【出演者】
松村邦洋さん
堀口茉純さん
川久保秀一さん
2023年7月2日(日)放送の<DJ日本史>、テーマは『実はすごかった! 控えめ将軍の骨太リーダーシップ』。徳川幕府の将軍、といえば初代家康や3代家光、8代吉宗など有名な人物は何人もいますが、すぐれた将軍は彼らばかりではありません。印象が薄く地味な存在ながらも、人望を集めよい政治を行った将軍がいました。「能あるタカは爪を隠す」。政治をま~るく治めるため、あえて一歩ひくスタンスを貫いた控えめ将軍のすごさとは?
10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)についてご紹介しましょう。
家治が将軍だったのは江戸時代後半、老中の田沼意次(たぬまおきつぐ)が農業だけに頼らず商業の力も取り入れて政治を行った転換期の時代でした。
この家治、日頃は政治を田沼意次に任せ、将棋や囲碁を楽しんだり絵を描いたりして過ごすことが多かったようです。
ところが実はこの徳川家治、祖父の徳川吉宗からじきじきに教えを受けて育った人物で、頭もよく武芸にも秀でた文武両道の人。そして、ここぞ!というときには、前に出て指導力を発揮した将軍でした。
10代将軍徳川家治のリーダーシップとは?
徳川家治の時代に頻発したのが、災害。天明の大飢きんに浅間山の大噴火、そして江戸の大火事に大洪水。
こんなとき家治は、ぐっと前に出て陣頭指揮をとりました。
たとえば1786年、江戸の本所一帯が洪水に見舞われたときのこと。
将軍の家治に上がってきた家臣からの報告は「大したことはございません」。
しかし、家治はその言葉を信じません。城のやぐらに上って自分の目で状況を把握、矢継ぎ早に指示を出します。
「ただちに船を出して民を救え! 被災者には米と銭を与えよ」
また、江戸で火事があり城の門が焼けそうになったとき、老中は消火にあたる者をそこへ送ろうとしますが、家治は止めます。
「城門が焼けても作り直せばよい。それより、町民の家を守れ!」
ではこの徳川家治、いつもはなぜ前に出ようとしなかったのか?
理由の1つは、将軍自ら動くと周囲への影響が大きいことを自覚していたから。
その証拠に家治、日頃の生活ではいつも決められたことを守り、新しいことは一切しませんでした。違ったことをすれば、家臣に余計な負担がかかるからです。
食事は自分の好みを言わず出されたものを食べる。服も家臣の言うまま。日々の行動も細かく決められた通り。
その一方で家来に失敗や粗相があったときは、彼らが罰せられないようかばいました。
こうして見ると徳川家治は、将軍の地位の重さをしっかり自覚して、いつもはあえて一歩ひいていたのかもしれませんね。