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これまでの放送

第3回 2006年1月24日放送

あたり前が一番むずかしい パティシエ・杉野英実


「細部にこそ、神は宿る」

 杉野のお菓子作りは、綱渡りのようなギリギリの積み重ねだ。たとえば、杉野の得意とするチョコレートのムース。杉野は、表面にかけるチョコレートのツヤにこだわる。ココアを煮詰め、ゼラチンを加え、チョコを冷ましていく。重要なのは温度管理。熱いままだとツヤは生まれない。冷ましすぎればコーティングが分厚くなり塊ができる。その日の室温や湿度によって微妙に変わる「適温」を、チョコレートの粘り気だけで判断する。最高の状態は一瞬。それを逃すと、客に出せるものにはならない。

写真うるしのような輝きが生まれる一瞬を逃さない


「あたり前のことが一番むずかしい」

 「味を飛躍的に高めるための裏技などない」・・・おいしいお菓子を作るためには、地道な作業を、手を抜かずにやるのが必要だと杉野は言う。たとえば、お菓子の飾り付けに使う木いちご。一粒ずつ、状態を見て調べる。熟していないものや傷んでいるものは絶対に使わない。
 素材を一つ一つ検品すること、お菓子の焼き時間を秒単位で守ること、お菓子に染み込ませるお酒の量をグラム単位で守ること、隠し味に使うショウガを2ミリに切りそろえること。言葉にすると、どれもあたり前のこと。しかし、毎日数百ものお菓子を作り続ける厨房(ちゅうぼう)で、ひとつも手を抜かずに完璧(かんぺき)に貫けるかどうか。それが一番むずかしい。

写真木いちごをひとつひとつ、ピンセットで選別する


「職人は進化しなければならない」

 職人の仕事は、毎日毎日、同じ作業を繰り返しているように見えるが、実はそうではないと杉野は言う。「進歩がない職人はダメだ」と杉野は言い切る。今日50分かかった作業を明日は45分でやろうという進歩。同じミスを繰り返さないように手順を変えてみる進歩。そして、常に、その時点での最高の味を作り出すという味の進歩。杉野の店に並ぶお菓子は、同じ名前のものでも、10年前に比べると、そのほとんどが何かしらのマイナーチェンジを経て、味の「進化」を遂げている。
 パティシエにとって、最も味の進化が問われるのは、年に一度のクリスマスケーキ。杉野は、毎年、新しいケーキを作ることを自らに課している。人が食べたことがないもので感動を与える新しい味をどう生み出すのか。杉野にとっては、最大の試練だ。

写真試作を重ねてようやく完成した2005年のクリスマスケーキ


「答えは、現場にある」

 発想が行き詰ったとき、杉野はいつも、日常の作業に没頭する。いったん、問題から離れ、いつものように生地を練り、ムースを絞り、あたり前の仕事をあたり前に繰り返す。そのなかで、今、何が一番大切かを見つめなおす。
 日々の仕事にはヒントがあふれていると杉野は言う。いつものフルーツをいつもの作業で触りながら、これを違うお菓子に使えないか、考える。いつものお菓子を作りながら、ほかの素材を加えられないか、考える。厨房という現場にこそ、答えはある。

写真「机に座って考えるような人間ではない」と杉野は言う


プロフェッショナルとは…

永遠の未完成でいたいと思っているんです。だから、今日よりも明日、明日よりもまたその次の日が、もっとおいしいお菓子ができるように、あきらめないで自分を高めていきたい。それがプロなんですかね、やっぱり。

杉野英実

The Professional’s Tools

パレット

数多くあるパティシエの仕事道具の中でも、最もよく使うのが、「パレット」と呼ばれる「へら」。大小10数本あり、それぞれ用途が違う。小さいものは10センチ程度。生クリームの盛り付けなど仕上げに使う。大きいものは40センチ近くあり、生地の仕込みなどに使う。見た目には同じでも、「しなる」硬さが違い、チョコレートなどの硬めのものを塗るときは硬いパレットを、ムースなどの軟らかいものを塗るときは軟らかいパレットを、というように使い分ける。ちなみに、杉野のパレットはどれも20年以上使い込んでいるもので、握った瞬間に「自分のもの」だとわかる。茂木健一郎によれば、「脳が道具を体の一部として認識している」状態だと言う。

写真


チョコレート菓子『アンブロワジー Ambroisie』

「神々が食するもの」という名がつけられたチョコレートの生菓子。1991年の世界大会の際に杉野が考案し、グランプリを受賞した作品。表面には「輪島塗」の黒をイメージしたチョコレートがかけられている。しかし、その中身は、外側の見た目からは想像できない複雑な構成。チョコレートのムース、ピスタチオのムース、ピスタチオのスポンジ、木いちごのジャム、チョコレートのスポンジ、そして染み込ませたリキュール。杉野が目指すのは、ただおいしいだけではない、「人を幸せにする菓子」。そのために、さまざまな素材を使い、幾重にも味を重ねて、人が食べたことのないような、極上の味を目指している。

写真写真