曽根康弘元首相が
死去 101歳

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄の民営化や日米安全保障体制の強化などに取り組んだ、中曽根康弘元総理大臣が29日、東京都内の病院で亡くなりました。101歳でした。

中曽根元総理大臣は、大正7年に、群馬県高崎市で生まれ、昭和16年に旧東京帝国大学を卒業し、当時の内務省に入ったあと、太平洋戦争中は海軍の士官を務めました。

そして、昭和22年の衆議院選挙で、旧群馬3区に、当時の民主党から立候補して初当選し、その後、自民党の結成に参加して、20回連続で当選しました。

この間、昭和34年に第2次岸改造内閣の科学技術庁長官として初入閣し、防衛庁長官、運輸大臣、通産大臣のほか、自民党の幹事長や総務会長などを務めました。

また、改進党に所属していた当時、被爆国の日本でも、原子力発電に向けた研究開発が不可欠だとして、原子力関係の予算案の提出を主導したことでも知られました。

中曽根氏は、当時の佐藤栄作総理大臣の長期政権のもと、三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫と並んで、いわゆる「三角大福中」の一角をなし、「ポスト佐藤」の候補として、党内の実力者のひとりに数えられるようになりました。

昭和57年11月、自民党の総裁予備選挙で、河本敏夫氏、安倍晋太郎氏、中川一郎氏を抑えて、第71代の内閣総理大臣に就任し、「戦後政治の総決算」を掲げて、懸案の解決を目指しました。昭和60年8月15日には、戦後の総理大臣として初めて、靖国神社に公式参拝しましたが、中国などから強い批判を受け、それ以降は参拝を見送りました。

中曽根氏は、行政改革などに尽力し、第2次臨時行政調査会、いわゆる「土光臨調」の土光敏夫氏と二人三脚で、「増税なき財政再建」に取り組み、当時の「国鉄」、「電電公社」、「専売公社」の民営化に取り組みました。

一方、外交面では、総理大臣就任からまもない昭和58年1月に、当時、関係がぎくしゃくしていた韓国を訪れて関係改善に道筋をつけて、そのままアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で強固な信頼関係を築きました。互いを「ロン」「ヤス」と呼び合うレーガン大統領との関係は、中曽根外交の基盤となり、昭和58年11月にレーガン大統領が日本を訪れた際には、東京 日の出町のみずからの別荘「日の出山荘」でもてなし、中曽根氏がほら貝を吹く姿も話題になりました。

昭和60年3月には、旧ソビエトのチェルネンコ書記長の葬儀を利用して、ゴルバチョフ新書記長との首脳会談も実現させました。

一方、中曽根氏は、私的な諮問機関を設けることで、大統領型のトップダウン政治を目指したほか、日米貿易摩擦をめぐる記者会見では、みずからグラフを指し示したり、水泳や座禅をする様子を公開したりするなど、パフォーマンスのうまさでも知られました。

昭和61年には、「死んだふり解散」、「ねたふり解散」とも呼ばれる、衆参同日選挙を行い勝利を収め、党総裁としての任期が1年延長されました。しかし、昭和62年4月の統一地方選挙で敗北し、みずからが目指していた売上税の導入を断念し、その年の10月には、当時、「ニューリーダー」と呼ばれた、安倍晋太郎、竹下登、宮沢喜一の3氏の中から、竹下氏を後継総裁に指名し、11月に退陣しました。

中曽根氏の総理大臣としての在任期間は1806日と、当時としては異例の5年におよび安倍、佐藤、吉田、小泉の4氏に次ぐ、戦後5番目の長期政権となりました。

総理大臣退任後、リクルート問題で、平成元年5月に衆議院予算委員会で証人喚問を受け、党を離れましたが、2年後に復党しました。

そして、平成8年の衆議院選挙では、小選挙区制度の導入に伴い、当時の党執行部から、比例代表の終身1位で処遇することを確約され、小選挙区での立候補を見送りました。翌年には、大勲位菊花大綬章を受章したほか、国会議員在職50年の表彰も受けました。

しかし、平成15年の衆議院選挙の際、当時の小泉総理大臣が、比例代表の73歳定年制の例外を認めず、中曽根氏は立候補を断念して、56年に及ぶ国会議員としての活動に幕を閉じました。

中曽根氏は、政界引退後も、安全保障や国際交流のシンクタンクの会長を務め、内政や外交をめぐって積極的な発言を続け、みずからの心境を、「くれてなお命の限り蝉しぐれ」と詠んでいます。

とりわけ、憲法改正には強い意欲を示し、新しい憲法の制定を目指す、超党派の国会議員らでつくる団体の会長を務めてきたほか、おととし5月に出版した著書では、戦力の不保持などを定めた9条2項を改正し、自衛隊の存在を憲法に位置づけるべきだなどと提案しました。

葬儀は近親者のみ 後日 お別れの会開催

中曽根氏の長男で自民党の中曽根弘文元外務大臣は、自民党の関係者などに対して訃報を出し「父は、本日、永眠致しました。葬儀につきましては近親者のみによる家族葬にて執り行い、後日お別れの会を開催する予定でございます。永年に亘りますご厚誼に対しまして、故人に代わり衷心からの感謝を申し上げます」としています。

またNHKの取材に対して、中曽根弘文元外務大臣は「多くの皆さんに支えてもらい、国のことを思いながら人生を全うした。悔いのない人生をおくることができたのではないか。家族として皆さんに感謝している」と述べました。

そのうえで「父は戦争から引きあげて、昭和22年に国会議員に出た。焦土と化した国土を見て、どういうふうに復興していくかというのが、父の政治家としての出発点だったと思う」と述べました。

また「家族に対しては、あまりあれこれ言う人ではなかった。本当に一生懸命勉強する人で、息子が言うのもおかしいが、あんなにも勉強する人は知らない。飛行機の中でも、汽車の中でも、船の中でも、いつも努力をする人だった。スポーツしたり、水泳したり俳句をつくったり、趣味の広い人でもあり、自分の時間を有効に使い、健康にも自分で気をつけて、101歳まで元気でいられたんだと思う」と述べました。

孫の康隆議員「最後まで日本の未来考えていた」

中曽根元総理大臣の孫で、自民党の中曽根康隆衆議院議員は記者団に対し「おかげさまで101年という人生をやりきった。ずっと元気で、即位礼正殿の儀(そくいれい せいでんのぎ)のニュースを見て喜んでいたし、新聞も読んでいた。われわれも驚くくらい生命力が強いというのは感じていた。ずっと『国家が体に宿っている』と本人は言っていたが、最後の最後まで日本の未来のことを考えていた」と述べました。

また、中曽根元総理大臣との思い出について「初当選の直後、事務所に報告に行った際に、開口一番『しっかり歴史を勉強しなさい。政治家は先見性を持つために過去を知らなければいけない』とするどい目つきで言われた。私も思いを引き継ぎ、しっかり国会議員として頑張りたい」と述べました。

安倍首相「わが国の国際的地位 大きく向上させた」

安倍総理大臣は、弔意を表す談話を発表しました。

この中で「中曽根氏は、東西の軍事対立や日米貿易摩擦の高まりなど、わが国が厳しい内外情勢におかれた時期に、5年間にわたり総理大臣の重責を担われ、戦後史の大きな転換点に当たってかじ取り役を果たされた」としています。

そのうえで「戦後日本政治の総決算を掲げ、アメリカのレーガン元大統領との強い信頼関係のもとで強固な日米同盟を確立し、近接するアジア諸国との関係を強化するとともに、国際社会の一員として、世界の平和、経済秩序の維持に重要な役割を果たし、わが国の国際的地位を大きく向上させた」としています。

さらに「中曽根氏は、行政改革の断行を最重要課題と位置づけ、強いリーダーシップを発揮して21世紀に向けた諸制度の改革に取り組み、国鉄の民営化をはじめとして、大きな実績を上げられた」としています。

そして「私は、この訃報に接し、深い悲しみを禁じえません。国民の皆様とともに、心から哀悼の意を表します」としています。

森元首相「とにかく偉大な政治家」

第2次中曽根内閣で文部大臣を務めた東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森元総理大臣は、NHKの取材に対し「とにかく偉大な政治家で、自民党や国政全般の大変大きなおもしになり、象徴的な方だった。その方が亡くなられて大きな時代の流れだという印象だ。私個人としては中曽根内閣で教育改革が大きな柱に取り上げられる中、私に文部大臣をやってほしい、がんばってくれと言われ、大きな命題を任されて光栄でもあったし、責任の重さを感じていた」と話しました。

福田元首相「政治の先達としての実績 高く評価」

福田元総理大臣は「政治の先達として果たされたご実績を高く評価します。日米関係の安定化や国営企業の民営化などで示された政治のリーダーシップの在り方や、政界引退後の平和研究所での終生のご活躍など、多いに勉強させて頂きました。長い間ご苦労さまでした」とするコメントを出しました。

亀井静香氏「『巨星墜つ』だ」

自民党の政務調査会長などを務めた亀井静香氏は、東京都内でNHKの取材に対し「『巨星墜つ』だ。戦後の政治史の1ページがめくられた。歴史観や国家観を大事にしようとした政治家だった。中曽根氏は、戦中と戦後を生き抜かれ、国家に対する愛情や国民の在り方をいつも考えていた方だ」と述べました。

一方で「憲法改正は、中曽根氏のレゾンデートルだったが、それに手をつけられずに引退したということは、1つの汚点だと思う」と述べました。

島村元農相「私にとって親と同じ 大変驚いている」

中曽根氏の秘書を務めたあと、衆議院議員となり、農林水産大臣や文部大臣などを務めた島村宜伸さんは、NHKの取材に対し、「なんとも言えない。私にとって、中曽根元総理は親と同じですから、大変驚いているが、いまは落ち着いている。いろいろな思いは、頭の中によみがえっている。お世話になった皆様には、私からも大変お世話になりましたと言いたい」と話していました。

自民 山崎元副総裁「惜別の情を誰よりも強く感じる」

自民党の山崎元副総裁はNHKの取材に対し「年齢から、この日がいつか来ると覚悟はしていたが、惜別の情を誰よりも強く感じる。私は中曽根氏に見いだされて国会議員になった一人で、大恩人だ。思い出は数限りない」と述べました。

また、官房副長官として中曽根氏の首脳会談に同席した思い出に触れ「アメリカのレーガン大統領との会談では、冷戦構造の解消をアメリカに強く迫ったうえで6者協議を提案し、今の対北朝鮮外交が始まった。迫力を身にしみて感じた」と振り返りました。

自民 甘利税制調査会長「追いつけない存在」

かつて中曽根派に所属していた自民党の甘利税制調査会長は、「『巨星墜つ』という感じだ。本当に残念だ。ご冥福をお祈り申し上げる。偉大な政治家で、常に世界観とか大局観とか、物事をふかんして戦略的に見られる人だったと思う。どんなに頑張っても追いつけない存在だった」と述べました。

自民 河村元官房長官「われわれの手本のような方だった」

自民党の河村元官房長官は記者団に対し「寂しい思いだ。日本の厳しい時代に総理大臣として貢献され、われわれの手本のような方だったので非常に残念だ。残った者がしっかり頑張っていかなければならない。また、総理大臣になって最初に行った外国が韓国だったことを考えると、中曽根元総理大臣は日本と韓国の関係を大事にされていたと思う」と述べました。

自民 額賀元財務相「こんにちの日本の土台を作った方」

自民党の額賀元財務大臣はNHKの取材に対し「自分が初当選したのは中曽根内閣の時だったが、『戦後政治の総決算』だと言ってさまざまな改革に取り組んでいたことが印象的だ。こんにちの日本の土台を作った方であり、信念を貫き、未来に向けた哲学を持った政治家だった」と述べました。

自民 細田元幹事長「筋の通った大政治家」

自民党の細田元幹事長は記者団に対し「行政改革の問題や日本の発展、それにアメリカをはじめとする外国との外交に力を入れていた。生涯の課題として憲法改正も長く主張しておられた。筋の通った大政治家だったと思う。憲法改正も中曽根先生のお気持ちに沿って自民党は進んでいる。心からご冥福を申し上げる」と述べました。

自民 古賀元幹事長「戦後政治の大功労者」

自民党の古賀元幹事長は、NHKの取材に対し「日本の戦後政治をリードした大功労者であり、敬愛し尊敬していた。私が自民党の幹事長に就任した際、『総理を支えることも大事だが、国があり国民があるということを忘れるな』と言われ、そのことばを肝に銘じて仕事をしてきた。これからも頑張ってもらいたいと思っていたので、寂しいし残念だ」と述べました。

小泉環境相「懐の深さ 学ばなければならない」

小泉環境大臣は経団連との懇談会のあと、記者団に対し「私の父と中曽根元総理は、ぶつかり合うこともあったのは皆さんご承知のとおりだが、中曽根元総理がお元気だった時に私がごあいさつした際、笑顔で明るくご対応いただき、その懐の深さを学ばなければならないと思った。『日本のためにありがとうございました』と、心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

元秘書 田中茂氏「あれだけ勉強する総理はほかにはいない」

中曽根元総理大臣の秘書をおよそ30年務めた田中茂元参議院議員はNHKの取材に対し「とにかく本を読み、勉強をした人だった。総理大臣になるために20冊ものノートを記して用意していて、あれだけ勉強する総理大臣はほかにいない。『いつかは』と思っていたが、思い出がありすぎて、今は何とも言えない」と話していました。

元秘書 柳本卓治氏「憲法改正がライフワーク」

中曽根氏の元秘書で参議院憲法審査会長などを務めた柳本卓治氏は、NHKの取材に対し、「父同然の恩師だった。憲法改正は中曽根元総理大臣のライフワークだったし、『政治家は、国家観、歴史観の上に立って日本の在り方を考えなければいけない』ということを教わった。ひと月ほど前にお目にかかったときは、逆に励まされるほどお元気だったが、それが最後の別れになってしまった。今はことばが出てこない」と話していました。

立民 枝野代表「学ぶべきことがたくさんあった」

立憲民主党の枝野代表は記者会見で「大変学識にあふれた方であり、姿、形だけでなくきぜんとした姿勢の方だった。立場や意見は違うが、学ぶべきことがたくさんあった。日本の歴史に大きな足跡を残され、その中には大きな功績と言っていい部分があったのは間違いない。重ねて心から哀悼の意を表したい」と述べました。

立民 菅元首相「異なる意見の人の言うこと聞く」

立憲民主党の菅直人 元総理大臣はNHKの取材に対し、「非常に存在感のある方で、私が総理大臣としてサミットに出席する際に意見をいただいたこともあった。印象深いのは、後藤田正晴さんを官房長官に起用したことで、異なる意見の人の言うことも聞くということだったのだろう。私も総理大臣になった時に、自分にとって耳の痛いことを言ってくれる人を起用する手法をモデルにした。心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

国民 玉木代表「単なるタカ派ではなかった」

国民民主党の玉木代表は記者団に対し、「尊敬する偉大な政治家で、まさに『巨星墜つ』だ。『日本』という背骨がまっすぐ入った気骨ある方で、国鉄民営化をはじめ戦後政治に大きな足跡をしるした。1983年に韓国を訪問した際には韓国語であいさつし、日韓関係の改善につなげるなど、単なる『タカ派』ではなく、国益を考え、アジアの平和と繁栄に貢献をされた。心からご冥福をお祈りしたい」と述べました。

国民 平野幹事長「日本の政治を主導 極めて残念」

国民民主党の平野幹事長はNHKの取材に対し「101歳という長寿で、これまで日本の政治を主導してこられた方であり、極めて残念だ。われわれは、思いをしっかりと受け止めて頑張りたい」と述べました。

国民 原口国対委員長「濃厚でありがたい時間だった」

国民民主党の原口国会対策委員長はNHKの取材に対し「心から哀悼の誠をささげたい。何度もご指導をいただいたが、安全保障に関する勉強会では『部分だけを見ず、広く世界の流れを見ながら、日々、研さんするように』というお話をされた。限られた時間だったが、非常に濃厚で、ありがたい時間だった」と述べました。

国民 小沢元自治相「戦後政治を総決算した指導者」

中曽根内閣で自治大臣などを務めた国民民主党の小沢一郎衆議院議員は「選挙を担当する自民党総務局長としてお仕えし、衆議院京都2区の補欠選挙で、谷垣前総裁と、野中元幹事長の両方を当選させることができた際『名医の手術を見ているようだ』とえらく褒めていただいたことをよく覚えている。文字どおり、戦後政治を総決算されたすばらしい指導者だった。心からご冥福をお祈り申し上げたい」というコメントを発表しました。

公明 山口代表「引退後も提言 深く敬意表する」

公明党の山口代表は、党の参議院議員総会で、「大きくはない派閥を率いて総理大臣になられたのは、自民党の中では並大抵のことではなかったと思う。総理大臣になってからは『戦後政治の総決算』を掲げて、3つの大きな国営企業を『中曽根行革』で民営化に導いたのは力が必要で、大きな業績のひとつだった。引退されてからも100歳を超えるまで外交安全保障に対する、さまざまな提言をなされ、つい最近まで姿勢よく行動していたことに深く敬意を表するところだ。逝去を心から悼み、ご冥福をお祈りしたい」と述べました。

維新 馬場幹事長「国鉄民営化は歴史に残る功績」

日本維新の会の馬場幹事長は記者団に対し「当時、国鉄の民営化は絶対に無理だと言われていたが、民間の知恵を借りて民営化にこぎ着けたのは日本の歴史に輝かしく残る功績だと思う。国会議員を引退後も憲法改正に力を入れておられ、叱咤(しった)激励をいただいた。行財政改革や規制緩和に取り組むことが中曽根元総理大臣の心を引き継ぎ、弔意をあらわすことになる」と述べました。

維新 鈴木宗男参院議員「最後の大物政治家」

日本維新の会の鈴木宗男参議院議員は「衆議院議員に無所属で初当選し、のちに自民党に入ったのが中曽根総理大臣のときだったので、いろいろな思い出がある。昭和、平成を通じて、最後のステーツマンと言える大物政治家で、非常に残念だ」と述べました。

共産 不破前議長「立場違うが礼節ある人」

共産党の不破哲三前議長は、NHKの取材に対し、「国会で私の質問に政府がまともに答弁しないときに、審議が終わった後に追いかけてきて、感想を言われたこともあった。自民党議員に追いかけられたのは最初にして最後だった。また、中曽根氏が大臣を務めていて、国会の質疑で席を外す際には、『外して大丈夫か』と声をかけてくるような人だった。自民党と共産党で立場は違ったが、おもしろく、礼節のある人だった」と述べました。

東大 御厨名誉教授「国鉄解体しJR作ったことが功績」

生前、中曽根氏と新聞や民放のテレビ番組で対談やインタビューを重ねた東京大学の御厨貴名誉教授は中曽根氏の功績について「いちばんはやはり、戦後、労働組合と対じして結果的につぶしたこと。国鉄を解体して、JRを作ったことが彼の功績でしょう」と話しています。

また、アメリカのレーガン元大統領とお互いを「ロン」「ヤス」と呼び合う仲だったことに触れ「レーガンとの日本での会談で『彼は土のにおいがする』と言って、自分の別荘に招いて、ホラ貝なんかも吹いてもてなした。戦後日本の安保が重要視されていたなかで、強い関係性を作った」と評価していました。

そのほか、「それまでの政治家と違って視覚に訴えることを重視した政治家だった。サミットでは自分が真ん中になるようにしたり、ぬれた髪のまま人前に出てきて、『水泳やっていたんだ』と言って、自分の体自慢のようなことをした。見せることに関心のある政治家だった」と中曽根氏の一面を話しました。そして「中曽根さんが今の政治を見ると、大きい政治、この国を変えていくような政治がなくなったと、残念に思っていただろう」と話していました。

JR東日本「輝かしい功績 敬意と感謝」

中曽根氏は巨額な債務を抱えて経営が行き詰まった旧国鉄の分割・民営化に取り組み、昭和62年に今のJR各社が発足しました。

中曽根氏が死去したことについて、JR東日本は「中曽根康弘元首相の突然の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。国鉄の分割・民営化を主導し、今日の鉄道の発展につながる大きな功績を残された、偉大な政治家を失ったことは誠に残念に思います。ご生前の輝かしいご功績に敬意と感謝の意をささげ、ご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

JR西日本「国鉄改革推進で主導的役割」

またJR西日本は「中曽根元総理のご訃報に接し、心からお悔やみを申し上げる。故人は、総理ご就任直後から、国鉄再建対策推進本部の本部長をみずからお務めになり、国鉄改革推進の主導的役割を果たされた。すでに国鉄改革から30余年が経過したが、『鉄道の再生』を目指した故人のご遺志を忘れることなく安全で持続可能な鉄道の実現に取り組んで参りたい」とコメントしています。

JR東海 葛西名誉会長「大きな功績残した」

中曽根氏とともに国鉄の民営化にあたったJR東海の葛西敬之名誉会長は「国鉄の分割民営化は、中曽根元総理のリーダーシップがあったからこそ実現できた。その結果が鉄道の今日の発展につながっており、大変大きな功績を残された。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしました。

NTT「電気通信市場の発展にも尽力」

NTTは「電電公社の民営化をはじめ、電気通信市場の発展にもご尽力された中曽根元首相のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみを申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします」とする談話を出しました。

拓殖大学「大学改革に寄与」

中曽根氏が12代総長を務めていた拓殖大学は「大学改革に大きく寄与いただきました。産業界や社会と結び付いた教育を実現したいという思いから、財界人を講師とする講座を開講。退任後も創立100周年の記念式典にご臨席いただくなど、暖かく心を寄せていただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。

経団連 中西会長「世界的にも卓越した指導者」

中曽根氏が亡くなったことを受けて、経済界からは行財政改革や外交政策の実績を評価する声が相次いでいます。

このうち経団連の中西会長は「中曽根元総理は、時代の先を読む洞察力と改革を実行に移す政治的リーダーシップを兼ね備えた、わが国のみならず、世界的にも卓越した政治指導者の1人だった」としたうえで、「とりわけ、中曽根元総理が実行に移された、いわゆる『土光臨調』や三公社の民営化をはじめとする行財政改革、エネルギー問題への対応、米国との同盟関係の強化などの功績は特筆すべきものであり、これらの重要性はますます高まっているといえる」とするコメントを発表しました。

また、経済同友会の櫻田代表幹事は「中曽根元総理は『戦後政治の総決算』を掲げ、さまざまな改革に道筋をつけてきた。2005年に経済同友会で行われた講演では『今われわれがどこに位置しているのかを、歴史の座標軸の中で見極める必要がある』と発言され、国家の基本政策を構築する重要性を強調していた。課題先進国である日本は、元総理による本質的な問いに真摯(しんし)に向き合い、将来への展望を開いていかなければならない」とコメントしています。

日本商工会議所の三村会頭「国益のため頑張られた」

日本商工会議所の三村会頭は記者団に対し「亡くなられたと聞いて本当に驚いている。私は中曽根さんを囲む経済に関する研究会に参加していて、その中で非常に印象に残っているのが『政治家は歴史という法廷の被告人である。評価は後世に任せて、自分の信じることを力強く実行することが政治家の役割だ』ということだった。私心なく国益のために頑張られた政治家だった」と述べました。

また、経済政策については「JRの民営化は、いいことだったと思う。NTTもそうだが、民営化以前とは格段に業績もサービスもよくなっている。民営化をめぐっては、いろいろな抵抗が世の中全般からあったが、見事に政治家として乗り越えられたことも立派な功績だ」と述べました。

さらに、三村会頭は「中曽根さんが総理大臣に就任して最初に訪問した国は韓国だった。そのとき、カラオケを韓国語で歌ったと聞いている。そうした姿勢が反日感情が厳しかった中でも、関係改善に結び付くという感覚をお持ちだったと思う。今の日韓の情勢を見て、中曽根さんなら、おそらく『対話をしろ』と言ったと思う」と述べました。

渡辺恒雄氏「彼以上に敬愛した人物はいない」

中曽根氏と親交の深かったことで知られる読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄氏(93)は「中曽根さんの逝去は、私にとっては親の死と同様のショックです。私が平記者、中曽根さんがまだ陣笠代議士の頃から、毎週土曜日には決まって読書会をして、良書を読みあさった。夜二人で酒を飲むときも、話題は読書の話、政治の話ばかりだった。あのような勉強家、読書家は他に知らない。小泉首相の時、勝手に国会議員定年制を作られ、国会議員を八十五歳で無理矢理引退させられた時は、本当に憤慨していた。質素な生活にも感銘していた。私にとって彼以上に敬愛した人物はいない」というコメントを出しました。

ウシオ電機 牛尾会長「先端の世界知り政治で実行」

中曽根政権で政府税制調査会の特別委員などを務め、その後、経済同友会の代表幹事を務めたウシオ電機の牛尾治朗会長は、中曽根元総理大臣の死去について「行動力をもって常に自分の感性で最も先端の世界を知り、それを政治として実行する珍しい人でした。ああいった人は当分は出ないのではないか」と述べました。

牛尾氏はアメリカの大学に留学経験があり、事業を通じて豊富な人脈を持っていたことから、当時のアメリカの情報化社会に向けた動きや軍事関連の最新の情報を頻繁に中曽根氏に伝えていたと言います。

牛尾氏は「僕がアメリカから帰って近代軍事について話をすると、その翌日には当時の防衛庁の幹部に確認するなどしていた。そして『非常に参考になった』と電話をもらうこともあり、反応の速い人だった」と述べました。

また、「新しい考えを持った日本の学者やジャーナリストの助言を聞くだけでなく、そういった人が持ち帰ってきたアメリカの考え方を、よいものはダイレクトに自分のポリシーとして採択する。そういう意味で非常に近代化された人だった。いろいろな形で協力したが、中曽根さんの内閣は変革を実行した内閣だったと思う」と述べました。

地元の資料館に献花台

亡くなった中曽根元総理大臣の政治活動に関する資料などを展示している高崎市の施設では、献花台の設置が進められ、手を合わせる人の姿も見られました。

中曽根元総理大臣の出身地の高崎市には、中曽根氏がかつて自宅と政治活動に使っていた建物や、政治活動に関する資料を展示している施設があります。

施設では、30日から献花を受け付けることになり、29日は献花台と記帳台を設置する作業が進められていました。死去の知らせを聞いて早速、施設を訪れ、献花台に手を合わせる人の姿も見られました。

訪れた91歳の男性は「中曽根先生はとにかく日本再建のために頑張ろうと、きょうまでそれだけを考えていた立派な方でした」と話していました。

中曽根元総理大臣の元秘書で、施設を運営する公益財団法人「青雲塾」の新井敏則事務局長は「とても優しい人でわかりやすく話をしてくれた記憶があります。最後に会ったのは2年前にこちらに来たときで、その時は、はつらつとしたあいさつをいただきました。知らせを聞いたときにはつらく、いよいよ来てしまったかと、がく然としました」と話していました。

母校の高崎高校には直筆の書も

亡くなった中曽根元総理大臣の母校、群馬県立高崎高校には直筆の書が掲げられています。

縦およそ80センチ、横およそ2メートルの大きさで、「人生開拓」と書かれ、高崎高校の校長室に飾られています。高校によりますとこの書は、昭和58年に当時、総理大臣だった中曽根氏が母校の高崎高校を訪れ、生徒たちに講演を行った際に贈ったものだということです。「志を持って人生を歩んでほしい」という高校生へのエールが込められているということです。

加藤聡校長は「中曽根元総理大臣は高崎高校のシンボル的な存在で生徒たちには志を持って羽ばたくことの大切さを残してくれたと思います。自分たちの高校の大先輩に偉大な方がいたことを生徒たちに改めて感じてほしいです」と話していました。

日の出山荘の管理人は

東京・日の出町にある「日の出山荘」は、中曽根康弘元総理大臣のかつての別荘で平成18年、町に寄付されました。

記念館として整備され、昭和58年にアメリカのレーガン大統領との日米首脳会談が行われた茶室「天心亭」や、中曽根氏の書や俳句などが一般に公開されています。

管理人の原清さんとヨネ子さん夫妻は、中曽根氏が別荘として使っていた当時から50年近く管理にあたっています。

中曽根氏は記念館となってからも、たびたびこの山荘を訪れて来館者と交流したり、原さん夫妻と飲食をともにしたりしたということです。

原ヨネ子さんは「中曽根さんは、ここがあったから総理の5年間を務められたと話していました。来館者との記念撮影にも気軽に応じるなど気さくで優しい人柄でした。中曽根さんが亡くなったと知ってことばになりません」と話していました。

町では、30日から来月6日までの1週間、入館料を無料にして献花台と記帳台を設けることにしています。

東京 新橋では

中曽根氏が亡くなったことについて、東京・新橋駅前で話を聞きました。

76歳の男性は「戦後が終わったという印象です。戦後復興してきたのは中曽根さんの力が大きく、復興を成し遂げて国のためによくやってくれたと思います」と話していました。

また、81歳の男性は「政治というと少し汚い部分もあるのでしょうけど、あまりそういうのを感じない人のように見えました。昭和が本当に終わったなと感じました」と話していました。

一方、沖縄県の64歳の男性は、「日米軍事同盟を大事にしていた人だったので沖縄には犠牲を強いているような印象を持っていました。私としては憤りを感じていた政治家でした」と話していました。