二・二六事件
海軍極秘文書を発見

戦前、陸軍の青年将校らがクーデターを企て、政府要人を殺害した「二・二六事件」について、事件の発生から収束までの4日間を分単位で記録した極秘文書が残されていたことがNHKの取材でわかりました。
当時、海軍が記録したもので、青年将校と軍幹部の動きややり取りなどが細かく記されており、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

今回見つかった資料は、昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが天皇中心の国家を確立するとしてクーデターを企て、政府要人ら9人を殺害した「二・二六事件」について、海軍が当時記録した内部文書です。

文書には「極秘」の印が押されていて、事件発生から収束までの4日間について、海軍が現場で把握した情報が分単位で記録されています。

このうち、発生からおよそ2時間後の2月26日午前7時に記された第一報とみられるメモは、「警視庁」「占領」、「総理官邸」「死」など、なぐり書きの文字が並び、その衝撃の度合いがわかります。

事件の鎮圧には青年将校たちが所属した陸軍が当たりましたが、海軍は陸軍の司令部に連絡要員を派遣したり、現場に「見張り所」を多数設置したりして、青年将校だけでなく、陸軍の動向も監視していました。

2日目、2月27日の午後6時半の記録には、陸軍の幹部が青年将校らについて「彼らの言い分にも理あり」と理解を示し、「暴徒としては取り扱い居らず」と発言をしたことが記され、陸軍の対応に一貫性がなく状況が複雑化していることに対し、海軍が警戒していた様子がうかがえます。

さらに事件が収束する前日の2月28日午後11時5分の記録には、追い詰められた事件の首謀者の1人、磯部浅一が天皇を守る近衛師団の幹部と面会して、「何故(なぜ)に貴官の軍隊は出動したのか」と問い、天皇の真意を確かめるかのような行動をしていたことも詳しく書き留められていました。

そして最終日、2月29日の午前8時5分の記録には、海軍の陸上部隊が防毒マスクまで装着し、「直ちに出撃し、一挙に敵を撃滅す」と決心したことが記載され、この直後の青年将校らの投降がなければ、市街戦に突入して東京が戦場になりかねなかった緊迫の記録がつづられています。

「二・二六事件」は、これまで青年将校らを裁いた特設軍法会議の資料など事件後にまとめられた記録が、主な公文書とされてきましたが、今回、見つかったのは事件を同時進行で詳しく記録したもので、専門家は近代日本を揺るがした事件の新たな側面を浮かび上がらせる第一級の資料だと指摘しています。

軍事史に詳しい大和ミュージアムの館長、戸高一成さんは、「二・二六事件は軍人によるクーデターだが、陸海軍という2つの大きな組織のなかの陸軍サイドのみがほとんど見られて、海軍側の資料がなかった。今回資料が発見されたことで海軍が事件のかなり大きな要素を握っていたことがわかった。特に、海軍は習慣で、時間を丁寧に記載するため、事件の推移がリアルタイムで書き残されているのは貴重だ」と指摘しています。

そのうえで戸高さんは「今後、文書を精査することで二・二六事件の全体像がさらに明らかになる。事件の研究にこの資料が使われていたら、事件の全体像についてもう少し違う見方もあったかもしれず、全体の筋書きのなかで、非常に重要な部分を埋める資料になる」と話しています。

昭和天皇 事件拡大を懸念する発言

昭和天皇の発言は、海軍の作戦を統括する軍令部のトップ、伏見宮・軍令部総長との事件発生当日のやり取りとして記録されていました。

昭和天皇は「上」と記され、「艦隊の青年士官の合流することなきや」と述べ、軍令部総長に対し海軍の青年将校たちが事件を起こした陸軍の部隊に加わることはないのかと、懸念を示していました。

これに対し、軍令部総長は加わることはないと答えますが、昭和天皇は事件に対処するため出動した海軍の陸上部隊について、「指揮官は部下を十分握りえる人物を選任せよ」と指示し、指揮官の人選にまで注文をつけていたことが記されていました。

二・二六事件の際、昭和天皇は断固鎮圧を貫いたとされていますが、発言からは、海軍まで企てに同調し、事件が拡大することはないか懸念していた様子がうかがえます。

天皇制に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は「昭和天皇は、二・二六事件が自分に対するある種のプレッシャーだと感じていて、海軍でも同じような動きがないか心配していたことを示していると思う。疑心暗鬼になっていたが、『加わることはない』と言われたからこそ、自信を持って陸軍に強くあたることができたのではないか」と話しています。