作家・高橋源一郎さんがセンセイとなって、1冊の本をテキストに現代社会の課題やひずみを考察し、生き方の指南役となる「ヒミツの本棚」。今回のテキストは上間陽子著『海をあげる』です。著者の上間さんは、琉球大学教授として沖縄で未成年の調査・支援を続け、おひとりおひとりにじっくり向き合って寄り添い、聞き書きを行ってきました。そんな声がつづられた作品はとても心に突き刺さります。
【出演者】
高橋:高橋源一郎さん(作家)
小野:小野文惠アナウンサー
作家・高橋源一郎さんがセンセイとなって、1冊の本をテキストに現代社会の課題やひずみを考察し、生き方の指南役となる「ヒミツの本棚」。今回のテキストは上間陽子著『海をあげる』です。著者の上間さんは、琉球大学教授として沖縄で未成年の調査・支援を続け、おひとりおひとりにじっくり向き合って寄り添い、聞き書きを行ってきました。そんな声がつづられた作品はとても心に突き刺さります。
【出演者】
高橋:高橋源一郎さん(作家)
小野:小野文惠アナウンサー
高橋: | きょうの本は、上間陽子著『海をあげる』です。 |
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小野: | 上間さんは1972年、沖縄県生まれです。琉球大学教育学研究科の教授で、専攻は教育学。生活指導の観点から主に非行少年少女の問題を研究されて、現在は沖縄で未成年の調査そして支援を続けていらっしゃいます。 |
高橋: | 上間さんの名前が一般読者に知られたのは、初の単著となる『裸足(はだし)で逃げる』。 |
小野: | こちらの本ですね。 |
高橋: | これもすばらしい。上間さんのメインの仕事である、少年少女たち…沖縄の夜を生きる少女たちがどう暮らしているかを聞き書きしたお話で、すばらしいものなんですが、そのあとを継いだというか、その2作目が『海をあげる』という本です。 これ(『海をあげる』)は「ノンフィクション本大賞」を受賞しているんですが、「ノンフィクション」というと、ドキュメンタリーや「事実を調べたもの」と思いがちです。 『裸足で逃げる』は確かにノンフィクションだと思います。 これ(『海をあげる』)はエッセーのようなところも含んでいます。上間さんが調査した女の子たち・男の子たちのことも出てくるし、何より上間さん本人のことが結構書かれているので、自分のことを書いたエッセーと一緒になっています。 最初に言い訳なんですけれど…いつも思うんですけれど、魅力的な本を紹介するのは本当に難しい。書き手として言わせてもらえば。 |
小野: | 言い訳ですね(笑)。 |
高橋: | 「どうしたらいいんだろう?」と。 「これ、おもしろいよ」と言ってしょうがない。なので、工夫してみることにしました。うまくいけばいいんですが…。 |
高橋: | これは、いくつもの章に分かれています。 「第1章」とはついていないんですが、「美味(おい)しいごはん」という章があるんです。ここはとても大切な章なんですが、これを最後に回します。なぜ最後に回したかは、後ほど。 さっきも言いましたように、上間さん本人のことも書かれていますし、調査した女の子たちのことも書かれています。 途中にある「波の音やら海の音」という章は、調査をもとに書かれたエッセーのようなものだと考えてください。3人の子が出てくるんですが、そのうち2人のことを読んでみたいと思います。 |
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治療を受けている子どもがいるから、インタビューは自宅でうけたい。そう言われて、心電図をとる機械と人工呼吸器をつけて眠る、長い髪をした小さな女の子のそばで、その子の母親の話を聞いたことがある。
美しい横顔をした母親は、途切れ途切れに語りだす。
[…]
生まれたばかりの子どもを夫に預けて娘のことをずっと抱いていたら、「そしたら前みたいにママと言った」。色あせたバービー人形のような顔をして、彼女は小さくふふふと笑う。
眠るあの子は、以前は「ママ」と言うことができて、泣くこともできる子だった。
「病気? 事故?」と少しだけ踏み込んで尋ねてみる。「事故。溺水(できすい)。家の風呂で溺れて」と、彼女はその日のことを話しだす。「誰がみつけた?」という問いかけに、「自分」と応えたあとで泣きだしてしまった彼女にかける言葉はたぶんこの世のどこにも本当にない。
泣きやむまで待ってから、「なにか私に聞きたいことはない?」と尋ねてみるけど、「聞きたいことばかりだけど、いざとなるとなにも出てこない」と彼女は言葉を繋(つな)げない。
彼女がだれかに聞きたいのは、眠るあの子がもう一度ママといって、目覚める日がくるかだろう。なにもいってあげることができないから、願かけのような願いごとのような、眠る子どもの長い髪を撫(な)でてから、「またね」といって家を出る。
高橋: | ここで1人おしまいです。 もう1人。 |
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ママとあちらこちらに移動しながら大きくなったと話す、一七歳の母親のインタビューも静かだった。
ママがつきあっていた男性が○○にいたから○○に行った。ママが殴られたからシェルターに入った。中学生のときにできた彼氏が一緒に住みたがったから、寮のあるピンサロで仕事をしていた。妊娠したけど仕事しろって彼氏にいわれて、出勤前に立ち寄ったローソンで貧血で倒れて救急車に乗せられた。救急車のなかで妊娠してますかと尋ねられて、妊娠していると答えたら救急隊員がママに連絡した。病院にやってきたママがあんなオトコの子どもを産ませるわけにはいかないっていって、病院から退院した帰り道、目に入った看板の病院を訪ねてまわり、手術してくれるっていった病院で、その日のうちに子どもを堕(お)ろした。しばらくして彼氏ができて、すぐに妊娠してこの子が生まれて結婚したけど、旦那は仕事が終わると友達と遊びに行く。旦那のお母さんとママは仲が悪い。だから自分のせいで仲が悪いんだって思うようにしている。休みの日は、家族で一緒にドライブしたり買い物に行ったりしたいけど、旦那が連れて行ってくれないからこの子と毎日ふたりで家にいる。妊娠中は自傷していたけれど、いい方法が見つかったからいまはもう切っていない。
小野: | 手首を切る、ということですか? |
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高橋: | そうですね。 |
黙りがちな彼女に、いい方法ってなぁにと尋ねてみると、「ゲーム」と彼女は答える。それから腕に刻み込まれた傷を押さえて、「イヤホンで、音楽聞きながら眠るのが好きなわけさ」と言ってその子はぷっつり黙り込む。
それからすぐ、子どもを連れて、彼女はどこかにいなくなった。
*
未成年のときに風俗業界で働きはじめた女の子たちへのインタビューの帰り道では、ときどき泣いた。三年前にはじめた、一〇代でママになった女の子たちへのインタビューの帰り道では、ときどき吐く。彼女たちがまだ一〇代の若い母親であることに、彼女たちに苦悩が不均等に分配されていることに、私はずっと怒っている。
インタビューが終わると海が見たくなる。ひとりで仕事をしていたときは、ときどき海に立ち寄った。いまはただ、寝息を聞くためだけに娘のそばに横たわる。
今日聞き取った苦悩も、いつかは自分の身体ごと消えていくのだとも思う。それまではどんなことがあっても、日々は続いていくのだろうとも思う。日々が続くのならば、今日聞いたあの苦悩もまた、違った意味を持つ日もあるのだろうとも思う。
波の音やら海の音。娘の寝息は波のゆれる海を思わせる。もう少し待てば、東の空が明るくなって、たぶんもうすぐ朝がくる。
高橋: | 背景にはたくさんの上間さんのインタビュー、調査、聞き取り・聞き書きがあって、これはほんのちょっとだけ抽出してエッセーの形にしたんです。 上間さんはいつもこうやって彼女たちの横に寄り添って聞いているんだな、ということがわかる文章です。「こういうふうに人の話を聞き取ることができたらいいな」と思わずにはいられないんですが。 前著の『裸足で逃げる』というのに、たくさんのエピソードがある。言ってみれば、その舞台裏をほんの少しだけ教えてくれた本です。 |
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小野: | 難しいでしょうけれどね、この取材。 |
高橋: | 難しいです。 全体としては、上間さんのことば――上間さんがどんな人か、ということ――が背景にありながら、いろんな人が出てきます。 |
高橋: | さあ、ここで冒頭にいきましょう。 「美味しいごはん」というタイトルがついています。<私の娘はとにかくごはんをよく食べる。>というところから始まります。 |
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歯がはえると、「てびち」という豚足を煮た大人でもてこずるような沖縄の郷土料理を食べていたし、三歳くらいになって外食するようになると大人なみに一人分の料理を食べていた。
高橋: | たくさん食べるお嬢さんがいらっしゃるんですね。 |
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ひょいと娘を抱き上げながら、食べることが好きな子でよかったとつくづく思う。そして、娘にごはんのつくり方を教える日が来ることを楽しみに待つ。自分のためにごはんをつくることができるようになれば、どんなに悲しいことがあったときでも、なんとかそれを乗り越えられる。
*
私には食べものをうまく食べられなかった時期がある。二七歳のとき、たぶんもう離婚しかないと思いながら、離婚の話を進められずにいたときだ。
高橋: | この章は、その離婚に至る話です。 そのときの夫の方が、地方に仕事で赴任していたときです。 |
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離れて暮らして三カ月たったころのクリスマスの翌日、東京にやってきた夫とゆっくり過ごし、夜になってからこれまでのことをきちんと聞いた。長く恋人がいたこと、その恋人は近所に住んでいる私の友達であること、ひと月前に別れたこと、いまはもう、私の友だちに新しい恋人もできたということ。
長い時間をかけて話を聞いて、「で、これを聞いてどうしろと?」と聞くと、「もうウソはつきたくないと思った。それに陽子はなんでも、知らないよりは知ったほうが理解できるっていうから」と夫は言った。
たしかにそれはそのころの私の口癖だった。
「うーん、でも、さすがにこれは、墓場まで持って行ってほしかったなぁ」[…]
高橋: | 翌日の夜、上間さんは…。 |
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[…]近所に住んでいる別の友だちの真弓の家に電話をかけて、それからすぐに会いに行った。
真弓は、私の友だちで夫の元恋人の親友でもある。
高橋: | 真弓さんは「離婚やな」と言ったあとに、「あのな、陽子、死んだらあかんよ」と。 ここから上間さんの苦しい日々が続きます。 問題になった女性のところに行きます。一番上間さんが困惑したのは…。 |
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「なんで私のつくったごはんを食べたの? なんで京都に帰るっていうときに、私に植物の面倒をみるように頼んだの? なんで隣の家に住み続けていたの?」
高橋: | 隣の家に住んでいたんですね。 |
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私の質問に彼女はなにひとつ答えなかった。そして、「離婚するのをずっと待ってた。でも一度も離婚するって言われたことはなかった」と言うと、今度は顔を覆ってさめざめと泣き出した。
泣いているひととは話ができないから、泣き止むのを黙って待つ。泣いている彼女はとてもはかなげで美しくて、なんだか京都の女って本当にタチ悪いなぁと思いながら、[…]
高橋: | …と書いているんですね。 |
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本当に苦しかったのはそのあとだ。夫に恋人がいた、それが私の友だちだった。いまはもうふたりは別れていて、彼女には新しい恋人ができたらしい。つまり、私にいま残されたのは、夫のことを許すか許さないかの選択しかない。
咀嚼(そしゃく)して咀嚼して、これはもう私には受け入れることができないとわかったとき、私の前に現れたのは、まったく音がなくて、ごはんが食べられないという時間だった。
高橋: | ここで「ごはん」が。このとき、ごはんが食べられなかったんですね。 シカゴの友達にメールをしたら、ある日いきなりシカゴにいたはずの友達が玄関の前にいます。 |
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「韓国で仕事があったからついでに帰国した」と和美は言うと、イギリスで習ったというイタリア料理をつくって私を椅子に座らせて、ぽつりぽつりとしか話せない私の話を一晩中聞いて、翌日になると新宿まで送れと私を連れ出して東京のお土産をたくさん買って、そのお土産をいくつも私に渡して「ハグハグ、キスキス」と言いながら新宿の雑踏のなかで私のことを抱きしめた。
「あのね、東京が嫌ならシカゴにおいで。部屋はあるからいつまでいてもいいし、一緒に美味しいものを食べ歩こう。だからとにかく何かを食べて」
高橋: | 結局2人は離婚することになります。 そして、話は飛びます。 |
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離婚して一〇年近くたってから、私が長いつきあいの親友みたいな男のひとと結婚することを決めたとき、東京に住んでいる真弓に報告に行った。
「もう一度、ひとと暮らしてみようと思う」
高橋: | 上間さんは新しい仕事と新しい生活に飛び込みます。そして、最初に出てきたお嬢さんが生まれるんです。 「美味しいごはん」の最後のところ。 |
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娘とふたりで過ごしたこの前の休日、娘にごはんのつくり方を教えた。友だちが私につくってくれたような、生きることを決意できるような、あの美味しい粕汁(かすじる)のようなものを教えてあげたいと思いつき、[…]
高橋: | ぶっかけうどんをつくったんですね。そして、最後は風花というお嬢さんに向かっての文章で終わっています。 |
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風花。今日、お母さんがあなたに教えたものは、誰にも自慢できない、ぐちゃぐちゃした食べものです。それでもそれなりに美味しくて、とりあえずあなたを今日一日、生かすことができて、所要時間は三分です。
これからあなたの人生にはたくさんのことが起こります。そのなかのいくつかは、お母さんとお父さんがあなたを守り、それでもそのなかのいくつかは、あなたひとりでしか乗り越えられません。
高橋: | そのときには食べるものをつくりなさい、ということですね。 |
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そしてもし、あなたの窮地に駆けつけて美味しいごはんをつくってくれる友だちができたなら、あなたの人生は、たぶん、けっこう、どうにかなります。
[…]
ぶっかけうどんのつくり方を教えた日、私が娘に教えてあげたかったのはそういうことだ。
あの子がそういうことをわかる日が、どうかゆっくりきてほしいと私はそう思っている。澄んだ声で歌をうたうあの子の手足がぐんと伸びて、ひとりですっくり立っていられるようになってから、その日がくるようにと願っている。
高橋: | なぜ長々と冒頭のところを読んできたかというと―― 上間さんの仕事は、他人の声を聞く仕事なんですね。 他人の声を聞いている仕事って大変なんですけれど、「それが書かれているものを、僕らが安心して読めるのはなぜだろう?」と思ったんです。それは、「この人なら、ちゃんと声を聞いてあげられる人だ」と、上間さんの“声”が聞こえるからなんですね。 |
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小野: | 「声が聞こえる」? |
高橋: | 「この人は信頼できる人だ」と。 |
小野: | 上間さんが冒頭で自分のことを書いているから。 |
高橋: | 「この人なら――この人の“声”なら――信頼できる」と。 上間さんからインタビューを受けた人も――こういうことは言わなかったとは思います。でも――上間さんの所作、話し方で「この人は信頼できる」と思った。 この本って、上間さんの話を聞いているんですけれど、上間さんと話を聞いてもらいながら僕らの話も聞いてもらえていると思えてくる。 上間さんの“声”を聞いて、「この人は信頼できるから、もっと一緒についていきたい」と思えるような本。これが上間さんの本の特徴なんじゃないかな、と思いました。 これ以上詳しいことは、また後ほど。 |
小野: | そうですね。その方を2コマ目でお迎えするんですもんね。 「ヒミツの本棚」、きょうは上間陽子著『海をあげる』でした。 |
【放送】
2022/01/07 高橋源一郎の飛ぶ教室「ヒミツの本棚」
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