55年前 吉田茂元総理の「国葬」は 映像と資料で振り返る

今から55年前、戦後初の国葬となった吉田茂元総理大臣の葬儀はどのようなものだったのか。当時の映像や資料を調べると、4万人以上が献花に訪れていたほか、その後には法的な根拠など課題について議論されていたことが分かりました。

当時の映像を見ると

吉田元総理大臣の国葬は、亡くなった11日後の1967年10月31日に日本武道館で行われ、NHKは中継番組を放送しました。

この番組をデジタル化した映像を見ると、各地で弔旗や半旗が掲げられる動きや、都内中心部の青山通りに大勢の人が詰めかけ、車の葬列を見送っている様子が映されています。

午後2時に始まると1分間の黙とうが行われ、その後、当時の佐藤栄作総理大臣が吉田元総理大臣の遺影を時折見上げながら弔辞を述べる様子も確認できます。
そして、遺影が飾られた式壇に当時の皇太子ご夫妻、いまの上皇ご夫妻が献花されたほか、海外の要人などの参列者らも次々と哀悼の意をささげていました。

当時の経緯を記録した公文書「故吉田茂国葬儀記録」によりますと、神奈川県大磯町にあった吉田元総理大臣の自宅から日本武道館までの沿道にはおよそ17万人が集まり、およそ8000人の警備態勢がとられたということです。

国葬には日本武道館には当時の皇太子ご夫妻や各界の代表、海外72か国の使節団など6000人余りが参加したということです。

午後3時すぎに終わった後、一般の参列者の献花が行われました。

参列者はおよそ4万5000人に上り、午後7時ごろまで続いたということです。

公文書を読み解くと

「故吉田茂国葬儀記録」には開催までの議論の様子も記されていて、国葬の法的根拠については「法律的にも制度上にも国葬についての規定がないので、国葬儀に踏み切るまでには、あらゆる角度からその是非が検討」されたと記されています。

そして、1951年に行われた大正天皇の后、貞明皇后の「大喪儀」が「閣議了解により執行」されたことから、「これらを決定のよりどころとして、閣議決定することによって事実上の国葬を行えるものと結論した」としています。

吉田氏が亡くなって3日後の1967年10月23日、政府は国葬について閣議決定を行いました。

政府は国葬にあたって、各省庁に弔旗の掲揚や黙とう、午後の休業、行事の自粛を求めたほか、学校や会社などにも同様の協力を求めました。

内閣府によりますと、費用の総額はおよそ1804万円で、全額が国費の予備費から支出されました。

その後の国会では

一方、国会の記録を分析すると、国葬の後、法的な根拠などの課題について一時議論されていました。

国葬のよくとしの1968年、衆議院決算委員会で野党議員が「国葬を政府が思いつきですることは承服できず、基準が必要だ」と述べました。

当時の大蔵大臣は「国葬儀についてはご承知のように法令の根拠はない。私はやはり何らかの基準というものを作っておく必要があると考えている。そうすれば、予備費の支出も問題がなくなる」と答弁し、基準の必要性について言及しました。

また、そのよくとしの1969年の参議院内閣委員会で「国葬の基準を国会で決める必要があるのではないか」という質問に対し、当時の総理府総務長官は「いずれは検討されなければならない」と答弁しています。

しかし8年後の1977年、当時の総務長官は「吉田総理が亡くなった時には内閣の決定で行っているので、法律というよりも閣議の決定によって国葬は今後行われてしかるべきものだという考え方を持っている」と答弁し、閣議決定で問題ないという見解を示しています。