最後の番記者が見た安倍晋三

「お疲れ様」
いつもと変わらぬ声で電話を切ったその人は、50分後、銃で撃たれ、亡くなった。
総理大臣を退いた後の安倍晋三は、どのような政治家だったのか。
最後のおよそ2年間、番記者として間近で見てきたその姿とは。
(政治部・古垣弘人)

最後の電話

7月8日午前10時41分。
参議院選挙の応援演説のため、伊丹空港から車で奈良に向かっていた安倍元総理に電話した。
安倍派の議員のうち、接戦が伝えられていた選挙区の情勢を聞くためだ。
翌9日には福井に入り、ベテラン候補のテコ入れを図ると説明していた。
わずか2分間のやりとりだった。

その50分後。
奈良局の同僚記者から電話が入った。
「演説会場で銃声のような音が2回聞こえた。安倍さんが倒れて、血を流している」

関係者に片っ端から電話し、状況について取材を行った。
「胸を撃たれて搬送されている」
「意識はなく、状況はかなり悪い」
厳しい情報しか入ってこなかった。

午後5時過ぎ。
上司から取材指示の連絡が入った。
「亡くなったという情報がある。裏をとるように」
関係者に電話をかけた。
否定する人は誰もいなかった。
安倍氏の死去を知らせる速報スーパーが流れた。

総理退任後の「安倍番」に

私が「安倍番記者」になったのは2年前の秋。
総理大臣を退任した直後だ。
安倍氏は、毎日のように議員会館の事務所で面会などを行い、政治活動を続けていた。

議員会館の玄関で出入りを待ち、挨拶をすると「お疲れ様」とだけ言って、あまり表情を変えずにエレベーターに乗り込む。
12階にある事務所までのわずかな時間に入念に考えてきた話題を振っても「へえ」「そうなんだね」とひと言の答えが返ってくるだけ。
そうした毎日を繰り返すうちに、表情を崩し、ユーモアを交えた会話も増えていった。

家庭人としての姿

去年8月下旬の休日。
家庭人としての側面を目にする機会もあった。
当時、菅政権が、新型コロナや衆議院選挙への対応で窮地に立たされる中、安倍氏の考えを聞こうと、自宅前で待った。

すると、1台の車が出ていった。
運転席にはポロシャツに半ズボン姿で眼鏡をかけた安倍氏。
助手席には昭恵夫人だ。
20分ほどで戻ってくると、車から降りて「料理をテイクアウトしてきたんだ。何かある?」と話しかけてきた。

私が、党内で菅総理の退陣を求める声が出ていることについて見解を尋ねると、静かに口を開いた。

「菅さんにとってなかなか厳しい状況だね。でも、私は最後まで菅さんを支持するよ。安倍政権をずっと支えてきてくれたし、私の急な退陣の後もしっかり引き継いでくれた。人として支持しないということはできない」

恩義と保守政治家と

そのころ、自民党の政務調査会長を務めていた下村博文氏が、総裁選挙への立候補を模索していた。

長年、政治家活動をともにしてきた側近の下村氏に対し、安倍氏は「あなたは菅政権を支える幹部だということを認識すべきだ」と伝え、事実上、断念を求めた。
菅総理へのせめてもの恩義の表し方だったのだろう。

一方で、別の側面も見せる。
関係者によると、安倍氏に近い高鳥修一議員が、菅総理の退陣表明の数日前「総裁選挙で高市さんを支持したい」と相談すると、安倍氏は「私個人は菅さんを支持することは変わらないが、高市さんは仲間が多くないから応援して欲しい。あなたが支持を表明すれば、私の思いもにじむでしょう」という旨の話をしたという。

このあと、菅総理が退陣を表明すると、安倍氏は高市氏の応援を主導することになる。

高市氏を支持することについて「衆議院選挙も控えている。保守層をつなぎとめるためにも、保守の政策を正面から語れる人が総裁選に立候補することが重要だ」と話していた。

こだわりの財政政策

政策面では、財政政策について熱っぽく持論を語っていた。
岸田政権発足直後、事務所で話をしていた際、「専門家と話したんだけどね、つまりこういうことなんだよ」とメモにペンで数式を書きながら熱弁をふるった。

「財務省のいいなりになる議員が自民党内にもいる」と、緊縮的な財政政策への転換を危惧していた。
その後、党内では、安倍氏が最高顧問を務める組織と、岸田総理直轄の組織がそれぞれ立ち上がり、財政政策をめぐる路線の違いが鮮明となっていく。

直情的な側面も

感情の起伏をあらわにする場面を目にすることもあった。

安倍派の議員が党内の別のグループの会合に参加したと聞くと「どんな理由で参加したんだろうね。スパイするために出席したというなら理解もするけど、何の報告もない」と不快感をあらわにした。

ときには、われわれ記者の取材やふるまいにも厳しかった。
「あまり知らない人なのに、いきなりデリケートなことを質問するなんて、通用しないよ」
囲んでいた記者団は、みな背筋が伸びた。

派閥の仲間への思い

ことし最大の政治決戦である参議院選挙。
猛暑の中、全国を駆け回った。
演説は、選挙期間中の16日間で、18都道府県40か所以上。
そのおよそ半分は自らが率いる派閥に所属する候補者の応援だった。
67歳の安倍氏だったが、1日の移動距離は1000キロを軽く超える日もあった。

7月7日夜。
遊説から帰宅した際、安倍派で全面的に支援している新人候補の苦戦も伝えられていた東京選挙区について話をしたあと、続けた。
「あすは、長野に行く予定だったけど、奈良と京都に行くことにした」
選挙情勢を受けて、急きょ日程を変更したとのことだった。
派閥に所属する仲間を応援するため、奈良へ…

光と影

7月12日。
安倍氏のひつぎを乗せた車は、長年、政治活動の舞台となった永田町を回った。
総理大臣官邸や国会前では、大勢の人が出て車列を見送った。

一方で、森友学園をめぐる財務省の決裁文書の改ざん問題や加計学園の問題「桜を見る会」の対応などについて国会で野党から追及が続き、自民党内からも「長期政権によるおごりやゆがみの象徴だ」との声も出た。
こうした負の側面があったとの指摘も少なくはない。

私が見たのは、その気さくさや確固とした政治理念から求心力を発揮する一方、時には強権的で敵味方を区別する政治手法だった。
安倍氏は日本の政治に何を残し、今後どのように受け継がれていくのだろうか。
(文中敬称略)

政治部記者
古垣 弘人
2010年入局。京都局を経て2015年に政治部へ。官邸クラブを経て、2018年から自民党の細田派、今の安倍派を担当。2021年から拉致問題を担当する「官房長官番」に。