルシーンは、世界でも実力が認められているので、それを届けたいという強い気持ちと覚悟を持って作りました。 |
――英語で歌うことは大変でしたか。
寺田: |
発音や言葉の意味についても、考えながらレコーディングしました。でも、メタルを歌うには発音がきれいすぎると言われました(笑)。 |
――みなさんは“アラ還世代”ですよね。新しい挑戦をすることに、ためらってしまう年齢ですが、世界進出をしようという挑戦のエネルギーの源は何ですか。
寺田: |
オリジナルのメンバーで続いている女性バンドというのは世界的にもあまりいないと思います。そこは誇りとプライドを持っています。我々アラ還バンドに世界の人たちがどんな反応をするのか楽しみでドキドキです。 |
――これからの目標は。
寺田: |
40周年は見えています。45年、50年と走っていくためには、まずは健康でいることだとみんなで思っています。若い女の子バンドの後押しもしていきたいですね。陶子さんいっしょにコンサートに出ませんか。 |
――ヘッドバンギングのために首を鍛えておきます(笑)。
【放送】
2021/09/03 「武内陶子のごごカフェ」
13時台を聴く
21/09/10まで
14時台を聴く
21/09/10まで