皆さんだいたいご指摘になったので、改めて申し上げることもあまりないのですが、NHKが新しく変わっていこうというときに、全社というのか全組織が心を一つにして、一丸になってということを考えられると思いますが、私はメディア産業、メディアというのは、あまり一丸とならない方がいい、というのが基本だと思っています。何か利潤を上げなくてはいけない事業の場合は一丸となって上から下まで働いた方がいいのですが、一丸となるとだいたい同じものになるのです。私はずっと十数年間、いろいろなテレビ番組のコンクールの審査員をやってまいりまして、タイトル、出だしを見ただけで、これはNHKだろうとすぐにわかるようになりました。
これは全社一丸なのです。よく勉強していますし、ちゃんとチェックが行き届いています。でも、わくわく、どきどきするところがない。これは審査員の身にもなっていただきたいのですが、一本見るとすごく勉強になるのです。でも百本見せられたら地獄になります。いつも作り方が同じに見えるというのは何だろうか。これはやはり一丸だと思います。
メディアは一人一人がときには大喧嘩するくらい、バラバラであった方がいい。こういう懇談会とかいろいろな改革というと、だいたい組織などをいじくって、結局は窮屈で、息苦しくするような制作現場を作ってしまい、結果としてまた番組もつまらなくなる。大学の場合もそうだったのでしょう、国立大が変わるときも。いじくらない方がいいということもあるんだという、いじくらないことに勇気が必要だということもあることを、こういう集まりの場合は知っておかなくてはいけないのではないかと、まず思います。
にも関わらずそういう番組であっても、皆さんがご指摘になったように影響力はものすごくあるんです。かつての 10 年前、 20 年前のテレビとか、あるいはマスコミ全体がそうでしょうけれども、持っていた影響力よりもはるかに強くなっていると思います。
それは我々の生活空間が、地域社会とか企業社会に頼れなくなったからだと思います。その分、マスメディアへの依存が増大した。急激に増大した、と言ってもいいでしょう。そういうなかでテレビというものが果たしている役割は、中身が退屈かおもしろいかに関わらず、はるかに大きくなっているという現実があります。ましてやこのデジタル時代というのは、それこそテレビからパソコンから携帯から、時には人体に埋め込むICチップまで含めて、我々が情報技術と情報環境に依存していく勢いは強まっています。
そうなると、よく例に出すのですが、僕はステテコを穿きませんが、短パン一つになってビールを飲みながら枝豆をほおばってプロ野球を見ること自体が、大事な自由の行使となります。これは自由なんです。ところがこれだけいろいろな電子メディアやいろいろなものが入ってきて、さあ便利ですよ、双方向ですよ、とやり始める。プロ野球を見ながら、ワイドショーを見ながら、選手のデータが取り出せます、タレントの着ているのと同じファッションが買えます、と。デジタル時代のメディアといえば、いまはそんなことしかやっていない。
私などは、放っておいてほしいと思うんです。そういう情報環境に接続されたくない自分がいる、という思いが強いんです。この放っておくということも、実はメディアにとって大事だと思うのです。つまり、公共放送がやらなくてもいいことがあるのだと思います。やるべきことがある。同時にやらなくてもいいこと、やってはいけないことがある。やらなくてもいいことを決めるのはとても大事だと思います。ここには哲学が必要です。人間はどう生きていくのかとか、社会はどうあるべきかとかということの哲学が必要です。デジタル時代というと、今や技術論と視聴者の囲い込みというか、囲い込み競争論だけで語られる。こういう中でテレビを論じてはいけないだろうと思います。
人間の生活にはどんなにインフォメーション・テクノロジーが発達しても、絶対に譲り渡してはならないものがある。そのことを我々は国民生活像として、市民生活像としてどう描くのか。そこでメディアはどういう役割を果たすのか。テレビ、あるいはNHKはどう果たすのかということを語らないと、受信料制度もへったくれもないのではないかと思います。皆さんのご議論に水をかけるようなことを言いましたが、そういうおおらかな議論ができるのも、たぶんここだろうと思います。それに期待したいと思いますし、私自身も努力したいと思っています。
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