戦場に行った作家たち①~林芙美子~

高橋源一郎と読む 戦争の向こう側2021

放送日:2021/08/13

#文学#読書#戦争

終戦から76年。私たちが当時を知る貴重な手掛かりの1つが、戦争について書かれた文学作品です。番組では、作家・高橋源一郎さんが選んだ作品を通して、「戦争とは何か」を考えます。
司会は源一郎センセイと、詩人の伊藤比呂美さん。
4回目のことしは、「戦場に行った作家たち」がテーマです。
番組前半は、女優の鈴木杏さんをゲストに迎え、『放浪記』でおなじみの林芙美子を取り上げます。
林は、女性では数少ない従軍作家として、中国や東南アジアを歴訪。中国戦線での兵士たちの姿を勇ましく描いた『戦線』は、当時のベストセラーとなりました。番組では、林の従軍作家としての活動を紹介した後、終戦直後に書かれた小説『ボルネオ ダイヤ』に焦点を当てました。

【出演者】
高橋:高橋源一郎さん(作家)
伊藤:伊藤比呂美さん(詩人)
鈴木:鈴木杏さん(女優)

『ボルネオ ダイヤ』――“戦場”から遠く離れて

高橋源一郎さん

高橋:
『ボルネオ ダイヤ』という、戦後すぐに書かれた、あまり有名じゃない短編なんですけれど…これはどうでした?

伊藤:
(苦笑)。

高橋:
正直に言っていいんだよ。

伊藤:
いまいちでした。

高橋: 伊藤さんは正直なところがいいよね。
僕は、すごくよかった。
伊藤: うそ? どうして?
高橋: 内容をちょっと言います。『戦線』は昭和13年に中国へ行ったときのの記録をもとに書いたんです。こちらは昭和17年に、シンガポール、ジャワ、ボルネオ、スマトラ島のあたりに――戦火の激しいときじゃなくて落ち着いたころに行って、8か月ぐらい過ごしたときの記憶をもとに書いた小説。
伊藤: 戦後書いたんですよね。戦後すぐ?
高橋: 昭和21年だから、戦後すぐだと思います。
これは、女優の鈴木杏さんに読んでもらいました。
鈴木杏さんは、ご存じの方が多いと思いますが、CM・テレビドラマ・映画・舞台で大活躍しています。
鈴木さんは現在、芙美子が従軍作家として中国にいた年齢と同じ年なんです。
『ボルネオ ダイヤ』をどう読んだのか。朗読も含めてお話ししてきましたので、お聞きください。

鈴木杏さん

高橋:
林芙美子のイメージって、なんとなくありますよね?

鈴木:
やっぱり『放浪記』のイメージが一番強いかな。

高橋:
実は僕もそうでして、それ以外は意外と手が伸びなかったんですが、今回初めてほかの作品を読んだんです。
すごい作家ですね。

鈴木: 『ボルネオ ダイヤ』、おもしろかったです。
戦争を題材にしている作品でも、「場所も時間も戦争真っただ中」という作品には触れたことがあったんですけれど、日本から離れているところでのお話を読むのが初めてだったんですね。その距離感も、こと細かに書かれているわけではないんだけど、“肌感”で遠さだったり、「何か気配はあるんだけど、実感というものがつかみきれない」みたいな、モヤッとした感じが書かれている。
感覚的な部分がとてもおもしろかったです。
高橋: 林芙美子の『放浪記』は女の一生みたいな話なので、戦争と関係ないじゃないですか。だから戦争と林芙美子って僕もあまり関係ないと思ってきたんですけれど、実は深く関わっている。もしかすると、日本の作家の中では一番深く関わった人じゃないか――というのが驚きなんですね。
従軍作家として中国へ行ったり、それから南洋に行ったり。そこまでつきあった人はあまりいないんです。
しかも女性だから、だいたい戦争に行かないでしょう。本来なら行かない女性が戦争へ行ったということで、とても特異な体験をしたと思うんです。
鈴木: 満州事変の時期に1人旅にも行かれているじゃないですか。亡くなる間際も、お医者さんに止められたのに取材に行った、というお話も。
高橋: 林芙美子って、代表作のタイトルが『放浪記』だし、最後の傑作が『浮雲』でしょう。ずっと「流れて」いる。本人が流れ流れていく人なんだよね。
この『ボルネオ ダイヤ』の女たちも、流れ流れていく。共感しているところがあるんだよね。留まらない。「そのへんの気持ちはわかるな」と。

杏さんに『ボルネオ ダイヤ』の1節を読んでいただきましょう。
これは鈴木杏さんがご自分で選んだ場所です。


昨夜、最後に別れるまで、澄子の死ぬほどな悩みを考えられなかった自分の浅はかさが自分で苦しかった。澄子が死んでも、別に誰も取り乱して泣いているものもない。不思議なことには、儲(もう)け屋だというお神さんだけが少しばかりハンカチを目に当てて泣いていた。「おかみさん泣いていたわね……」まさきが自動車の中で思い出したように云(い)った。「気まぐれだからさ……」黒子とあだなのある色の黒い大柄な靜子が薄情なことを云った。――タキソンの浜辺の小高いところにあるパサングラハン(官営旅館)に着いたのは昼ごろであった。たとい赤茶けた泥色にもせよ、広々とした海の景色を前にすると、みんなもうはしゃぎきって、勝手なおしゃべりを始めている。海というものは青いものだと思っていた女達の眼には、このタキソンの赤い海の色は、何とも落魄(らくはく)の思いを深めるばかりであった。球江は茹(ゆ)で卵をむいて食べた。澄子の悲惨な表情が浮んでくる。わたしは悪い女なのかしら……球江は、何も彼(か)も虚空の彼方(かなた)に忘れがちになっている自分のこのごろの感情を呆(あき)れて眺めていた。古ぼけて、いまにも朽ちてしまいそうなバンガロ風の板敷の広間で、女達は弁当をひらいた。管理人のヅスン族の男がぬるいコーヒーを淹(い)れて来た。「静かねえ、戦争なんて何処(どこ)のことかと思う位ね」


高橋: なんでここを?
鈴木: この作品の全部が詰まっている箇所だな、と。
「死」というものと、それに対していろいろ思いながらも前を向いている人。あと、<赤い海>
高橋: 「青い海」じゃなくて、「赤い」んですよね。
鈴木: <赤い海>というところもこの場所を指しているし、ゆで卵をむいて食べるのも…。
高橋: 妙にリアルですね。
鈴木: そう。ゆで卵をむいて食べながら「わたしは悪い女なのかしら……」と思うのが、まさにこの作品のギュッと濃縮された場所だなと思ったので、ここにしました。
高橋: 日本から売られてきた女たち。南洋で商売をしていて、澄子という女性が前の夜に自殺するんですよね。好きになった兵隊がいたんだけれど、一緒に逃げようとしたら結局うまくいかなくて、その兵隊は捕まっちゃった。
澄子が絶望して亡くなったあとの話なんですけど、さっぱりしている。
鈴木: そうなんですよね。私、球江さんという主人公がとても魅力的だと思っています。
東京で1度子どもができて産んでいるんだけど、相手にその子どもを養子に出されちゃって、フラッと広島から出る船に乗っちゃう。
どこかで自分の人生が変な方向に転がっていることに気づきながらも船に乗り、たどりついたら聞かされていた話と違うんだけれど、「まあいいか」と、淡々と日々を過ごしている。
<何も彼も、虚空の彼方に忘れがち>みたいな、とても冷静で、諦めのようなのも見えながらも、おもしろいバランスの女性だな、と。
高橋: 魅力的なのが球江さん?
もし杏さんが球江と同じ時代に生きていたら、どうだったんでしょうね? どう思って生きたんでしょうね?
鈴木: すごく窮屈に感じていたと思います。窮屈だと思うし、疑問を持っていたでしょう。
高橋: でも、きっと反抗もしにくいよね。
鈴木: 今も、ちょっとそういうところがあるじゃないですか。まさに今、今の時期。
たぶん、戦時中に自分がいたとしても、同じように世界を見ていたんじゃないかと思います。
高橋: 何も変わっていないのかもしれないと思うと、怖いですね。
過去の作品を読むと、そういうことが考えられる。過去の話なんだけれど、発見があるんだよね。「これって、過去の話じゃなくて、今じゃん」と思えたら、今が違って見える。球江のようにやるのは難しいですね。
鈴木: 難しいですけれど、このようにいたいと思いました。
最後のひと言が、まさにそういうことなんだよな、と。
高橋: <「静かねえ、戦争なんて何処のことかと思う位ね」>
しみじみするよね。
鈴木: この話自体、あと半ページぐらいで終わっちゃうじゃないですか。
高橋: たぶんこのひと言が書きたかったんじゃないかと思うんだよね。
鈴木: 私もそう思います。
高橋: 戦争といっても、戦争映画みたいに派手じゃないけれど…。
鈴木: そこじゃないところから見た戦争。
高橋: それが林芙美子のたどりついた戦争観なのか、という感じですね。ありがとうございました。
鈴木: ありがとうございました。

林芙美子という作家の本質

高橋: 『ボルネオ ダイヤ』の主人公は、慰安婦の人たち、日本人です。
これは恐らく、林芙美子が日本から南洋に行くとき、船に同乗していた人たちのことを観察して、それをもとに書いたと思うんです。
女性作家が慰安婦のことをきちんと書いたものって、これぐらいしかないんです。
男性作家はあるんだよね。
伊藤: いっぱいありますよね。
高橋: 特に女性は戦争に行ってないからね。だから知らない。林芙美子が、いわば女性作家としてはきちんと発見をした。
伊藤さんは、どのように読みました?

伊藤比呂美さん

伊藤:
内地を離れて外地に行って、しかも慰安婦の仕事をしていたら、「こんなもんじゃないだろうな」というのがあるんですよ。
それから、現地のことばをいっぱい入れてあるでしょう。入れてはあるんだけれど、入れ方が「ちょっと知って、入れました」みたいな感じで、深く考えていないように私は感じちゃってね。

高橋: 林芙美子という人は、「すごい作家か?」「深く書いたか?」というと、ちょっと違うと思うんだよ。
『放浪記』にもあるように、林芙美子の本質は「流されていく」ところにある。
伊藤: そうね。「流されていく」という感じよね。
高橋: 林芙美子という人は、今で言う大ベストセラー作家なんですよ。『放浪記』や『戦線』は、当時の評価としても桁違い。
ベストセラー作家というのはどんな存在かというと――自分がベストセラー作家じゃないのでわかるんですけど――大衆の感性と共感する人。人々の気持ちに連動しちゃうんだよ。
伊藤: なるほど。わかった! これを、そのときはみんなが読みたかったわけね。
高橋: そうそう。つまり、「あの戦争の中でも、こういう人はいたんだ」「戦争に全員が行っちゃったわけじゃないんだよ」というものを読みたいときには、それが出てくる。
反省もしていると思いますよ。でも同時に、深刻に反省して書いたというよりも、「やっぱりあれは間違っていたんだなあ」というように「流されていく」。
伊藤: それがつまらないの。もっと孤独だっただろうし、もっと帰りたかっただろうし、もっと寂しかっただろうし、もっと地に落ちた感じだったと思うのに、そこが出てきていない。
『放浪記』や詩は、今回初めて読んだんですよ。ものすごくよかったの。
高橋: 林芙美子の詩のよさというのは――僕もすてきだと思ったんですけれど――どういうところ?
伊藤: ことばづかいが自由。民謡の音――音というか、歌い方――も入れてあるんですけれど、何もまとめない。どこまでも大風呂敷を広げていって、広げっぱなしになって、いきなり終わる。
それって、今の私たちだってやりたい形の詩の書き方でしょう。
高橋: そんな詩を書いていた林芙美子が『放浪記』を書いてベストセラー作家になって、そこから戦争へ参加していく、という道があるんだよね。
女性で自由な詩を書いていて、大正リベラリズムの薫陶を受けている――彼女はアナーキズムやダダイズムの洗礼も受けている――にもかかわらず、戦争へ向かってまっしぐら。
伊藤: 特に、国に加担をするわけでしょう。助けるというか、協力するというか。そこですよね。
高橋: 僕は、林芙美子という作家はすごいと思うんです。なぜかというと、作品がすごいというよりも、日本の国民の無意識に合わせることができた。自分の作品をそちらへ向けていった、ということだよね。だから反省もする。
いろんなものを見ているんだけど、でも、いつも「自分は違うよ」ということは言わないんです。
伊藤: それって詩人の役目だったりもする。
高橋: ああ、そうか。
伊藤: 何かがあったときに、まず最初に感傷的なことを書く。それが詩人の役目だった。
詩人体質を持っていたのに、詩から離れて散文を書いて、ガンガン売れるようなエンタメ作家になった――というのが林芙美子の悲しいところだと思う。
高橋: でも、「国のために書く」という詩人の道もあるわけじゃない。それはちゃんと全うしているといえば全うしているんですね。
従軍ものでも、石川達三や火野葦平だと、どこか「この戦争はおかしいよ」という同調しない部分がある作家もいる。全く同調しちゃう男の作家もいますけれど。
でも、林芙美子の場合は、国民というか、兵士に同情しちゃっていたよね。「息子」というか、「同胞」というか。それが林芙美子の特徴なのかなと思いますね。

【放送】
2021/08/13 高橋源一郎と読む“戦争の向こう側”2021


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