和天皇 拝謁記 軍の
求めでも皇太子の任官許さず

昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、11歳の時に軍に任官した昭和天皇がみずからのつらい経験から、皇太子だった上皇さまの軍への任官を遅らせたことなどが記されています。専門家は「青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。

「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務め、在任中、600回余り延べ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
「拝謁記」には、昭和天皇が当時、東宮(とうぐう)、皇太子だった上皇さまを「東宮ちゃん」と呼び、気にかける様子がたびたび記されています。

「近くに住まわせたい」

上皇さまが学習院中等科3年生だった昭和24年11月8日の拝謁では、お住まいの東宮御所の建設場所について「宮城(きゅうじょう)内又ハ近接ノ地ノ方考ヘラレヌカ。/実ハ東宮御所ハ私ノ所ト近イ所ガヨイト思フ。容易ニ交通シ得ル所ナラバ別ニ宮城内トハ限ラヌガ可成(なるべく)近イ所ガヨイト思フ」と、なるべく近くに住まわせたいと話したことが記されています。

昭和天皇はその理由として、自らが若い頃、イギリスを訪問した際、のちの国王エドワード8世から父・大正天皇とどのくらい会っているのか聞かれたエピソードをあげ、「其頃は一週一度位デアツタ故忠孝ノ国トイハレル日本トシテ返答ニ苦シンダ事ハ今ニ私ハ忘レヌ。皇太子ガ何レ(いず)外遊スルデアロウガ其時又私ト同ジ苦シイ返答ヲサセタクナイト思フカラダ」と語ったと記されています。

「軍の求めでも皇太子の任官許さず」

さらに「拝謁記」には、上皇さまが皇太子時代に、軍人になることなく、11歳で終戦を迎えられた理由も記されていました。

戦前、皇太子は原則として満10歳で陸海軍の少尉に任官するとされていて、昭和天皇も明治天皇の死去に伴って皇太子となった11歳のときに任官しましたが、昭和天皇は軍から求められても皇太子の任官を許しませんでした。

その理由について昭和天皇は、上皇さまの成年式と立太子礼が行われた翌月昭和27年12月18日の拝謁で、「私は十一位(くらい)で少尉となり立太子後ハ直(す)ぐ東宮武官といふものが出来た。私ハ武官程いやなものはないとしみじみ思つた。殆んど軍のスパイで私の動静ノある事ない事を伝へるだけの者でこんないやな者ハない」と任官後のつらい経験を振り返りました。

そのうえで、「立太子礼を行へば東宮職内ニ東宮武官が出来るから私ハ立太子礼を成年後ニ延さうと終始考へてやつて来たので戦争中からずつと其積りであつたのだ」と皇太子に同じ思いをさせたくないという理由を語ったと記されています。

専門家「青年将校から皇太子守りたい考えか」

象徴天皇制に詳しい成城大学の瀬畑源非常勤講師は「皇太子が軍人になることは戦意の高揚につながるし、国民みんなに戦争に協力させる旗印にもなるので、当時の東條英機総理大臣は戦争遂行のため皇太子を早く軍人にしたいという意向だったが、昭和天皇がそれを拒んでいた理由が結構プライベートな話だったというのは驚いた。昭和天皇は、青年将校への不信感や皇太子の教育に悪影響を及ぼすおそれを感じ、できるだけ任官を遅らせて軍部や青年将校から皇太子を守りたいという考えがかなり強かったのだろう」と話しています。