この1年亡くなった政治家を振り返る

2022年に亡くなった政治家を、政治マガジンの特集記事と共に振り返ります。
※タイトル・写真をクリックすると特集記事にリンクします。

海部俊樹氏 トレードマークは水玉ネクタイ

1月9日、海部俊樹・元総理大臣が亡くなりました。91歳でした。

海部氏は、昭和6年に名古屋市に生まれ、16回連続で衆議院選挙に当選しました。
この間、三木内閣で官房副長官を務めた後、福田内閣と第2次中曽根第2次改造内閣で2度、文部大臣を務めました。
その後、第76代の総理大臣に就任し、初めての昭和生まれの総理大臣が誕生しました。

海部氏は、水玉模様のネクタイをトレードマークに、クリーンなイメージで国民の支持を集め、平成2年の衆議院選挙で自民党を勝利に導きました。

平成6年6月、海部氏は、政権から転落した自民党が、政権復帰に向けて、社会党、新党さきがけと連立政権を発足させることで合意したことに強く反発し、当時の新生党の小沢一郎氏らに、統一候補として擁立される形で、総理大臣指名選挙に臨みましたが、自民・社会・さきがけの3党が擁立した村山富市氏に敗れます。

その後、平成6年12月に、小沢氏や羽田孜氏らとともに新進党を結成し、初代の党首に就任しました。

新進党の解党後は、自由党、保守党、保守新党でいずれも最高顧問を務め、平成15年11月に保守新党が自民党に合流したのに伴って9年ぶりに自民党に復党し、平成17年の衆議院選挙で16回目の当選を果たしましたが平成21年の衆議院選挙ではやぶれ、政界を引退しました。

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石原慎太郎氏 芥川賞 東京都知事や運輸相など歴任

2月1日、東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が亡くなりました。89歳でした。

石原氏は、昭和7年に神戸市で生まれ、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞しました。「太陽族」という流行語も生まれ一躍、文壇の寵児(ちょうじ)となりました。弟は俳優や歌手として活躍した昭和の大スター、石原裕次郎さん。自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆議院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親です。

石原氏は、執筆活動を続けながら昭和43年の参議院選挙で自民党から初当選し、4年後には衆議院議員に転身して通算9回の当選を果たしました。

東京都知事の在任中は、▽有害物質を出すディーゼル車の規制、▽「新銀行東京」の設立、▽大手銀行への外形標準課税の導入など、独自の政策を次々と打ち出したほか、▽東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組みました。
また、中国に対する強硬姿勢を貫き、沖縄県の尖閣諸島を都が購入する考えを表明するなど国の外交問題にも影響を与えました。

引退後も石原氏は、執筆や講演などを精力的に行いました。かつて痛烈に批判していた田中角栄元総理大臣を評価し、その生涯を一人称で記した『天才』は平成28年のベストセラーになりました。また、平成27年の春の叙勲では「旭日大綬章」を受章しました。

【リンク】石原慎太郎を悼む 異彩の“太陽”~作家であり、政治家として~

照屋寛徳氏 社民党の国対委員長や副党首を歴任

4月15日、社民党の副党首などを務めた照屋寛徳 元衆議院議員が沖縄県内の病院で亡くなりました。76歳でした。

照屋氏は、終戦の年の昭和20年に、サイパンにあったアメリカ軍の捕虜収容所に生まれ、琉球大学を卒業したあと、昭和47年に弁護士となり、アメリカ軍嘉手納基地の爆音訴訟などに携わりました。

沖縄県議会議員を2期、参議院議員を1期務めたあと、平成15年から衆議院議員を連続6期務め、社民党の衆議院議員としては全国で唯一、小選挙区の議席を守ってきました。

また、社民党では国会対策委員長や副党首などを歴任しました。

照屋氏は、がんを患っていて、自宅で療養を続けていました。

【リンク】社民党は消えてしまうのか

石井一氏 ダッカ・ハイジャック事件で対応

6月4日、羽田内閣で自治大臣などを務めた石井一氏が亡くなりました。87歳でした。

石井氏は兵庫県出身で、大学卒業後、アメリカ留学を経て、昭和44年の衆議院選挙に自民党から立候補して初当選しました。

昭和52年のダッカ・ハイジャック事件で、運輸政務次官として対応にあたり、平成元年に、第1次海部内閣で国土庁長官として初めて入閣しました。

平成5年に自民党を離党し、新生党や新進党などを経て、民主党に移りました。
この間、羽田内閣の自治大臣・国家公安委員長などを歴任し、衆議院議員を11期務めました。
また、平成19年に参議院議員となり、民主党の副代表や、参議院予算委員長などを務め、平成25年の参議院選挙で落選し、政界を引退しました。

安倍晋三氏 奈良県で演説中に銃で撃たれる

7月8日、演説中に銃で撃たれた安倍晋三元総理大臣が亡くなりました。67歳でした。

安倍氏は東京都出身で、祖父は日米安全保障条約を改定した岸信介元総理大臣、父は自民党幹事長や外務大臣を歴任した安倍晋太郎氏という政治家一家に育ちました。
父・晋太郎氏の死去を受けて、地盤を引き継ぎ、平成5年の衆議院選挙に旧山口1区から立候補して初当選しました。

長期政権を築いた小泉総理大臣の後継を選ぶ平成18年の自民党総裁選挙に立候補して、初めての挑戦で総裁に選出され、戦後最年少の52歳で総理大臣に就任しました。

第2次政権では、デフレからの脱却に向けて、「経済再生」を最優先に掲げ、大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の「三本の矢」による「アベノミクス」を推進し、経済の活性化に取り組みました。
総理大臣就任の翌年には、東京オリンピック・パラリンピックの招致の先頭に立ち、東京開催を勝ち取りました。

外交面では、「地球儀を俯瞰する外交」を掲げ、在任中に延べ176の国と地域を訪問し、平成28年にはG7伊勢志摩サミット、令和元年には日本で初めてのG20大阪サミットを開催しました。
安全保障分野では、従来の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を限定的に容認する閣議決定をしたうえで、安全保障関連法を成立させ、戦後日本の安全保障政策を大きく転換しました。
また、憲法改正の実現を目指して具体的な改正項目の取りまとめを指示し、安倍政権のもとで自民党は自衛隊の明記など4項目の改正案をまとめました。

一方、森友学園をめぐる財務省の決裁文書の改ざん問題や加計学園の問題、それに「桜を見る会」の対応などについて国会で野党から追及が続き、自民党内からも「長期政権によるおごりやゆがみの象徴だ」との指摘も出ていました。

総理大臣としての連続の在任期間は7年8か月、第1次政権と合わせた通算の在任期間は8年8か月に達し、いずれも歴代最長です。

安倍氏は、7月8日午前11時半ごろ、奈良市内で演説中に銃で撃たれ、橿原市内の病院に運ばれ治療を受けていましたが、亡くなりました。

【リンク】55年ぶり「国葬」実施する意味は?割れる世論 法的根拠の課題

藤井裕久氏 大蔵相や財務相を歴任

7月10日、細川内閣と羽田内閣で大蔵大臣を務め、鳩山内閣でも財務大臣を務めた元衆議院議員の藤井裕久氏が亡くなりました。90歳でした。

藤井氏は東京都出身で、旧大蔵省の主計官を経て政界入りし、自民党の参議院議員を2期務めたあと、平成2年の衆議院選挙で初当選し、衆議院議員を7期務めました。

平成5年には、自民党を離党して新生党の結成に参加し、細川内閣と羽田内閣で大蔵大臣を務め、その後は新進党や自由党を経て、民主党に移りました。
平成21年の政権交代で発足した民主党政権では、鳩山内閣で財務大臣を務めたほか、野田・元総理大臣の後見人的な立場から社会保障と税の一体改革に尽力しました。

そして、平成24年に政界を引退した藤井氏は、超党派の市民連合を創設するなど政治に関する評論や講演活動を精力的におこなってきました。

武村正義氏 新党さきがけ結成「新党ブーム」

9月28日、細川連立政権樹立の原動力となった新党さきがけの代表や官房長官などを務めた、武村正義氏が亡くなりました。88歳でした。

武村氏は滋賀県出身で、旧自治省に入省後、滋賀県八日市市長や滋賀県知事を経て、昭和61年の衆議院選挙に自民党から立候補して初当選し、連続4回当選しました。

平成5年6月には、政治改革に対する自民党の取り組みを批判して、10人で自民党を離党し、「新党さきがけ」を結成して、みずから代表に就任しました。
直後の衆議院選挙では、日本新党などとともに、いわゆる「新党ブーム」を起こし、自民党政権に代わる、細川連立政権を樹立する原動力となりました。
武村氏は、細川内閣では官房長官を務め、細川総理大臣の女房役として内閣を支える一方、連立政権の中心的存在の旧新生党の小沢一郎代表幹事と、政権内の主導権争いなどを背景に対立していきました。

その後、武村氏は、細川総理大臣の「国民福祉税」構想に正面から異を唱えるなど、次第に細川氏との対立も表面化し、羽田内閣の発足にあたって「新党さきがけ」は閣外協力に転じます。
これをきっかけに、武村氏は、同様に連立政権から離脱した旧社会党の村山富市委員長と連携し、自民、社会、さきがけの3党で連立を組み、村山内閣を発足させ、大蔵大臣として政権を支えました。

武村氏、平成12年の衆議院選挙に無所属で立候補しましたが、健康面での不安を抱えて思ったような運動ができず落選し、その後、政界を引退しました。

アントニオ猪木氏 独自の人脈生かした外交

日本のプロレス界をけん引し、国会議員としても活動した元プロレスラーのアントニオ猪木さんが10月1日、心不全のため亡くなりました。79歳でした。

アントニオ猪木さんは横浜市出身で、中学生のときに家族とともにブラジルに移住しますが、現地を訪れていたプロレスラーの力道山にスカウトされて帰国し、17歳でプロレス界に入りました。
そのあと、同時に入門したジャイアント馬場さんとタッグを組み人気を集め、昭和47年には「新日本プロレス」を立ち上げて、プロレス界をけん引しました。

平成元年の参議院選挙に当時のスポーツ平和党の党首として立候補して初当選し、平成25年の参議院選挙では当時の日本維新の会から立候補して2回目の当選を果たしました。
参議院議員として北朝鮮を訪問するなど、独自の人脈を生かした活動を続けてきました。平成25年にはスポーツ交流の行事に参加するため北朝鮮を訪れ、当時、キム・ジョンウン(金正恩)総書記の側近だったキム・ヨンイル書記と会談し、日朝関係について意見を交わしました。

一方、プロレスラーとしては1998年に現役を引退しましたがその後も格闘技大会のプロデューサーを務めるなど格闘技の発展に貢献してきました。

猪木さんは2020年に自身のSNSで、難病の「心アミロイドーシス」と診断されて闘病を続けていることを公表していましたが、心不全のため自宅で亡くなったということです。

【リンク】その男、猪木 最後の戦い

内田茂氏 都議7期 中央政界にも影響力

12月21日、自民党東京都連の元幹事長で都議会の「ドン」とも呼ばれ、中央政界にも大きな影響力を保持してきた内田茂氏が亡くなりました。83歳でした。

内田氏は千代田区議会議員などを経て、平成元年の都議会議員選挙で初当選し、都議会議員を合わせて7期務めました。

この間、都議会議長を務めたほか、平成17年には国会議員が務めるのが慣例だった自民党東京都連の幹事長に、都議会議員として初めて就任するなど、都議会の「ドン」とも呼ばれ、実力者として中央政界にも大きな影響力を保持してきました。

しかし、平成28年夏の都知事選挙で、自民党が推薦した候補者が小池知事に敗れた責任を取って都連の幹事長を辞任したのに続いて、その翌年の都議会議員選挙には立候補せず引退していました。

【リンク】“小池劇場” 幕は上がるか