原発事故「放水」前夜
日米緊迫のやり取りが判明

10年前の東京電力・福島第一原発の事故で自衛隊が行った上空からのヘリコプターによる放水。その前夜、当時の自衛隊と在日アメリカ軍のトップどうしの間で交わされたやり取りの詳細が、記録から明らかになりました。アメリカ側は、原発の状況が悪化すれば日本で暮らすアメリカ人を退避させる可能性を示唆し、その直後、自衛隊の幹部たちは高い放射線量の中でも放水すると決断していました。

このやり取りは、当時、統合幕僚監部の防衛計画部長として自衛隊とアメリカ軍との間の連絡調整役を担っていた磯部晃一さん(63)が、みずからのノートに書き記していました。

10年前、福島第一原発の3号機で核燃料を冷やす水が蒸発する危険性が指摘され、自衛隊は、政府の対策本部の要請を受けて3月16日、ヘリコプターからの放水を試みました。

しかし、上空の放射線量は高度30メートルの地点で1時間当たりおよそ250ミリシーベルトと高く、この日の放水は断念しました。

磯部さんの記録によりますと、その日の午後10時15分から当時の自衛隊トップ、折木良一統合幕僚長と、在日アメリカ軍トップのバートン・フィールド司令官との間で電話会談が行われました。

ノートには、折木統合幕僚長が、ヘリコプターからの放水について「きょうはトライしたが実行できず。あす再度トライする」と述べたと書かれています。

これに対しフィールド司令官は「正確な状況がつかめない。専門家も十分理解できていない状況」と話し、「原発がさらに厳しくなるとアメリカ人を避難させることもありえる。大統領の判断次第」と述べたと記録されています。

これについて磯部さんは、「同盟国のアメリカが国民の退避を考えるほど事態を深刻に捉えていることが衝撃だった。情報を求めるアメリカに対し、日本が十分応えていなかったことが背景にあると思う」と話しています。

磯部さんによりますと、この日の午後11時すぎ、折木統合幕僚長や陸海空の各幕僚長が集まりました。

この場で、翌日は、「危険を冒してでも放水を行う」と決断したといいます。

そして、3月17日の午前9時48分、自衛隊は福島第一原発3号機に対し、ヘリコプター2機で放水を始めました。

上空の放射線量は、高度90メートルで1時間当たり87.7ミリシーベルト。

依然、高い値でしたが、許容範囲に収まっていると判断し、隊員の被ばくをできるだけ防ぐ対策をとったうえで放水しました。

原発事故から10年たった今も、この放水にどの程度の効果があったのかはわかっていません。

しかし、磯部さんは、「放水のあと、自衛隊の行動をアメリカや世界が評価し、原発事故に対処する日本の覚悟を示すメッセージとして意味があった」としたうえで、「日米の連携にひびが入りかねない事態でもあった。危機の際に主体的に行動することの大切さなど、あのときの教訓は語り継いでいかなければいけないと思う」と話しています。

在日米軍の元司令官「情報出ず いらだち」

在日アメリカ軍のトップだったバートン・フィールド氏がNHKの取材に応じ、原発事故への対応を振り返って、「日本もアメリカも何かを隠していたわけではないと思うが、コミュニケーションの問題があった。原子炉の中で何が起きているか誰も理解しておらず、十分な速さで情報が出てこないといういらだちがあった。ただ、世界最悪の災害が起きたのだから、少し待つ必要はあった」と話しました。

そのうえで、折木統合幕僚長にアメリカ人の退避の可能性を示唆したことをめぐり、フィールド氏は、「アメリカ側には福島第一原発から一定量の放射性物質が放出された場合、横田基地や厚木基地など東京周辺からも避難を余儀なくされるという推測があった」と明かしました。

一方で、「どんな理由であれ、もし、私たちが避難するなら、私は最後に退避するつもりだった。また、あとになって原発で起きていることや天候のパターンがどうなっているかを知り始めると、そうした危険はないことに気付いた」と話しました。